第20話 お願い、嘘だって言って

「演劇部です!」

「『ロミオとジュリエット』、ぜひ見に来てくださーい!」

 ――二日目。校舎の各所で響くのは、実際に演劇で使用する衣装を纏い、道行く生徒や来場者たちにチラシを渡していく演劇部の面々の声。あちこちに散った部員たちの中、一番目立つ玄関先を担当しているのはやはり主役のエレンと神風――と、もう一人、ピンク色の浴衣を纏った少女。

「……ねえ、ずっと気になってたんだけど、なんで百合愛がいるの?」

「お手伝いだよ! エレンには頑張ってほしいもん」

「っていうか雅さん、茶道部だよね? 普通科の屋台もあるだろうし……そっちは大丈夫なのかい?」

「だーいじょうぶ、今は両方シフト外だから。1時間くらいなら余裕余裕! その代わりエレン、あとでお化け屋敷付き合ってね! あとタピオカとクレープとワッフルおごって!」

「要求が多いよ……っと、演劇部です、よろしくお願いします」

 呆れ顔をしつつ、営業スマイルでチラシを渡していくエレン。――と、一人の少年がそのチラシを手に取った。

「ふーん……君が神風爽馬、か」

 泣き黒子の傍で、茶色の瞳が値踏みするように神風をねめ回す。玄関から吹いてくる風に揺れるのは、背中で一括りにした黒髪とピンク色のネクタイ。異様な視線に、神風は思わず顔を引き攣らせる。やがて少年はふっと息を吐き、嘲るような微笑を浮かべた。

「ま、見せてもらうか。余興で」

 チラシをひらひらと翻しつつ、彼は三人に背を向けた。一括りにした黒髪が馬の尻尾のように揺れるのを見つめながら、百合愛は呟く。

「……感じ悪っ」

「うん……私たちは本気でやってるのに」

 頷き、エレンはバッと顔を上げ、神風の瞳を見つめた。

「爽馬くん……今回の演劇、絶対いいものにしようね」

「ああ……勿論」

 力強く頷いて見せ、神風は再びチラシ配りに戻る。



「――花の都のヴェローナに、劣らぬふたつの名家あり。古く新しき怨恨は、重ね重なり血で染まる」

 第1体育館のステージの中央で、道化のような衣装を纏った少女が言葉を紡ぐ。それは『ロミオとジュリエット』の序詞じょことば。華々しいナレーションが観客たちを演劇の世界へと引き込んでゆく。

「とどまることなき渦の中、幸薄き恋人があり。不幸と不運が導く死、不和も憎悪も埋葬する」

 幸薄い恋人……か、と、観客席の片隅で山田は目を伏せる。あったかもしれない幸せの形を壊すのは心苦しいが、それでも、山田は。


「死に魅入られた恋の行く末――皆様、とくとご覧あれ」

 その言葉と同時に、序詞役に当たっていたスポットライトが消える。数秒の間隙ののち、パッと明かりが灯った。マキューシオとベンヴォーリオ役らしき二人組と共に、ロミオの衣装を纏った神風が舞台上に現れる。どこか憂いを帯びた表情で恋煩いを語る彼を、二人は舞踏会に引っ張ってゆく。そこでロミオはジュリエットと出会い、熱烈な恋に落ちるわけなのだが。

(……ハマり役だな)

 その様を眺め、山田は一つ頷いた。最もロミオはジュリエットを一目見た瞬間惹かれてしまったわけで、そういう意味では自分たちとはだいぶ違うのだが。



「病める時も健やかなる時も、喜びの時も悲しみの時も、富める時も貧しい時も」

 二人の声が朗々と重なる。エレンは神風と並び、その言葉を口にしていた。それはまるで、自分たちの未来を先行体験しているようで。その心臓が砂糖菓子のように甘く高鳴る。頬をかすかに染め、エレンは本物の花嫁のような微笑みを浮かべていた。

「これを愛し、これを想い、死がふたりを分かつまで」

 死がふたりを分かつまで。その言葉は、この劇においてひどく重い。原作とは大幅に台詞を変えているけれど、現代が舞台ならこっちの方がわかりやすいはず。ちらりと隣を見ると、神風はひどく真剣な顔をしていた。きっと彼も自分と同じ気持ちのはず――そう信じ、エレンは神父に向き直る。

