白紙に虫 12

 連れ立ち向かった中庭は今日も日差しを浴びて、芝を青々と光らせている。

「病院に賑わいがあるっていうの、まだちょっとしっくりきてないんですよね」

 囲って通路は伸びると、今日も職員や出入り業者を往来させていた。挟んで建つ二棟のうちの一方が病棟であったなら、車椅子を押されて語らう患者や、点滴を吊りながら芝で日向ぼっこする患者。リハビリを兼ねてだろう、寝間着姿でゆっくり散歩する患者もそれ以上に行き交っている。そうして集まれば痛んだ体だろうと活気は醸し出され、どうにもちぐはぐな印象は確かとあった。

「さびれているより、ほっとできてぼくは好きですけれどね」

 紛れて歩く文倉の、襟足からのぞいていた光は太陽光に力負けしてもうほとんど目たない。背中だけの野津川などなおさら健常者そのもので、まさに賑やかしと歩いた。

「ああ確かに俺、最初、ビビってましたから。陰気で暗い牢屋みたいなところだったらどうしようかと」

 などとその妄想は、中世のおとぎ話かなにかに出てくるヤツだ。

「さっき、ワークショップに参加されて二カ月目と聞いたんですけれど」

 切り出して遊ばせていた手を文倉は、モッズコートのポケットへ突っ込む。

「その、いつから、なんですか」

 口調は曖昧だが、何が、を察するには十分だろう。

「だいたい三か月前です。ただ背中なので気づいたのが、って話で。こういうとき誰かと一緒に暮らしていたら違っていたんでしょうけど。独り暮らしなもので」

 返して野津川は正面からやってきた車椅子へ道を譲った。同様にかわした文倉もしみじみうなずき返す。それでいてふい、と話題を変えもした。

「そういうの、ありますよねぇ。俺のこと覚えてますか。先週のワークショップで自己紹介させてもらったんですけれど」

 などとワークショップは上の空で過ごしていたような野津川だ。正直、覚えがない。思い出せることがあるとすれば芳しくなかったその一部始終よりも、偶然目にした窓口前の楽し気な様子だろう。しかしながら盗み見ていたに等しいのだから言えるはずもなく、思案する素振りでしばし口ごもる。なら「気づいたのは」と文倉の方から話し出していた。

「ひと月前で、みぞおちの左辺りからでした。これが痛くも痒くもないんで参りますよね。だってのに、いやでも目に入るもんだからメンタルの方がよっぽど病む具合で。とにかく診断書はもらっておかないとって来たのが最初です。お先真っ暗、って顔してましたよ。いや実際、そうだったから。でも今、考えるとそんな自分こそ明々光ってたわけなんですけど」

 締めくくる文倉に思わず野津川は吹き出す。

「申し訳ない」

 ひっこめるが、言い出した方こそ文倉だった。

「どうですか」 

 証拠にほっ、とした面持ちで芝の上、陽を浴びているベンチを指さす。

 腕時計を確かめた野津川は、うなずき返した。

 二人して湯船にでも浸かるような具合だ。日にかわってベンチへ腰かける。それきりあてなくまったりすれば、まったくもって妙な具合だった。何しろ会ったばかりに等しい誰かと、それもおそらく同じ病を患っていなければ話す接点もなさそうな相手とである。こうして日向ぼっこしているのである。まったくもって根拠がなさすぎた。それは唐突と、しかしながらさもありなんと始まる夢そのもので、いったい何をしているんだ、失笑をかみ殺す。だとすればもしかすると。過らせもした。見ている誰かが目覚めれば欠片も残らず消えてしまう、これは夢ではなかろうか、と。近いうちに死ぬらしい自らの危うさに、まんざら嘘でもないような心地を漂う。ほどにこれからのことが、増してこれまでのこともまただ。現実味に欠けていた。

