第43話 妥協はしない
『間もなく最終競技、エキシビションリレーの時間です。出場する生徒は準備をお願いします』
「あ、もう行かなきゃ」
グラウンドに響く放送部員の声に、神風は立ち上がった。白いジャージの裾が風にふわりと広がる。紅葉しかけの桜の木陰から、未だに残暑の厳しい日向に出ていく彼に、そっと背中を押す風のような声がかけられた。
「頑張ってね、爽馬」
「……応援してる」
片方は春風のように優しく、もう片方は秋風のように静かに。振り返り、神風は木陰に立つ二人に笑いかけた。それはまるで、高く晴れ渡る秋の空のように。
「ありがとう、二人とも。……頑張ってくるよ!」
空へ吹いていく風のように宣言し、彼は待機場所へと駆けていく。
◇
「……さて」
一通りの準備運動を終え、犬飼は他のリレーメンバーを
「さっきの軍対抗リレーの結果、勝者は普通科に決定した。当然だが、彼らもチームを身体能力が高い者で固めている。特にアンカーの3年E組生徒、
「いや、特進チームのアンカーは郁君でしょ? 郁君が頑張ってくださいよ」
「馬鹿か」
昴小路の問いを一刀両断し、犬飼は指を一本伸ばす。
「何度も言うが、リレーは一人では成せないスポーツだ。俺に繋ぐまでのお前らの働きにかかっているといっても過言ではない。くれぐれも手を抜くな。バトンパスには気をつけろ。いいな」
「あと3年E組の木村君って、なんか暗〇教室っぽいんですけど」
「俺に言うな」
なお、鶴天における普通科E組は、特別強化クラスでもなければ冷遇もされていない、という一点については強調しておく。
◇
走順は一年生の
「……お前、なんで犬飼にそこまでご執心なんだ?」
「面白いからです」
ぷいっと顔を背けつつ応える昴小路。その頬が膨らんでいるのを眺め、鎌取はカマキリじみた大きな瞳を細める。すぐ側でバンッ、と号砲が響き渡った。宮原とE組の1年生が弾けるように駆けだす。カマキリのような瞳でそれを眺め、鎌取はおもむろに立ち上がる。
「……何であんな奴に生徒会を任せられるのか、俺には分かんねェ。理解できねェ」
「鎌取君には一生理解できませんよーだ」
小さく舌を出し、昴小路は鎌取から顔を逸らす。彼は反対側で待機している犬飼を見つめ、小さく息を吐く。
(僕は鎌取君が嫌いです。だって郁君のことを常々悪くいうんですから。……けど、気持ちがバラバラではリレーは勝てません)
半目のままで振り返ると、鎌取は既にレーンの中に立っていた。カマキリじみた横顔を見つめ、腕を組んで言い放つ。
「……リレーはちゃんと勝ちましょうね、鎌取君」
「わかってらァ……」
◇
「先輩ッ!」
「おうよッ!」
沼川からバトンを受け取り、鎌取はバネのように駆けだす。その脳裏に浮かぶのは硬質な黒髪をソフトモヒカンにした少年。いつも不機嫌そうな横顔、それでも神風や昴小路と共にいる時の彼は、妙に楽しそうで。
(……ったく、何なんだよッ!)
カマキリじみた瞳を細め、走る、ただ走る。無駄な思考を脳裏から追い出すように。それでも犬飼の横顔は何故か消えなくて、息切れに紛らせて大きく息を吐く。足を止めぬまま、それでも脳裏はグチャグチャとした感情に掻き乱されて。
(気に入らない、気に入らない、気に入らないッ! 犬飼の野郎は嫌いだ、外部生のくせにイキりやがってッ! それでも……それでも奴を勝たせてやりたいって思っちまうのは何なんだよッ!)
