白紙に虫 13

 本当に読むつもりで要求したのか。他に何か目的となるようなことがあるだろうか。勘繰れば次のワークショップで目の当たりとするやもしれぬ文倉の、無下にできない愛想笑いが野津川の心をざわつかせた。

 しかしながら部屋を出る際、メールサイトに疾病センターの掲示板をチェックできたことは賢明といえよう。

 オールグリーンでバスに揺られる。

 たどり着いたホールの事務局前で文倉の姿を目にし、アイコンタクトそのもの会釈し合った。

 数人の参加者に混じりパイプ椅子を掴み上げる文倉が軽々しく声をかけてこないのは、おそらく先週、話した「ルール」を意識しているからだ。

 空は曇りがちだったが雨の心配こそいらなかった。

 いつも通りとそれぞれ芝の円に加わる。

 冒頭、先週の不備を詫びるワークショップリーダーはリーダーらしく落ち着いており、ワークショップの最後では「いつもならここでお隣の方の手を取っていただくところですが、わたくしからさせていただきたいお話があります」と切り出していた。そうして自らも発症したことを皆へ堂々、告白している。

 動揺というほどのものではなかったが、参加者の間にちょっとしたざわつきが生じたことは事実だ。もしや自分たちが感染させてしまったのではないか。誰がいつ、どのタイミングで発症するか知れず、そもそもそういうものではないと医者から聞かされていようとも、原因不明の難病には違いはない。重大な責任を負わされたようで無関係だと聞き流すことこそできはしなかった。

 しかしながらワークショップリーダーは、まだしばらくこのワークを率いることを話している。確かに回を重ねることでワークショップには文脈というものができあがっており、汲んで配慮し、ワークショップを組み立てるリーダーをそう簡単に挿げ替えることはできなかった。それはこれまでの告白を全て捨て去ることに等しく、続行を決断したリーダーの存在は参加者にとって心強い限りとなる。

 ただリーダーの家族らはあまりいい顔をしないかもしれない。思い、また余計なところへはみ出た想像に野津川はフタをした。

「野津川さん。びっくりしましたよ、リーダー」

 椅子を戻しに向かった先でだ。初めて文倉から話しかけられる。

「だから先週、休みだったんでしょうね」

「俺たちに囲まれてる人がああなると、また世間というか風当たりが強くなりはしないですかね」

「うん、ぼくもそれを」

 かわしながら次の予約を済ませる。やはり予約票に記されていた通し番号は一桁だ。皆、未来には本当に控えめらしい。

「そういえば文倉さん、今日、お迎えは」

 確認した予約票をカバンへ押し込み野津川は投げた。

「言ってきました。一時間ほど後になってます」

「じゃあ」

 言ったところでニッと笑った文倉の靴先が、再び中庭へ向けなおされる。

「読ませてもらいましたよ。野津川さん、適当なこと言ったと思ってたんですか」

 身のこなしはすでに軽く、首周りからアゴへ反射する光を文倉は装飾品のように揺らしていた。

「つまりやるんだ」

 ボクシングである。

「ワンツー、いきましょ。野津川さんっ」

 げんなりする野津川の前へすかさず回り込んだ文倉は、まさに蝶のように舞い蜂のように刺す素早さで小さく拳を放っていた。

「ワンツー。あ、先生はなんて」

 思い出して傾げる首こそわざとらしくて仕方ない。

「そんなの聞いてませんよ」

「おっしっ」

 振り上げて決めたガッツポーズに野津川は、せいぜい心の中で「エイドリアーン」とアテレコしていた。

 経て目にした景色は同じはずも、まるきり変わって見えている。胸の内を吐露する芝は今や汗を流すべく場所と広がり、だから先週からおかしいと言っているのだ。病院の真っただ中で互いは堂々、準備運動を始めた。

「ものすごい量が来たらどうしようかと思ってたんですよ」

「そうでした。分量のこと、何も話さなかったので」

 言葉をかわしながら文倉が五回跳ねる間に野津川は三回跳ねる。

「でもっ、問題なしでしたから」

「恐縮、ですっ」

 ラジオ体操さながら体側を伸ばして大きく腕を振り上げた。終えたところで体をねじり腰をほぐす。文倉は先週と同じスウェット姿だが、そもそもワークショップのために来ているのだ。チノパンにチェックのシャツの上からパーカーを羽織っていた野津川は、そこで邪魔になったパーカーを脱いだ。文倉を真似て開いた股の間へ肩をねじり入れて股関節を緩め、左右、交互に胸へと腕を引き寄せ肩のストレッチも行う。終えたところで小説なんですけれど、と口を開いた文倉へ振り返った。

「フォーム、チェックしておきましょうか」

 言われるまま先週、手ほどきを受けたばかりのファイティングポーズを野津川はとる。その下がった拳の位置に浮いたアゴの角度を、押せば倒れてしまいそうな足幅に腰の位置を、文倉は不細工な彫刻を手直してゆくかのように調整しなおしていった。

「なんだか意外でした。ムズカシイのがくると思ってたんですよ」

「まさか」

「本棚で百科事典と並んでるようなヤツ」

「それはかいかぶりすぎでしたね」

 そうして完成したポーズから野津川に、ゆっくりパンチを打たせた。利き手と逆の短いジャブと、体のひねりを使った利き手のストレートを念入りに、正しい重心移動を体へ覚え込ませるように繰り返させる。終えたところで忘れないうちにと、ミット打ちの真似ごとだ。的に代えた手のひらを、顔の横へ開いて文倉はパンチを誘った。

