第77話 それなら、期待させてもらいますね
「さぁて、期末テストが近づいてきましたねー」
駅前の学習塾の玄関を出て、昴小路は大きく伸びをした。すっかり暗くなった空を見上げ、すぐ隣を歩く犬飼に抱きつく。
「どうですか郁君。順調ですかー?」
「……まあまあ……だな」
「全く、素直じゃないんですから。僕が教えてあげてるんですから順調に決まってるでしょ郁君」
「わかってるなら聞くなッ!」
噛みつくように言い放つけれど、腕を解く気にはなれなくて。できたばかりの彼女にすりつくような昴小路に溜め息を吐くと、反対側から別の声が降ってくる。
「つか昴小路テメェ、離れろっつってんだろ! 何で毎度毎度……」
「……何で鎌取君もいるんですか。邪魔です」
即座に色を変える昴小路の声。本音を隠そうともしない彼に、鎌取は苛立ったように頭を掻いた。そのまま犬飼越しに昴小路を指さし、歩きながらガミガミと怒鳴りはじめる。
「本当にお前は何で毎度毎度、犬飼にひっついてンだよ。犬飼の迷惑とか考えたことねェのか?」
「鎌取君、その大っきな目は節穴ですか? 迷惑なんかじゃないですよ。ねー郁君」
「……」
二人の長身に挟まれ、犬飼は小さく息を吐いた。その瞳はただ静かに揺れながら、真っ黒なアスファルトを見つめている。十二月が近い風は冷たく、ダッフルコートに包まれた昴小路の体温はあたたかくて。何も言えぬまま、新宿の街を歩いていく。睨み合う長身に挟まれて、犬飼は思わず話題を変えた。
「……そういえば鎌取は普段から電車通学なんだよな」
「まァな。親は送迎する暇なんざ無ェっぽいし」
「え、運転手とか雇わないんですか?」
「ンな金があったら慈善事業に回してるよ、うちの親は。それと学費と生活費で家計はいつだって火の車よ、あの両親本当に大学教授かァ?」
やれやれ、と肩をすくめる鎌取。昴小路は犬飼の硬質な黒髪を撫でながら、四角く切り取られた空を見上げる。
「鎌取君もたいへんですねー」
「棒読みッ! つか小並感ッ!」
「……なんか、すまん」
「ンで謝んだよ犬飼! テメェなんも悪くねェだろ!」
「うるさいです鎌取君。というか邪魔なのでさっさと駅行ってください」
「はァ!?」
しっしっと片手を払う昴小路に、鎌取の表情が歪む。大きな瞳が、さっと犬飼の方に走った。当の犬飼は派手に溜め息を吐き、二人を交互に見上げる。
「お前ら、普段から喧嘩するなって言ってるだろ。何度言わせる」
「……すみません」
「……ケッ」
鶴の一声といえばいいのか、あっさりと言うことを聞く二人。新宿の空は真っ黒に塗りつぶされていて、十二月間近の風は冷たい。
◇
「そうそう、そんな感じで合ってます。郁君もやればできるじゃないですか」
「お前、それ毎日言ってるよな。いい加減うんざりするんだが」
犬飼邸の書斎の片隅の机で、犬飼は派手に溜め息を吐いた。問題を一つ解き終わると同時、壁掛け時計が九時を告げる。それを眺め、昴小路は犬飼の背……というか椅子の背もたれに寄りかかった。
「……ねー、郁君」
「なんだ」
天井を見上げ、昴小路は一度目を閉じ、開いた。ぐるりと振り返り、普段と何ら変わらない仕草で犬飼を抱きしめる。
「ちょっと
「別にいいが、限度はある。泊めないぞ」
「わかってますよ。……本当は同棲したいですけど」
「帰れ!!」
思わず怒鳴り声を上げる。しかし昴小路は気にする素振りも見せず、どこか寂しそうに、甘えるように喉を震わせた。
「……ご褒美が欲しいです」
「は?」
予想の斜め上からの言葉に、犬飼の喉から変な声が漏れた。昴小路は彼を抱きしめる腕を少しだけ強め、どこか祈るように言葉を紡ぐ。
「何でもいいんです。……ちょっとした
服越しに体温が伝わる。心臓の鼓動すら聞こえてきそうだ。否、彼の鼓動など気にする余裕がない。脳の回路がショートして、ただやかましく鼓動を刻む自分の心臓だけが。昴小路の声は続く。どこか泣きそうに……懇願するように。
「……少しくらい、いいでしょう?」
「……」
目を瞑り、焼き切れた頭を無理やりに回転させる犬飼。だけど服越しに伝わる体温がそれを邪魔して、心臓はひどくうるさくて。どう足掻いても乱されてしまう集中力に、犬飼は観念したように息を吐いた。
「……昴小路には普段から世話になってるからな。恩返しが、したいと思っていた」
「……っ」
小さく目を見開き、昴小路は息を呑んだ。ただでさえうるさい鼓動が余計に加速してゆく。背後から抱きしめる腕をさらに強めると、犬飼はそっと手を伸ばすように問うた。
「……何か、考えておく。期待していい」
幼子を背負っているような声に、昴小路はアネモネの花が開くように微笑む。いつものように犬飼の髪を撫でながら、慈しむように口を開いた。
「……それなら、期待させてもらいますね……待ってます」
◇
「ふんふふーん」
「何だァ、昴小路? 朝からテンション高ぇな。キメェ」
翌朝。席に着くと、斜め前の席から聞き慣れた声が飛んできた。すっと目を細め、若干頬を膨らませつつ言い返す。
「キモいはないですよ人に向かって。人の嫌がることは言うなって習わなかったんですか?」
「理屈っぽいなこの野郎……何だよ、犬飼となんかあったのか?」
「ありました!」
いいことがあった子供のように無邪気な笑顔に、鎌取は呆れたように息を吐いた。やれやれ、と肩をすくめる彼に、昴小路は鼻高々に語り出す。
「いやー『恩返しがしたい』って言われちゃったんですよ! 『なんか考えとくから待ってろ』って! こんなに嬉しいことはないですよ、どうですか羨ましいでしょう!」
「何マウント取ってやがンだよ……つーか」
再び溜め息を吐き、鎌取は半目で昴小路を見つめる。嬉しそうに頬を紅潮させた彼に、鎌を振り下ろすように言い放った。
「――お前、犬飼の迷惑とか考えたことねェのかよ」
「……はい?」
笑顔が引きつる。それは背後からの銃撃のようで、気付かぬうちに大きくなっていた腫瘍のようで。体温が急激に下がっていく、心臓の鼓動がなりを潜めていく。思わず視線を落とす昴小路に、鎌取は追撃するように続けた。
「考えたことあンのかよ……犬飼がどう思ってんのか。まぁ犬飼が何も思ってないって言うんなら俺も何も言わねェけどよ……正直、お前が一方的に愛でてるようにしか見えねェよ。ペットじゃねェんだから」
「……郁君は」
無理やりに出した声は、ひどく掠れて、震えて。血液が冷えて固まってしまいそうだ。片腕をもう片方の腕で抱きしめ、昴小路は鞭を打つように声を絞り出す。
「そんなことは、ない、ですよ」
「本当かァ?」
あくまで疑うような声色に、昴小路はふっと彼から視線を逸らす。心臓の鼓動は不自然なほど静かで、ただ惰性の体温が恋しかった。
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