第47話 僕が保証します

「くぁあ、眠っ……ん?」

 ――生徒会選挙当日。缶コーヒー片手にB組教室に踏み入った鎌取は、幾度か目を細めた。一番後ろ、左から二番目の席の昴小路。彼は原稿用紙をぼうっと眺め、時折小さく息を吐く。その横顔は手術室の前で祈る少女のようで、鎌取は彼の背後に回った。

「どうしたァ、昴小路。様子おかしいぞ」

「……何だ、鎌取君ですか。丁度いいです、お話があります」

「あン?」

 唐突に昴小路は顔を上げ、ナイフのような瞳で鎌取を睨んだ。思わず息を呑む鎌取に、彼は令状を突きつける刑事のように言い放つ。

「しばらく郁君には関わらないであげてください。今、落ち込んでるんです」

「……は? おい、何の話だよ」

「郁君には好きな人がいました。ですが、その人にはもう恋人がいたんです。郁君はそれを知ってしまいました。そういうわけなので、郁君のことはそっとしておいてください」

 マシンガンのように言い放ち、昴小路はぷいっと顔を逸らす。その茶色の瞳は雨の日の空のような光を宿していて、鎌取は口を開きかけ、閉じ、視線を彷徨わせ、改めて口を開いた。

「……そんなんで大丈夫なのかよ? 立会演説会、今日だろ?」

「郁君のことですから、演説会では何事もないように振舞うでしょう。彼は強がりさんですから。……けど、ああいう人ほどハートはガラスでできてるものです。下手に触れると、傷口を抉りかねません」

 俯き、昴小路は机の上で両手をぎゅっと握り合わせた。

「……何か、僕にできることは……」



「……」

 参考書とにらめっこし、犬飼はただ固まっていた。その目は腫れぼったく、目の下にはクマが深く、その肌はどこか青白く。それを遠巻きに眺め、神風は口を開く。

「……ねえ、今日の犬飼、様子おかしくないかい?」

「そりゃそうだろ」

「え?」

 興味なさげに言い放ち、山田は犬飼から視線を逸らした。虚空を見つめ、頬杖をつく。

「ねえ、スターライト、どういうことだい?」

「失恋したって話だ」

「話って……それ、誰から聞いたんだい?」

「さあな」

 虚空を見つめたまま口をつぐむ山田。神風は改めて犬飼を見つめ、目を伏せる。どこか悲しそうな横顔に視線を移し、山田は口を開いた。

「……放っておけ。お前にできることは何もない」

「……」

「むしろ余計に傷つける。そうなったらお前、また悩むだろ」

「……」

 俯いたままの神風を見つめ、山田は自分の席から立ち上がった。隣の席の彼に歩み寄り、そっとその顎を持ち上げる。どこか泣きそうな瞳を見つめ、山田は細い髪を丁寧に撫でるように、そっと口を開く。

「……言ったろ。お前は俺だけ見てればいいって」



 昼休み開始のチャイムが鳴る。視線を机に落としたまま、犬飼は深く溜め息を吐いた。脳裏をぐるぐると回るのは、昨日の光景。神風は山田と手を繋いで、幸せそうに笑っていて。最初からわかっていたことではあるけれど、諦めきれなくて、かといって何を伝えることもできぬまま、ズルズルと片思いを続けた結果がこのざまだ。道化のように滑稽で、彼はただ膝の上で拳を握りしめる。

(……どうして、何も言えなかったんだ……ッ)

 敗因はあまりにも明白。犬飼はただ気持ちを抱えているだけで、何を伝えることもできなかった。言いたいことも満足に言えない彼は、傍から見ればきっとあまりにも滑稽だっただろう。握りしめた拳に、爪が刺さる。口の中に塩辛い味が満ちて、自分が唇を噛んでいたのだと気が付いた。

(何もかも、俺の自業自得だ……ッ)


「郁君」

 耳慣れた声に、犬飼はハッと顔を上げた。視界の中でふわふわの猫毛が揺れる。昴小路は無言で前の席の椅子を引き、勝手に座った。犬飼の机の上にカレー弁当を広げ、無言で手を合わせる。

「……何のつもりだ?」

「購買のカレー弁当美味しいですよ。一口食べます?」

「……食欲がない」

 力なく俯き、犬飼はひどくゆっくりとした動作で参考書を片付けはじめる。それを見つめ、昴小路は無言でゼリー飲料を取り出し、犬飼の前に滑らせた。それをまじまじと見つめる犬飼に、昴小路はカレーをすくいながら言い放つ。