「本当のところ実感はないんです」

 声に驚かされる。

 いつからかぼうっと空を見上げていたらしい。言う文倉はもう、いくらか話し終えた後だった。

「ワークショップも自分からじゃないわけですしね。その……」

 それでも濁した言葉のワケこそ伝わって止まない。

「進行は一般より遅いらしいです」

 迷わず野津川は言葉を継いで教えてやる。

「俺も……、ゆっくりな方で」

 明かす文倉の口調には、よかった、という気持ちがにじんでいた。隠してすぐさまニッと笑えばそれはもう、すでに文倉らしいと野津川の目へ映る。

「俺も来週から無口になりそうですよ」

 言葉もろとも、長い足を投げ出した。

「なったからって、何も変わらないんですけれどね」

 続けさまうーん、と背伸びし「最近どうも、隠せなくなってきてるんです」と、言葉もまた紛らせる。

「毎日こんな風に天気がいいと助かるなぁっ」

 張り上げた声はヤケクソに近く、脱力したついでに踏ん切りをつけてパン、と腿を打ちつけた。音に野津川は目を丸くし、おかげで気づいて、お、と身を乗り出す。

「文倉さん、その手」

 示せば元の大きさに縮んだ文倉もそこへ、え、と目を落とした。ああ、と目の高さへ拳を持ち上げ握ってみせる。

「プロでボクシングやってたんで、俺」

「ええっ」

 つまりそれは野津川の初めて見る「拳だこ」、パンチを繰り返すうち皮膚の角質が分厚くなってできたもの、だった。そこれこそモノカキのサガだ。滅多にお目にかかれないなら、手の甲に並ぶ関節を覆って赤く腫れ上がった皮膚のゴツさを、ついぞまじまじ観察してしまう。感じずにおれないのは「迫力」だろう。至るまでにある凄まじい鍛錬はひたすら野津川を圧倒した。

「ウェルター級です」

 教えた文倉がやおら立ち上がってみせる。絞めた脇で小さく構えると二振り、三振り。素早くパンチを繰り出した。そのスピードも機械的なまでの鋭さも、真似ごとには終わらない破壊力がある、なにより捕食者のそれと一変した文倉の眼差しこそ、ただ者でない殺気を宿していた。

「すごいな」

「三度目の防衛戦が決まった所だったんですけどね。隠しようがないので引退しました。五戦、四勝、一分け。ジムでも期待されてて自信もあったんです。けど運がなかったみたいで」

 話しながらも文倉は、さらに見えない相手のスキを狙ってパンチを繰り出し続ける。

「だからって急にじっとなんかできないですよ。ジムへは通ってたんです。でも室内じゃあ目立ち始めて……」

 息が乱れることはなく、さらに放った数発が風を起こした。それでも動き足りない、と丸めた背を小刻みに振って相手からのパンチを避ける。入れ替わりで低い所から放たれた拳はまっすぐだった。と、ついに勝負はついたのか、それきりだらり腕を下げた文倉は、踏んでいたステップを緩めていった。 

「お仕事、行かれてるんですか」

 晴れ晴れした顔が野津川をとらえる。

「まさか。周りに迷惑かけちゃ悪いですから」

「あ、だったらやってみたりしませんか。これ、教えますよ」

 再びファイティングポーズをとる。

 いやはや、それこそ患者同士の会話だろうか。

「ジムだったら病気のことで気、遣いますけど、俺ら同士なら関係ないですしね」

 冗談じゃない。

「い、いえいえ。運動はあまり得意じゃないので」

 というかほぼ、やったことがなかった。野津川は手を振り返す。だが文倉には見えていないらしい。

「関係ないですよ。結構すっきりしますしね。試合じゃないですから滅多にケガなんてしないですし」

 ということはたまには何かあるんぢゃないか。滅多という響きになおさら野津川は全力で手を振り返す。

「いえっ。けっこうですっ。ぼくは根っからのインドア派なんで、遠慮しますっ」

 様子にはさすがの文倉も気づいたらしい。調子に乗りすぎたことを省みるような間はあいて、臨戦態勢を解いた文倉はおずおず野津川の隣へ腰を下ろしていった。

「なんだか、すみません」

「こち、らこそ」

 動き回ったはずの文倉こそ白い顔で、座っているだけの野津川の方がいつしか息を切らせている。

「そういえば野津川さんは俺と違ってそうですもんね」

 ちらり、野津川を見やる文倉の視線はといえば色々と厄介そうでならない。

「ただのオタクですよ」

 まとめて野津川はうっちゃり投げた。

「学生の頃からずっと小説ばっかり書いてたんです。ロクにスポーツなんてしてこなかったものですから。文倉さんがうらやましいです」

 とたん、えっ、と今度は文倉の方が伸び上がる番となる。

「小説とか書くんですか」

 様子はまるで先ほどの野津川そのものだ。

「趣味で、ですよ」

「へーえ。俺には絶対無理だ」

 そこにふざけた様子はない。つまりこのパワーワードはそれなりに見えないストレートを放ったのか。ならこのあと繰り出される攻撃もまた野津川には読めていた。

「じゃあ賞とかに出したり、あるじゃないですか。するんですか」

 ちょっとした尊敬と、多大なる好奇の目に晒されてみる。

「いえ、自分が好きでやめられないだけで、特には。はい」

 まただ、と思うが、自から明かしておいてあまりひねくれたことは言えやしない。ゆえに当たり障りなく返してみたもののこの手の問いかけに、そもそも競うためだけに物語は書かれるものなのか、と思いをまた巡らせる。

