第45話 事と次第によっちゃひっぱたくぞ

「おはよう、二人とも」

「……ん」

「おはよ、爽馬」

 いつものように声をかけ、神風は席につく。今朝、掲示板で見かけた紙を思い出しつつ、それとなく口を開いた。

「ねえ、生徒会の掲示、見たかい?」

「あー……生徒会選挙のアレ? 見てないけど」

「見てない」

「いや、見よう?」

 口をそろえる二人に思わず突っ込みつつ、神風は犬飼にちらりと視線を向ける。机にかじりつくようにしてシャーペンを動かしているのはいつものことだが、よく見ると机に置かれているのは原稿用紙だ。彼から視線を外し、俯く。

「……どうした、爽馬」

「なんかこの間の打ち上げの時、不穏な空気だったんだよね。犬飼と鎌取が生徒会長の座を巡って対立して、昴小路が油を注いで……大丈夫かな」

「さぁ?」

「……」

 天井を見上げてあっさりと言い放つ御門、興味なさげに肩をすくめる山田。思わず頭を抱えつつ、神風は口を開いた。

「……本当に興味ないんだね」

「そりゃそうだよ。僕には関係ないし」

「いや、選挙は大事だよ? うちの高校の生徒会は、特進コースの文化祭への参加を理事会に認めさせたりできるくらい権限があるんだから」

「そりゃ勿論、立会演説は真面目に聞くし、投票もするよ。けどその裏の痴話喧嘩は興味ない」

「痴話喧嘩って……」

「だいたい、俺たちにできることなんてないだろ」

 その言葉には異論の余地はなくて、神風は思わず俯く。彼らにとって神風たちは部外者だ。口を挟む権利はない。

「……そうだけど……やっぱり不安だよ。あんなの見ちゃったら……」

「……」

「……」

 はぁ、と派手な溜め息が重なった。顔を上げると、呆れたような二人の視線。子供のようにそれを見返すと、御門は頬に手を当てつつ口を開いた。

「爽馬さ、優しいのはいいけど、優しすぎ」

「関係ない問題まで背負ってたらそのうちパンクする。見守るくらいに留めとけ」

 山田が淡々と続きを引き取る。それでもその声は母猫の毛並みのように優しく。神風は力なく、それでも精一杯笑ってみせた。

「うん。……ごめんね、心配かけて」

「別に……」

「気にしないでってば。僕らの仲じゃん」

 いつものように目を逸らす山田、ふわりと笑う御門。どんな時も彼らは変わらなくて、それが今はただ、ありがたかった。



「なーナオツグ。何書いてるんだ?」

「生徒会選挙の原稿です」

「へー、立候補すんのか?」

「はい。副会長に」

 授業の合間の休み時間、原稿用紙に向かう昴小路にクラレンスが問いかけた。子供のように瞳を輝かせるクラレンスの額を弾きつつ、昴小路はシャーペンの頭を顎に当てる。

「まぁ副会長はいいんですよ。対抗候補もいないですし。問題は会長です」

「あー……確かヨータローが出るとか言ってたな」

「そうなんです。特進の中には鎌取君同様、外部生が会長になることをよく思わない人も一定数いますし……何より気に入らないのですが、非ッ常に気に入らないのですが、鎌取君もあの見た目のくせに人望はそれなりにありますので。郁君が勝てるのか、わからないんですよね」

「……Hmmmふーん

 やれやれ、とシャーペンでこめかみをつつく昴小路を見つめ、クラレンスは何気なく問うた。

「……Whatあれ? じゃあナオツグが犬飼の応援演説した方がよかったんじゃね?」

「わかってないですね……」

 深く溜め息を吐き、昴小路は長い指を一本伸ばす。

「僕は副会長として郁君を支えたいんです。わかるでしょ、この気持ち?」

「……I seeなるほど



「……おい、犬飼」

「……何だ」

 残暑はまだ厳しいが、クーラーが効いた塾の自習室は非常に快適だ。たくさんの塾生が詰めかける夕方、犬飼の隣にそれとなく鎌取が座った。彼は大きな瞳で犬飼を睨み、声を潜めて問う。

「お前……何のために会長になりたいんだよ」

「……」

 カマキリが牙を剥くような問いに、犬飼は参考書を一度閉じる。クリアファイルから添削前の原稿を取り出し、見つめる。それを横目で眺めながら、鎌取は声を押さえて語る。

「俺様は幼稚舎から鶴天に通ってる。そこで、鶴天の伝統を守りたいと強く思った。いや、家で伝統伝統って散々言われてたからかもしんねェけど……」

 不思議なほど、すらすらと言葉が出てくる。それはきっと隣に犬飼がいるせいで、嫌いなはずなのに、妙に心地よくて。

「……だからよォ、俺様は鶴天のために会長を目指してンだ。……お前はどうなンだ? 何のために会長を目指してやがンだ? 事と次第によっちゃひっぱたくぞ」

 蝋燭ろうそくの火のように静かに揺れる声。犬飼は推敲前の原稿を見つめ、口を開く。ただでさえ低い声を余計に低くして、言葉を紡いだ。

「……前にも言ったと思うが、俺は都議会議員の息子だ」

「あァ、聞いたな」

「そして、俺も将来は政治に携わりたいと考えている」

「おう」

 原稿用紙に並ぶ几帳面な文字を目でなぞりながら、犬飼は低く告げる。

「もちろん、実際の政治と校内自治はかなり違うが、共通点もある。だから……将来のために、経験しておきたいんだ」

「……つまりお前は、自分のために会長を目指してやがるってことか」

 ハッ、と鼻で笑うような声が響いた。犬飼が握る原稿用紙に深い皴が刻まれる。

「――違うッ」

「……はぁ?」

 ギロ、と犬飼の黒い瞳が鎌取を捉える。思わず気の抜けた声を出す彼に、犬飼は声を押さえて、しかし毅然と言い放った。

「俺が政治家を目指すのは、この国を今よりもっとよくするためだ。そのために、まずは学校からよくしていきたい」

「……っ」

 その声はまるで鶴がいななくかのようで、鎌取は思わず口を閉ざす。犬飼の黒い瞳からそっと目を逸らし、カーペットが敷かれた床を見つめた。


「郁君ー……って」

 大型犬が走り寄るような人懐こい声が、不意に凍った。二人が振り返ると、ひどく冷たい目をした昴小路の姿。彼はゆっくりと微笑みを浮かべると、つかつかと鎌取に歩み寄り、その襟元をギリギリと締め上げる。

「何で君が郁君の隣に座ってるんですか? そこは僕の席です」

「は、はァ!? 空いてたから座っただけだろうが!」

「そこ僕の特等席なんですけど。さっさとどいて、くださいっ」

「痛ッ!」

 椅子ごと投げ飛ばされ、思わず尻餅をつく鎌取。昴小路は無言で椅子を回収すると、何事もなかったかのように参考書を広げ始めた。

「……覚えとけよ……」

 苦々しく言い放ちつつ、鎌取は自分の荷物を回収する。ほぼ満員の自習室を見渡し、空席を探してすごすごと歩き出した。

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