「固形物は喉通らないと思って。栄養補給は大事です」

「……すまん」

「ほえいにはほおいあせん」

「……」

 食ってから喋れ、と言おうとして、犬飼は言葉を飲み込んだ。ゼリー飲料の蓋を開け、口をつける。吸い込むと、栄養剤のような微妙な味がした。時間をかけて飲み干し、小さく息を吐く。昴小路はカレーの最後の一口を飲み込み、母犬のように微笑みを浮かべた。

「美味しかったですか?」

「……美味くはなかった」

「でも何も食べないよりはマシです」

 ごちそうさまでした、と手を合わせる昴小路を見つめる。彼は机に頬杖をつき、犬飼の腫れぼったいまぶたを視線で撫でる。不意に彼は眼鏡を外し、犬飼の耳にかけた。呆然と見つめ返してくる犬飼に、昴小路は薄く微笑む。

「……?」

「貸してあげます。そんな腫れぼったい目で、人前になんか出られないでしょう?」

「……気付かなかった」

 両手で眼鏡を押さえ、周囲を見回す。昴小路は頬杖をついたまま、少しだけ口を尖らせた。

「安心してください、伊達眼鏡です。あと昨日『寝る前に温かいタオルと冷たいタオルを目に当ててください』って言ったのに、郁君やらなかったでしょ」

「……やったけど、その後また泣いた」

「意味ないじゃないですか」

 やれやれ、と息を吐き、昴小路は犬飼を見つめた。彼は眼鏡越しにゼリー飲料のパックを見つめ、口を開く。

「……何故俺は、素直になれないんだ」

「……」

「一年半、ずっと好きだった……けれど一度として、言いたいことを言えたためしがなかった。嫌われるような真似ばかりした。いや、あいつは俺のことを嫌ってはいないだろうが……」

「……」

「……何も伝えられなかったら、叶わなくて当然だ……」

 ゼリー飲料のパックを握りしめる手が震える。その声は友人をうしなった少年のように、自分を責める響きを孕んでいて。懺悔のような声に、昴小路はふっと表情を綻ばせた。

「……十分、素直になれてるじゃないですか」

「は?」

 カモミールの花が綻ぶように微笑み、昴小路は告げる。それはまるで、紋白蝶を指先に止めるように。

「今、自分の気持ちを話してくれたじゃないですか。それは嘘も偽りも誇張も虚勢もない、郁君の本音でしょ?」

「……」

「だから大丈夫ですよ、郁君はちゃんと素直になれる人です。僕が保証します」

 大型犬が尻尾を振るような昴小路の笑顔に、犬飼は呆然と彼を見返す。思えば彼はいつでも犬飼のそばにいて、彼のことを見てくれていた。心臓が静かに脈打ち、胸が熱くなっていく。眼鏡越しの昴小路の姿が、ひどく輝いて見えた。


「オイ、昴小路、犬飼! 立会演説会に出る奴は集まれっつわれてんぞ! 早く来い!」

「はいはい。邪魔しないでくださいー」

 前の扉から鎌取の声が投げかけられ、昴小路は口を尖らせながら返す。カレー弁当の袋を掴み、立ち上がった。その片手が黎明のように犬飼へと延びる。

「さ、郁君、行きましょ。大丈夫そうですか?」

「ああ」

 その手を握り、犬飼も立ち上がる。楕円形の伊達眼鏡を押し上げ、確かな足取りで歩き出した。



 ――翌日。


「……犬飼ィ……結局お前が勝つんじゃねーか……」

 生徒玄関前に掲示された選挙結果を見つめ、鎌取は派手に舌打ちした。その後ろからベージュのブレザーに包まれた手が伸び、彼の頭をチョップする。

「だッ!? お、おい誰だ!」

「僕ですよーだ」

 べー、と舌を出し、昴小路は鎌取の頭から手を離す。腕を組み、したり顔で彼を見下ろした。

「というか、ざまぁみろです。あの時僕の特等席を奪った罰が当たったんです」

「関係ねェだろ!」

「ありますー。神様は何でも見てるんですー」

 それだけ言い残し、昴小路は足早に鎌取のもとを去っていく。B組教室の前を通り過ぎ、A組の教室に侵入する。顔を上げるのは、硬質な黒髪の少年。彼の机の前まで行くと、昴小路は弾けるような笑顔で告げる。


「――当選、おめでとうございます!」

「ふん、当然だ。だが……」

 一度張った胸を元に戻し、犬飼は昴小路から視線を外す。ぱちぱちと目を瞬かせる昴小路に、彼はわずかに顔を赤らめつつ告げた。


「……お前のおかげだ。ありがとう、昴小路」

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