第51話 お前に、気を遣われる、筋合いは無い

「郁君郁君ー!」

「ひっつくな……って、抱きつくなッ!」

 広島の空は眩しすぎず曇りすぎず、適度に晴れている。白い雲に彩られた青空のもと、昴小路は嬉しそうに犬飼の身体に手を回した。即座に跳ね除けられるも、彼は尻尾を振る大型犬のような笑顔を絶やさない。懲りずに犬飼の腕に手を回す彼の後ろから、鎌取が呆れたように腰に手を当てる。

「お前ら、衆人環視の場でイチャつくんじゃねェ」

「だ、断じてそのようなことはッ!」

「説得力ねェよ……」

 慌てて両手を振る犬飼と、むっと頬を膨らませつつ半目で鎌取を睨む昴小路。そんな二人を見比べ、鎌取は深く溜め息を吐いた。

「大体ここ、平和記念資料館の前だろうが。色々アレだろ」

「うるさいですよ。僕と郁君は仲良くしてるのが一番平和なんです。平和記念資料館にぴったりじゃないですか」

「どんな理屈だよ……とりあえず昴小路、テメェは爆発しろ」

「嫌ですー。というかこの場所でそのワードこそ不謹慎にも程があります。新たな戦争の種まかないでください」

「何だとテメェ!」

「お前らいい加減にしろ」

 永遠に続きそうな幼稚な言い争いをぶった切り、犬飼は二人を見回した。お世辞にも背が高いとは言えない彼は、長身の二人を見上げつつ堂々と言い放つ。

「鶴天特進生徒として恥じぬ行動をしろと言ってるだろ。自覚を持て自覚を」

「……はーい」

「……ケッ」

 大人しく返事する昴小路、不服そうにそっぽを向く鎌取。そんな二人を見回し、犬飼は歩き出した。

「行くぞ。あと昴小路、いい加減離れろ」

「もー、直嗣って名前で呼んでくださいってば。春からずっと言ってますよね?」

「だからテメェら……!」

 ある意味平和な会話を交わしながら、三人は資料館に入っていく。



「……ひでぇもんだな」

 本館1階、休憩スペース。そこに置かれたソファに腰を下ろし、鎌取は長めの黒髪を揺らして俯いた。その隣で犬飼が重々しく頷き、昴小路が高い天井を見上げる。

「なんつーか、よォ……わかるだろ? 戦時中だったし、そりゃ色々あったんだろうよ。実際色々あったって習ったしな。……でもなんつーか、感情が追いつかないっつーか」

「そうだな……」

 再び重々しく頷く犬飼。その眉間には皴が寄っていて、唇は強張っていて、彼らが知った光景が筆舌に尽くしがたいということを鮮明に物語っていた。かくり、と昴小路が首を真後ろに倒し、元に戻す。反動をつけてソファから立ち上がり、猫毛の茶髪を揺らして子供のように1回転半。無邪気に両手を広げ、口を開いた。

「悲劇は繰り返してはならない。それでいいじゃないですか」

「……は?」

「そーですね、忘れちゃならないことであるのは確かですけど、終わったことはいくら嘆いても仕方ないんですから。未来に向かって前向きにいきましょうよ」

「……」

 その言葉は滅茶苦茶で、だからこそ妙な説得力があって。しばし俯き、犬飼はソファから立ち上がる。腕を組み、言い放った。

「じゃあ、この後の千羽鶴奉納セレモニーの練習するぞ」

「いいですね。付き合いますよ」

 いつも通りの憮然とした表情の犬飼、大型犬のように朗らかに笑う昴小路。彼らを見比べ、鎌取も立ち上がった。

「しゃーねーな。俺様もやってやらァ」

「鎌取君のことは呼んでないです。その辺でモンストでもしててください」

「は、はァ!? モンストなんざやったこともねェよ! つーか俺様だって仮にも副会長なんだぞ!」

「そうですね、会長選挙に挑んで落ちて、枠が余ってた副会長の座に甘んじたんですもんねー。僕と同じポジションなの気に入らないです」

「うるせェよ!」

「だからお前ら、喧嘩するな。それでも副会長か」

 二人の喧嘩をいつものようにたしなめつつ、犬飼は自分の手に目を落とす。深く息を吸い、吐き、顔を上げた。



 日が徐々に傾いてゆく中、平和の灯が揺れる。原爆死没者慰霊碑の前の芝生に整列しているのは、鶴天の修学旅行生、全480名。一番前に立っているのは、晴れて生徒会長に就任した犬飼だ。凛とした表情で一歩前に出て、一礼する。すぅ、と息を吸い、口を開いた。

