第76話 そういうのだったら、怒るぜ?

 御門邸の一室には、鉛のように重苦しい沈黙が流れていた。二つ並んだデスクには、頬杖をついて参考書を見つめている御門と、そんな彼を伏し目がちに見つめるクラレンス。ぐるぐると渦を巻くような沈黙の中、御門が参考書のページを捲る音だけが静かに響く。幾度か息を吸い、吐き、クラレンスは障子をそっと破るように口を開いた。

「……なぁ、タツヤ」

「何?」

 短い声。だけどそれはどこか震えていて、まるで成仏できない幽霊のようで。その目元のクマに目を凝らし、クラレンスは言葉を重ねる。

「お前、今日元気ないじゃん。いや、昨日オレがあんなこと言ったからかもしれねえけど……」

 膝の上で拳をぎゅっと握りしめる。窓の向こうの車の音が、ひどく遠い。御門の視線がクラレンスを突き刺し、参考書に戻る。ページを捲り、彼は他人事のように呟いた。

「……失恋した」

「……ッ」

 青い目を見開き、クラレンスの喉元で言葉が溶け消えてゆく。御門の横顔を見つめ、目を伏せ、俯いた。御門は天気の話でもするように言葉を紡ぐ。それは淡々としているようで、ひどく責め苛まれているかのようで。

「……僕、多分心が擦り減ってたんだろうね。普段なら爽馬には絶対言わないようなこと、言っちゃった……なんであんなこと言っちゃったんだろう。山田の言ってることは普通に正しいんだ……好きな人にあんなこと言うなんて、これじゃ僕、爽馬のこと幸せにできない。だから、手を引いた」

「……タツヤ」

「……ふふ、自分でも支離滅裂なこと言ってるね」

 呟き、御門は自嘲するように笑った。脳裏をぐるぐると巡るのは山田の容赦のない言葉と、罪を悔いるような神風の瞳。目を瞑ってしまいたくて、耳を塞いでしまいたくて、それでも背負わなければならない十字架で。

「とにかく、爽馬とは友達でいることにした。ただの幼馴染としてね」

「……そっか。うん、そっか」

 棘の痛みに耐えるような声に、御門は思わず顔を上げた。クラレンスは俯いていて、白い指先がかすかに震えていて。細かく震える肌を見つめ、御門の喉元で言葉が砕け散った。不意にクラレンスが視線を上げて、バチリ、視線が合う。青い瞳は薄暮の海のように輝いていて、耐えきれずに御門は思わず視線を逸らした。

「……辛かったんだな」

 辛かった、そんな言葉だけで表せるわけがない。そんな言葉が口をついて、慌てて飲み込む。同じ間違いは繰り返してはならないもので、しかもクラレンスは、御門のことが。

「……これ多分、オレが昨日変なこと言ったからっていうのもある、よな?」

「……え?」

 予想だにしなかった方向からの言葉に、思わず変な声が漏れる。クラレンスは両手で顔を覆い、深く俯いた。

「……オレがあんなこと言わなきゃ、タツヤがぐるぐる悩んだりもしなくて、こうなることもなかったのかもな……」

「……何さ。クレアらしくもない」

「うるせーよ!」

 勢いよく顔を上げ、クラレンスは噛みつくように言い放った。子供のように両手を振りながら、子犬が吠え立てるように畳みかける。

「オレだって悩むよ! 好きな人がウジウジしてたら悩むよ! もしかしたらオレなんかしちゃったかなーとか考えるよ! わかれよ!」

「まぁ、わかるけどさ」

 一つ頷き、御門は小さく息を吐く。目を閉じ、彼はどうでもよさそうに言葉を紡いだ。

「あー……どうしよ。新しい恋でも見つけた方がいいのかなぁ」

「……受験に集中するって選択肢はねえの?」

「クレアがそれ言う?」

 少しだけ口を尖らせ、御門はクラレンスから顔を逸らした。それでも瞳だけは彼を追っていて、心臓は期待するような鼓動を刻んでいて。

「……え、何?」

「『何?』じゃないよクレア」

「……?」

 小動物のような表情で頭上にクエスチョンマークを浮かべている彼に、御門はしびれを切らしたように椅子を蹴った。雷に打たれたかのように飛び上がる彼をビシィッと指さし、タコのように茹で上がった顔で叫ぶ。