「最初は、ジャブだけで」

 それは遠目に見るとおそらく相撲でも取っているかのような具合だったろうと思われる。それでもおっかなびっくり、かざされた的へ野津川は拳を放った。

「いや重心が逆。拳と同じ足ですよ」

「えっ」

「あれじゃ、主人公が気になるしかないじゃないですか。はい、こっち」

 急に振られてそれこそ手足を絡め、容赦ない文倉に次を促され野津川はどうにか繰り出す。そのさい「シュッ」と文倉は掛け声もまた放つが、もたつく野津川の前でそれはネコを追い払っているかのようにしか聞こえてこない。

「へっぴりじゃ当たりませんよ。俺を突き倒すつもりで。野津川さん、はいっ」

「言っても」

 仕方なくジャブらしきものを再度、野津川は繰り出した。だが確かに拳を突き出した瞬間、腰は引けるとイヤイヤをしているかのような態勢になり、まさに女子の放つネコパンチをなぞる。グローブをはめてない打撃音も加えてぺちぺちと、なんだか大変頼りない。

 行き交う人がチラリ、チラリと様子を見ていた。無論、咎める気はない。むしろコレ、見世物なんです。今さら恥ずかしさに襲われ野津川は「誰」ではなく、この状況に憤怒する。

「なんなんですかコレ、もうっ」

 呻いて新たにかざされた的へ思いを打ち込んだ。

 そのとき初めて重心は踏み込んだ足と拳に乗った様子だ。

「お、今のいいですね」

 文倉が表情をほころばせる。

「なんせ、書いている人間がっ、人間ですからっ」

「それ、ね」

「鬱展開、上等ですよっ」

「ふて寝とか」

 掴み始めたコツに、拳を誘う文倉ともようやく息が合い始める。

「思い出します。野津川さん、ちょっと休みましょう」

 促す文倉が率先してダラリ、両腕を下げた。だがそんな文倉の休みといえば、ままにその場で二度、三度、跳ねた程度で終わりを告げる。それは野津川にとって休み、とは言わなかった。

「で、どうなるんですか」

 知ったことかと文倉は、もうアゴの高さに手を広げている。目にすれば反射的と、そこへ野津川は拳を叩きつけていた。

「書いてないですよっ」

 様子はすでに文倉の犬。いや理論的にはパブロフの犬だ。

「え」

「止まってるんですっ」

「じゃ、次、ストレート。ワン、ツーでいきましょう」

 絶妙な間合いで文倉は指示を繰り出す。

「ワン、はい、ツー。ガード意識して」

 そうして放った初めてのストレートは空振りに近く、文倉はといえばあざ笑うかのように後じさると、次を誘ってひたすら器用に芝を逃げていった。

「いや、どうしてですか」

「どう、って」

 動く相手を狙うなど難しすぎる。

「止まってるって。ここ。ワン、あ、ツー。遅いっ、腕は素早く引き戻すっ」

 ああ、注文が多い。

 そしてネコパンチだろうと打つたび踏ん張ってきた野津川の足ももう、上がらなくなっていた。それでも軽快にあおり続ける文倉は人をおちょくっているかのようで、自費出版の原稿が不採用だったからです、野津川は吐き出す。

 やはり文倉はヘンな奴だと思う。

 ならこっちは最後まで書きましょうよ。

 息を切らしてへたり込んだ野津川へ、あの人懐っこい顔でけしかけた。付き合わせるのは申し訳ないから、と野津川が言っても、あのままじゃあ中途半端だと折れてくれない。

 果たして「中途半端」が未完のことを指しているのか、腐ったままの主人公を指しているのかは不明だ。それほどまでにへっぴり素人相手だろうとボクシングが、いやほとんどその体を成してはいないが、出来ること嬉しいのか。

「続き、か……」

 そのうち名物となって芝に人が集まってくるんじゃなかろうか。

 病人なのにあろうことか筋肉痛だ。変なところが痛んで野津川は戻った部屋で風呂に入り、その間にも出来上がった洗濯物をベランダへ、上がらない腕でどうにか干した。

 もう夕方だったが乾けばそれでコト足りる。

 汗にまみれていたシャツにチノパンが、実に心地よさげと風を受けると揺れていた。眺めていれば妙な充実感は満ちてきて、お気に入りの景色へと目を向ける。

「書けるかな」

 体調のことも筆の運びも心配しかない。

 なだめるでもなく夕げの明かりを灯し始めた街並みは、そんな野津川の前で大人しく夜に飲み込まれようとしていた。遠く囲う山も輪郭を失いつつあったなら、今日も一端よりサーチライトかと放たれる光をなおさら際立たせてゆく。

「野球場かな……」

 呟いたとたんブルッ、と野津川は身を震わせた。光となって散る前にだ。風邪に召されてしまってはたまったものでない。

 部屋へ戻りノートパソコンの電源を入れた。灯る画面に現れたのは縦書きの原稿用紙画面で、真っ白な片側に数行、打ち込んだきりの文字は身を寄せている。

 数週間前までそれは意味を成さず、群れ成すただの虫だった。だがおそるおそるのぞき込めばその場所で、あろうことか息を吹き返して虫たちは、プルプル身を震わせ始める。まさか、と目を見開いたその時だった。力をたくわえ虫たちは、セロハンのような<ruby>翅<rt>ハネ</rt></ruby>をぱっ、と広げた。

 あっ、という声を上げるまもない。

 一斉に飛びたつ。

 視界は覆われ、勢いに風が強く吹き抜けていった。のみならず腰かけていた野津川の体もまたその風で、ひと思いとさらってゆく。さらい虫たちの世界へと連れ出していった。

 光景に野津川は目を見張る。

 止まっていた物語だ。

 そのとき意味は開けると、物語は音を立てて動き出していた。

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