「この度は修学旅行の一環として、このような平和記念学習を行う機会を下さり、誠にありがとうございます」

 決してよく通る声というわけではないけれど、それでも不思議と真摯な、ともすれば愚直とも取れる声。それを聞きながら、昴小路は満足げに頷いた。変なところで屈折しているくせに、大事なところでは愚直で真摯で、だからこそ抱きしめたくなるような。

「……っ」

 その少し前の列では、鎌取が大きな目を伏せていて。普段は能天気に昴小路と戯れ合っているくせに、こういう大切な時は人の前に立つべき人間としてのカリスマを発揮するあたり、憎み切れない。そういうところがどうにも嫌いで、だけど嫌いにはなりきれなくて。絡まった靴紐のような心地を抱えながら、片手をぐっと握りしめる。

 そんな二人の内心など知る由もない。簡潔な口上を述べたのち、犬飼は改めて息を吸った。480名、全員に届くよう、声帯を震わせる。

「――黙祷ッ」


 平和記念公園を静寂が包む。風の音だけが鼓膜を掻き乱す。

 平和の灯は、ゆらゆらと揺れながら彼らを見つめていた。



「郁君!」

 長身の影に、後ろから抱きしめられる。頭だけで振り向くと、茶髪の猫毛がふわふわと揺れた。若干ずれた眼鏡をこっそり直しつつ、満開の花のような笑顔で犬飼の硬質な髪を撫でる。

「セレモニーの進行お疲れ様でしたー! かっこよかったですよ! 一人で頑張りましたねー!」

「うっ、うるさいッ。このくらい俺一人でもできる」

「つーか犬飼はガキじゃねェんだ。甘やかすんじゃねェ」

「鎌取君は黙っててください」

 ぷくー、と頬を膨らませ、すぐに元に戻す。犬飼がいつものように跳ね除けてこないのをいいことに、さらに彼の黒髪を掻き乱す。

「っていうか郁君、疲れてませんか? 今夜何かおごりますよ。自販機で売ってるやつでよければ」

「……要らん」

「素直じゃないですねー……それより今日の晩ご飯、何でしょうね?」

「だ、か、ら、何でお前らはイチャついてるんだよッ!」

 カマキリ顔を朱色に染め、二人の横で地団太を踏む鎌取。そんな彼を半目で眺め、昴小路は口を尖らせた。

「いいじゃないですか。人の幸せを邪魔する権利なんて鎌取君にはありません」

「関係ねェ!」

「だから喧嘩するなと言ってるだろ。何度言わせるッ」

 昴小路を引き剥がそうとすることは特にせず、抱きつかれたままで犬飼は言い放つ。憮然とした表情で口を閉ざす鎌取を見て、昴小路は宝石箱に触れるような手つきで犬飼の黒髪を撫でる。

「ふふ、それでこそ郁君です」

 ――抱きしめられる腕が少しだけ強まり、制服越しの体温が伝わる。ふと彼の瞳を見て、犬飼の脳裏に石鹸の泡のように事実が浮かび上がった。

(……そういえばこいつ、『そんなだから俺には友達ができない』って言わなくなったな)

 昴小路の体温を感じながら、その意味を考える。最後に言われたのはいつだったか。少なくとも生徒会選挙が終わってからは、言われた記憶がない。彼の大型犬のような瞳から視線を逸らし、口を開こうとして……喉が締め付けられるような感覚。無理やりに息を吸い込み、言い放った。

「……お前に、気を遣われる、筋合いは無い」


「……」

 黒髪を撫でる手が止まる。ぱちり、と昴小路が目を見開く。思わず表情を引きつらせる犬飼をしばし見つめ、昴小路は小さく吹き出した。盛大な笑い声が平和記念公園の片隅に響く。わけがわからないとでもいうように目を見開き、犬飼はわずかに早口で声を返した。

「お、おい、笑うなッ!」

「あっははぁ……いや、なんか、嬉しいなーって思って!」

「何処がだァ?」

「か、鎌取君は黙っててくださいよぉ……あははっ!」

 犬飼を抱きしめたまま、昴小路は盛大に笑い続ける。からりとした笑い声は日が傾きかけの空に響いて、三人の姿はまさしく、平和そのものだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る