第30話 甘えすぎたんだ

「……わっかんない!」

 叫び、百合愛はシャーペンを放り出した。それは空中でくるくると舞い、軽い音を立ててベッドに落下する。隣でエレンは小さく息を吐いた。金髪を揺らし、立ち上がる。自分のベッドに転がるシャーペンを拾い、低いテーブルに置き直す。窓の外からは静かな雨音が響き、エレンの部屋の天井で蛍光灯が明滅する。

「百合愛、いくらわかんなくても、シャーペン投げるのやめようよ……まず人の家で傍若無人すぎない?」

「だってわかんないんだもん……」

 若干涙目になりつつ頬を膨らませる百合愛。彼女たちが今、相対しているのは連立不等式である。実質的には数学Ⅰの範囲ではあるが、それでも百合愛にとっては別の星の言語のようなもので。……ただ、それ以上にわからないことがあった。

「……それじゃあ、もう一回教えるね」

「お願い~……」

 特進を受験しただけあって、エレンは普通クラスの中ではトップの成績を誇っている。だが、百合愛が彼女の家に来たのは勉強を教えてもらうためではなくて。彼女の声はカナリアのように心地よくて、目の前で揺れる金髪は星屑を織り上げたように輝いていて、思わず目を奪われてしまう。

「……ねえ百合愛、聞いてる?」

「き、聞いてるよ!」

「聞いてなかったよね」

「……ごめん、聞いてなかった」

「仕方ないなぁ……」

 溜め息を吐きながらも、もう一度最初から始めてくれるエレン。下手に落ち着きがあるから、つい甘えてしまう。今度こそ真面目にやろうと思っても、つい。


(てゆーか……わかんないよ、エレン)

 彼女の声を聞きながら、思う。

 好きな人がいるのは、わかる。その人に幸せになってほしいのも、わかる。わからないのは、

「……ねえ百合愛、聞いてないよね? 流石に怒るよ?」

「エレンさー……」

 天井で蛍光灯がパチパチと明滅する。雨の音が静かに響く。彼女の言葉をあえて流し、百合愛はシャーペンを指先で回しながら口を開いた。

「もうすぐ夏休み終わるけどさ、ずーっと元気ないよね。なんかこっちが調子狂うんだけど」

「仕方ないじゃん……」

 深く溜め息を吐き、エレンは目を伏せた。ペリドットの瞳に暗い影が落ちる。それを見つめ、百合愛はシャーペンを回す手を止めた。机に置き、俯く。

(……そりゃ、そうだよね。フラれたわけだし)

「……何であの人なんだろう。私の何が足りなかったっていうんだろう……どうして爽馬くんは、私よりあの人を選んだんだろう。納得できないよ……」

 キンセンカの花びらのような言葉を吐きながら、エレンはペリドットの瞳を揺らす。百合愛は不意に蛍光灯を見上げ、呟いた。

「……こんなこと、あんま言いたくないけどさ」

「……?」

「悪いのエレンじゃね?」

「……」

 エレンの身体が、びくりと震えた。それはまるで、断罪を恐れる罪人のように。明滅する蛍光灯を見上げたまま、百合愛はどうでもよさそうに口を開く。

「だってさ、向こうにも色々あるのに無理言ったのはエレンじゃん。まーそっちの事情も仕方なかったとは思うよ? けどさぁ……それで好きな人を苦しめるのは、違くない?」

「……」

「で、神風って奴の気持ちが離れちゃったんだよ。そこを前から狙ってたあの眼鏡がかっさらってったってわけ。ある意味当然じゃね? 人間、弱ってる時が一番落ちやすいもん」

「……」

「ま、あたしが言えたクチじゃないんだけどねー……って、エレン……」

 不意に横を見て、百合愛の胸の中で言葉が砕け散った。見開いた瞳が、細かく震える。ただでさえ白いエレンの肌はさらに蒼白になっていて。パチリ、と音を立て、蛍光灯が切れる。薄暗い部屋の中、エレンは神に懺悔するように口を開いた。

「……本当は、わかってたの。私が悪いって……それに、爽馬くんはあの人と一緒にいるとき、本当に楽しそうだった……爽馬くんがあの人に惹かれてるだなんて、わかってたのに。なのに、それでも……自分だけの爽馬くんでいてほしくて」

 膝の上で握りしめた拳が、かすかに震えた。窓の外の雨音は激しさを増していき、どこか泣きそうな、血を吐くような懺悔が続く。

「……甘えすぎたんだ。爽馬くんは、優しいから……優しすぎるから……恋人だからって、やっていいことと悪いことがあるのに……っ!」

 声の震えは徐々に大きくなってゆき、まるで手首から血を流すように。不意にその拳に、透明な粒が落ちた。微かに肩を震わせながら、エレンは顔を覆う。蛍光灯がパチパチと明滅し、狭い部屋に嗚咽が響いた。

 百合愛はただ隣でエレンの指先が濡れていくのを見つめ、不意に腕を伸ばした。彼女を抱き寄せ、細い背中をそっと撫でる。

「だいじょーぶだよ……次に間違えなければ」

 腕の中でびくりと震える彼女に、百合愛は静かに告げる。十字架に口づけをするように、聖母の像に祈るように。

「あたしもね……今までいろんな女の子と付き合ってきた。いっぱい、間違えた。何人と付き合って別れたかなんて、わかんないよ……けどね、別れるたびに、誓うんだ。もう、同じ間違いはしないって……今度こそ、幸せにするって」

 彼女はエレンの耳元に口を寄せ、薔薇の蕾を差し出すように囁く。


「……あたしと付き合ってよ。どんな間違いも、二人なら……」


 パチリ、と音を立てて、蛍光灯に光が灯った。

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