第78話 言わなくてもわかるな?

「……」

「……?」

 暖房の効きが悪い犬飼邸の書斎には、ただシャーペンが走る音だけが響いていた。背後にいるはずの昴小路は妙に静かで、犬飼は思わず手を止める。思えば普段のようにひっついてくる体温も、からかうような言葉もない。シャーペンを挟んでノートを閉じ、振り返った。

「どうした、昴小路。今日、様子がおかしいぞ」

「……そんなことないです」

「体調でも悪いのか?」

「そんなことないですって」

 ぷいっと顔を背ける昴小路だが、茶色の瞳の奥には深海のような苦悩がありありと浮かんでいて。犬飼はそんな彼を眺め、針を刺すように言い放つ。

「お前の様子がおかしいと、調子が狂う」

「……そうですか?」

 その声もどこか湿っぽくて、彼には珍しく遠慮しているようで。どことなく胸がむず痒くて、犬飼はさらに言葉を重ねる。

「普段からお前のわけのわからない戯言に付き合ってやってるんだ。おかげでお前が黙ってるとなんか落ち着かない。というかこの一年半と少しで慣らされたんだ、八割がたお前のせいだろうが」

「……っ」

 茶色の瞳が揺れる。まるで存在を否定されたかのように。どうも普段の昴小路とは様子が違って、虫が羽ばたくように胸がざわついて。それを振り払うように、犬飼は口を開きかけて……ふと、昴小路と目が合った。揺れる瞳は縋るように、秋の川が流れるように。その唇が開き、かすかに震えた声が漏れ出す。

「……迷惑、ですか?」

「は?」

 昴小路は犬飼を見つめ、その視線は今にも泣き出しそうで。頭を掻き、犬飼は苛立ったように彼を睨む。そのまま鉄球を叩き込むように言い放った。

「あぁもう、鬱陶しい。言いたいことがあるならはっきり言えッ! らしくない」

「……わかりましたよ」

 俯き、昴小路は観念したように口を開く。その脳裏に電流のように走るのは、朝の鎌取の言葉。それは針のように的確に胸を抉ってきて、傷は未だにじんじんと疼く。全身を冒すような痛みを吐き出すように、昴小路は口を開いた。

「……僕は郁君のことを気に入って、郁君と一緒にいるようにしてます。だけど……それは僕の自分勝手でしかないんでしょうか? 僕に扱われることで、郁君は迷惑に思ったりしてないでしょうか……もしそうだったら、僕は、すごく悲しいです」

「……」

 昴小路の声には涙が滲んでいて、親に見捨てられるのを恐れる子犬のようで。そんな彼をしばし見つめ、犬飼は盛大に溜め息を吐いた。腕を組み、呆然とする昴小路へと言葉を叩きつける。

「そんな下らないことでいちいち悩むな、面倒な」

「下らないことって何ですか……僕にとっては大事なことなんですよ」

「いいか、よく聞け昴小路」

 直嗣です、と言い返すこともなく、昴小路はただ黙って犬飼を見つめている。犬飼はそんな彼をビッと指さし、息を吸い――理不尽な要求をするかのように、怒鳴りつけた。

「お前が普段からひっついてくるから、今みたいに様子が変だと落ち着かないだろうがッ! 俺をこんな身体にしたのは紛れもなくお前だッ! だったら取るべき責任ってものがあるだろうが、お前にはッ!!」

「……責任、ですか?」

「何首傾げてやがる、考えればすぐわかるだろうがッ! 普段は偉そうにしてるくせにこういう時だけ、お前ってやつは……あぁもう、何故わからないッ!」

 椅子の手すりを叩き、犬飼は立ち上がった。それでもなお昴小路の身長は自分よりはるかに高くて、だけれどその瞳はまるで子供のようで。林檎のように顔を真っ赤にしたまま、犬飼は叫びを叩きつける。

「何よりッ! 喜びの時も悲しみの時も、お前はしつこくそばにいた……いつだってお前がしつこくそばにいたから、いてくれたから、俺はッ!! いつの間にか、それが……それがッ!」

 指さしていた手を勢いよく下ろし、犬飼は昴小路の手を握る。その手は大きくて、それでも心細げに震えていて。犬飼の手の温もりに、昴小路の瞳から涙が一粒、二粒。愛する人に再会したかのように、昴小路は掠れた声で彼の名を呼ぶ。

「……郁、君」

「昴小路……俺が言いたいこと、言わなくてもわかるな?」

 ある種傲慢とも取れる言葉が、広い背中のように思えた。初めて握った犬飼の手は不思議と柔らかくて、頬を流れる涙は春の小川のようにあたたかくて。心臓が思い出したかのように鼓動を刻み始め、止まった時間が再び動き出すように、速く、強く、そして甘く。気付いた時には犬飼の小さな身体を正面から抱きしめていて、もう何も考えられなくて。

「……ありがとう……大好きです、郁君」

 犬飼が彼を抱きしめ返す感触があって、服越しに燃えるような体温が伝わる。涙が溢れて止まらない。雪解け水のように、渦潮のように。ようやく暖房が効いてきた書斎の片隅、子供のようにせぐりあげながら、昴小路は何度も彼の名を呼ぶのだった。

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