「私は、ロミオを愛することを誓います」

「僕は、ジュリエットを愛することを誓います」

 指先を重ね合わせるように、二人の声がハーモニーを紡ぐ。劇中ではこれが二人の幸せの絶頂。

(……この幸せが、永遠に続きますように)

 演技であることも忘れ、エレンはそう願わずにはいられなかった。



「神父さん、助けて。私はどうすればいいの?」

「落ち着け、ジュリエット。何があったんだ?」

 マキューシオを殺され、ティボルトを殺したロミオは、ヴェローナから追放された。嘆き悲しむジュリエットの悲しみを癒そうと、彼女の両親はパリス伯爵との結婚を早めようとする。二重婚という事態に絶望するジュリエットは神父の元を訪れ、救いを乞う。

 ――そんな悲劇のヒロインを演じるエレンを、観客席から百合愛は見つめていた。スポットライトに輝く金髪、ペリドットを思わせる緑色の瞳。絶望の淵に立たされたヒロインを饒舌に演じる彼女を、今すぐにでも抱きしめたかった。自分がいるから、心配することは何もない。そう伝えたかった。たとえ最愛の人に好きな人がいて、自分の恋が花と散ってしまうとしても。

(恋は盲目って言うよね……あの誰だっけ? 眼鏡野郎の真意には気付いても、あたしの気持ちには気付いてくれない)

 ――夜空の星を落とすような、この気持ちには。祈るように両手を握りしめ、百合愛は救いの手を差し伸べるようにエレンを見つめる。

(策なんていらない。秘薬なんてなくていい。ただ、あたしがいれば――)



「ああ……この薬を飲んだら、私はどうなってしまうの?」

 舞台上でエレンが小瓶を見つめ、台詞をそらんじる。その瞳は甘さと怖れが入り混じり、脆いガラスのようで。神風はそれを舞台袖から眺めながら、幾度も深呼吸をする。長い一人語りを終えると、小瓶に口をつけ、一気に飲み干す真似をする。直後、彼女は仰向けに倒れた。本当に仮死状態に陥ったかのように微動だにしない彼女に、神風は駆け寄る。その身体を抱き、必死に台詞をそらんじる。

「ジュリエット……! どうして君が死ななければならないんだ、いつまでも二人は一緒だと誓ったのに……!」

 耐えきれずに、声が震える。本当はそんなことはなくて。エレンとのことは、いつかけじめをつけなければならない。それはつまり、終わりを告げる鐘を鳴らさねばならないということで。一緒には、もういられなくて。

「何も間違ったことなんてないのに、どうして上手くいかないんだ……っ」

 理屈はわかるけれど、心が追い付かなくて。二つに引き裂かれそうな激情の中、神風は必死に光へと手を伸ばすように、言葉を紡ぐ。

「……これから僕たちは、いがみ合いのない世界で、幸せになろうッ」

 小道具の瓶を取り出し、何かを囁く。頭を殴られたように目を覚ますエレンの横で、神風は小瓶に口をつけ、倒れ伏した。自動人形のように起き上がったエレンは、細かく震えながら、無慈悲な余命宣告を受けたかのように。観客たちには聞こえないように囁かれた言葉が、呪いのように脳裏で反響する。


『ごめんね……エレン』


「……そんな……」

 それは、三日月形の鎌のように、蒼ざめた馬に乗って現れる者のように。

「ねえ、嘘だよね……」

 亡骸の傍の慟哭のような声が、他人事のように響いた。見開いた瞳は新月の海のような色を湛えていて。

「お願い、嘘だって言ってッ」

 視界が滲み、色を失う。気付いた時には、震える手は短剣に。心臓が凍てつきそうなほどの感情を抱えながら、彼女は玩具の短剣を胸に突き刺し――同時、全身から力が抜け、倒れ伏した。

 その白い頬を、一片の雪のような涙が伝う。


 何より、最後に見た神風の顔は、あまりにも――。

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