「神風ッ!!」
「うんッ!」
ブラックホールのような気持ちを抱えたまま、神風にバトンを繋ぐ。その手元が一瞬狂いかけるけれど、神風は器用にキャッチしてくれた。
「ちゃんと……繋げよッ!」
駆けていく後ろ姿に息切れしつつも叫びかけ、カマキリ顔は長い黒髪を振り乱す。
E組2年生と並走する。第4走者、神風と相手は完全に拮抗していた。抜いたと思えば抜き返され、一進一退の攻防が続く。
「はぁ、はぁ……ッ」
4回目に抜き返され、神風の脚が一瞬鈍る。脳が暗い感情に侵食されかけて、それを振り払うように神風は次の脚で地を蹴った。気合を入れ直そうと横目で生徒席を見やり――刹那、耳を掠めるのは。
「行けッ」
「頑張れ、爽馬!」
大好きな恋人と、大切な幼馴染の声。その声にはっと顔を上げ、神風は地を蹴る脚に力を込めた。それは朝露に光が宿るように、星屑が地上に降ってくるように。
(そうだよ……辰也が、スターライトが見てるじゃないか。ボクだって男だもん、いいところ見せなきゃやってられないよッ!)
大きく腕を引いて気合を入れ直し、ラストスパートにかかる。次の走者まではあと少し。さらにスピードを上げながら、茶髪の猫毛を見上げ、声を上げる。
「お願いッ!」
「はい!」
スムーズにバトンを受け取り、昴小路は飛ぶように走り出す。スポーツ用の眼鏡越しに前を睨みつつ、神風が広げた差をさらに少しずつ、確実に広げていく。その視界に映るのはただ一人、硬質な黒髪の少年。脳裏に走馬灯のように浮かぶのは、いつだって真剣な犬飼の表情。
(郁君は頑張ってるんです。チームを勝たせようと、特進の誇りを体現しようと、誰よりも頑張ってきたんです!)
第5走者を横目で一瞥する。差は十分広がっているけれど、もっと、もっと。犬飼に繋げるべきバトンを、さらに最高のコンディションで渡すべく。
(だからこそ、勝たなきゃいけない……僕が導かなきゃいけないッ!)
風を切り、大地を蹴りつけ、昴小路はただ駆ける。その瞳に炎が映るのは、特進の誇りよりも、何よりも。
(何よりも僕は――そんな郁君のことがッ!)
「郁君ッ!」
「ああッ!」
二人のバトンパスは、清流のようにスムーズにいった。弾かれたように地を蹴り上げ、犬飼は走り出す。その胸にあるのは、幾つもの感情。それらを全てすべて両足に込め、スピードに変えていく。
(――これはプライドを賭けた戦いだ。そりゃ勿論、普通科の意地もあるだろう。だが、俺達にも特進の誇りがある。それを守るため――何よりお前らのプライドに敬意を払い、妥協はしないッ!)
視界の片隅で、第5走者からアンカーの木村にバトンが渡った。それを見届け、犬飼はさらにスピードを上げる。木村の猛追に敬意を払い、そして勝ちに行かんと。
(何より――宮原、沼川、鎌取、昴小路、そして神風ッ!)
木村の足音が軽快に、それでいて獅子の足音のように響く。猪のごとく追いすがる足音。耳を背けぬまま、犬飼はさらにスピードを上げる。気付いた時には並走していたけれど、それでも、それでも。
(お前らの想いが詰まった、この白いバトン――絶対に勝利へと持っていくッ!!)
――バンッ
気付いた時には再び号砲が鳴っていた。白線の少し先で立ち止まり、しゃがみ込んで荒い息を吐く。マラソンの完走直後のように頭がぐらぐらして、胃が痙攣して。だけどみっともないところは見せられない、と立ち上がり――白ジャージの腕に抱きとめられた。振りほどこうとして、腕から力が抜ける。荒い息を吐きながら、犬飼は途切れ途切れに口を開いた。
「神、風、か……?」
「違います……僕です」
その声は間違えようもない、昴小路のもの。至近距離から、汗の匂いと石鹸の香りが混じり合って香る。未だに息切れしている声には魔法のような安心感があって、犬飼は全身の力を抜いた。息を整えつつ、ぼやけた昴小路の姿を見上げる。遠くから特進チームの勝利を告げる放送部員の声が聞こえ、神風や鎌取の気配がした。西の空に燃える夕焼けのような感情が胸の奥から湧き上がる中、犬飼の耳元に、そっと撫でるような昴小路の囁きが伝わる。
「……お疲れ様でした、郁君」
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