「折角誘ってあげてるのに何なの!? クレアはバカなの!?」

「逆に誘ってたの!?」

 反射的に机に手をついて立ち上がるクラレンスに、御門は追い詰められた犯人のようにわめき散らす。その表情は茹でダコのように真っ赤で、指先は細かく震えていて。

「先に告ってきたのクレアじゃん! 普通に今までみたいに『オレを好きになればいいんだよ』とでもなんでも言えばいいじゃん!」

「いや、でもお前ソーマのこと好きだし……好きだったし、無理やりアプローチするのも違うかなって思って……」

「してよ! こっち失恋して色々とメンタルがどうしようもないんだよ!?」

「自覚あったのかよ!! っていうか失恋したのオレもなんだけど! お互い様じゃん!」

「そうじゃなくてさぁ!」

 細かく震えながら絶叫し、御門は手近にあった消しゴムを投げつけた。慌ててキャッチし、クラレンスはなだめるように両手を振る。

「一回落ち着けよタツヤ! すごくupset動揺っていうかconfusion錯乱っていうかdisorder無秩序っていうか……とにかくそんな感じなんだけど!」

「クレアだって混乱してんじゃん。disorderってなんなの本当に」

「……本当だ。一回深呼吸しようぜ」

「あ、うん」



「……さて、とりあえず状況を整理しようか」

 深呼吸して落ち着いて、座り直す二人。再び場に降りる重い沈黙を引き裂くように、御門は足を組む。

「クレアは僕のことが好きで、僕は爽馬のことが好きだったけど諦めた。つまりクレア的には今は大チャンス。そして僕がわざわざこの状況を整理してあげてるってことは、どういうことかわかるよね?」

「……まぁ、何となくは」

 あっさりと頷くクラレンスに、御門は足を解いて彼の青い瞳をじっと見つめる。対し、クラレンスは所在なさげに周囲を見回し、問いを投げかけた。

「でも、タツヤ。諦めたばっかでオレと付き合ったら、変な噂立てられない?」

「……僕が爽馬のこと好きって話は基本的にバレてないはずだけど」

「でも前にナオツグが『二人の仲の良さは鶴天でも有名なもので』とか言ってたぜ」

「……嘘でしょ」

 御門の表情が引きつる。脳裏に浮かぶのは、悪気の欠片もなさそうな昴小路の笑顔。飄々ひょうひょうとしたつかみどころのなさは、鎌取でなくとも恨みたくもなる。

「でさ、タツヤ」

 ふと、クラレンスの声は真冬の朝の風のような鋭さを帯びた。顔を上げると、彼の青い瞳は射貫くような光を湛えていて。全身に虹色の震えが走る感覚に、御門は唇を引き結ぶ。

「……もし『誰でもいいから慰めて』とかそういうのだったら、怒るぜ?」

「……」

「『オレがいい』って言ってくれないと嫌だ」

「……」

 思わず視線を逸らし、御門はカーペットを見つめる。ふっと失笑を漏らし、彼は口を開いた。

我儘わがままなんだね。クレアって」

「……お前もな」

 つられて表情をほころばせ、クラレンスも肩を揺らして笑いだした。そんな彼を見つめ、御門は猫のように伸びをする。読めない笑みを浮かべ、悪戯っぽく頬に手を当てた。

「……まだ言わないよ。クレアが僕のこと本当に好きにできたら、言ってあげる」

「……?」

 クラレンスは数度ぱちぱちと目を瞬かせ、理解しようと黒い瞳をじっと見つめ――唐突にハッと目を見開き、叫び声をあげた。

「はぁあー!? なんなのタツヤ!? そーゆーの日本じゃ『かまちょ』って言うんだろ!? なんなの!?」

「うふふ」

「うふふじゃねーっ!!」

 火を吐くように叫ぶクラレンスを、御門は薄く笑って流す。今はただ、こうやってバカなことをできる時間が、ただありがたかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る