 もちろん無邪気なそれは社交辞令で、深い意味などないと知れていた。だが期待された答えが返せないのだ。彼らの前では脱落者になるほかなく、そんな己の無能さを遠回しに突き付けられているようで心中、穏やかではおれなかった。

「じゃあ誰も読まないのに、ですか」

「学生の頃は友人なんかが。でももうみんな忙しいですよ。早い奴なんかは結婚して子供もいたりしますから。付き合わせるのも」

 文倉はそんな野津川の話を神妙な顔で聞き入り、拳を放った時と同じ鋭さをいっとき瞳の中に過らせた。

「無観客試合かぁ」

 呟くたとえが面白いと思う。

「どんなもの書いているんですか」

 かと思えば食いつかれて、合わぬ調子に野津川はうろたえる。聞いてどうするんですか、こそ聞けないなら教えて言った。

「SFのような、ファンタジーのようなやつが多いです」

「俺、読みますよ」

 言葉に野津川は、文倉を見る目を一気に点へ縮ませる。いや自分でも知れるほどだ。しばし分かりやすく言葉をなくした。

「でも感想は期待しないでください。頭、悪いんで。ジムへ行くのもやめようと思ってましたし。だいたい誰も見てなかったらやる気も出ない、というか張り合いないでしょ。試合は歓声で気合、入りますから。それに……」

 九十分は、文倉がヘンな奴だということを理解するに十分な時間だった。

 代りにボクシングの練習をさせられる。

 芝の上でワンツー、と声を張り上げスパークリングする二人は、ド完璧に周囲から浮いていた。

 病院なのに。

 いや病人なのに。

 今日はやたら運動量が多いのは、どうしてだ。

 別れ際、野津川が、ハアハア喘ぐ間にも涼しい顔で予約票の端にメールアドレスをしたためた文倉は、ちぎってそれを野津川へ差し出している。

「送ってください。次のワークショプまでに読みます」

「で、またコレ、するんですか」

「野津川さん、スジ、良いですよ。パンチも重いし」

 それは体重のせいだ。

「いや、医者に止めてもらおう」

「あ、そうですね。確認しておいてくださいよ」

 楽し気な笑みが腹立たしい。

 ロータリーで別れた文倉は、バス停へ下りる野津川が振り返ったとき滑り込んできたタクシーへ潜り込んでいた。乗せたタクシーが傍らを通り過ぎるさい野津川は、後部座席に女性が同乗していることもまた目にする。

 先週と同じ彼女だ。

 髪型でわかる。

 だが表情まではよく見えない。


 変な約束をしたものだと思っていた。

 というか、約束をするなんてもうあり得ないと思っていたならなおさらだ。

 帰宅後の部屋で腹を満たし、野津川はそれでも何を文倉へ送信しようか考える。考えながら適度な、というより過度な運動の数々が効いたのか、妙に軽くなった体で部屋の掃除を始めた。洗濯機を回し、シンクを磨き上げ、両手にゴミ袋を下げ金網の向こうへ放り込む。流した汗に風呂へも入り、さっぱりしたところですっかり暗くなった窓を片側にノートパソコンの電源を入れた。

 どうせなら出版社からの返事を待つ間、書き始めていた物語の冒頭を送ろうと思いつく。昔、書いたものに愛着がないわけではないが、感想など言われたところでもうあまりピンときやしない。いずれにせよどれも長く、区切って送るしかないならリアルタイムで進行しているものがいいと定めた。

 まさかこれを人目に晒すなどと、思ってもいなかったことだ。だから送信する前に読み直しておいた方がいいだろうと気合を入れる。

 物語は主な登場人物がそろったところで終わっていた。

 どうにかまとめて送信できたのはワークショップから三日経ってからのことだ。もう少し早く送るつもりだったが読み直すうちにあれやこれやと手直ししたくなり、一日、二日と遅れたのが悪かった。

 手持無沙汰となれば、どうも狐につままれているようで落ち着かない。こちらから送った地点でアドレスは知れているはずも、それきり文倉から何ら返信がこないこともその原因だった。

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