第16話 俺の、天使は

「お帰りなさいませ、爽馬さま」

「……」

 召使いの言葉も聞こえていないかのように玄関を通り過ぎ、階段を上ると、自分の部屋のドアを開けた。背負っていた鞄を落とすと、電気をつけることすらも忘れてベッドに歩み寄り、倒れ込む。

(……ボクは、どうすればよかったんだ……)

 思考はぐるぐると同じところばかりを巡っている。脳裏に響くのは脆いガラスのようなエレンの言葉と、どうってことなさそうな山田の声。確かに山田の言葉にも一理あった。エレンは大切な恋人だけれど、だからといって自分の考えを押し通して相手に無理をさせるのは、それは違う。けれど、だからって――。

(だからって……別れろだなんて、それは言い過ぎじゃないか……っ)

 きれいに整えられたシーツを握ると、皴になった。そもそも、あんなこと言われて協力しないなんて、できるはずがなくて。そもそも普段から『人のために生きろ』と教えられてきた神風だ。他にやりようなんてない。そんな時にあんなこと言われて……逆上しないわけがなくて。

(でも……考えてみれば、だいぶ自分勝手な理屈だよね……)

 山田はきっと、ただ神風を想ってそう言ったはずなのに。なのに、そんなことにも気付かないで、酷いことを言ってしまって。シーツに顔を埋め、神風はただ、を想う。

(……謝らなくちゃな)

 起き上がった瞬間、脳裏に声が響いた。それはまるで、死神が首筋に鎌を当てるようで。

『別れちまえよ』

「……ッ!」

 心臓が鷲掴みにされるような感覚に、思わず胸を押さえる。その言葉は、その言葉だけは、聞き逃すわけにはいかなくて。腹の底から炎の色をした感情が沸き上がるのを、唇を噛んで耐える。……何より一番苦しいのは、ことで。鷲掴みにされたような心臓は、それでも甘い鼓動を刻んでいて。それがあまりにも、あまりにも。

「……誰か、教えてくれよッ! 本当にボクは、どうすればいいんだッ!」

 視界が涙で滲んでいくのを押さえることもできず、神風は叫ぶ。その声は広い部屋の中、誰に拾われることもなく、ただ消えていった。



「……」

 ――翌朝。机の脇に鞄を置き、神風は山田を見つめた。今日も今日とて台本を読み込んでいる彼は、神風を一瞥すると、再び台本に目を落とした。

「――」

「……」

 かけようとした言葉が、すべて砕け散る。視線を落とし、神風は何も言えないまま席に着いた。控えめに彼に視線を向けるが、山田の表情は変わらない。何を考えているのか全く読み取れない、いつも通りの通常運転。

(……それが、こんなに怖いなんて)

 何を考えているか読み取れない。つまり、彼が怒っているのか、傷ついているのか、わからないということで。言葉を探そうとして、神風は口をつぐむ。もし彼が怒っているなら、ほとぼりが冷めるまではこちらからは話しかけないほうがいいだろうし、傷ついているならそっとしてあげたい。

(……話さなきゃって、思っても……難しいものだね……)

 彼は俯いたまま、自分の台本を取り出す。教室に入る前にC組に寄って、渡されたものだ。自分の台詞に蛍光ペンを引いていると、不意に有名な一説が目を惹いた。

『ロミオ、ロミオ、あなたはどうしてロミオなの?』

(……本当だよ。山田)

 どうしても嫌いになれない人の名を、脳裏でそっと呼び、彼は再び台本に目を落とす。



 ……一方、山田はといえば。

(……神風、やっぱり落ち込んでるな)

 台本の内容も頭に入らない様子で、山田はただ考える。小さく息を吐き、視線だけで神風を見つめる。どこか悲しげな瞳をした彼は、時折溜め息を吐きながら演劇部の台本を見つめている。

(……悪いこと、言っちまったな)

 少し考えればわかったはずなのに。軽はずみな言葉で、傷つけてしまった。『俺だったら、恋人に無理なんてさせない』なんて、戯言に過ぎない。神風を傷つけた人間に、そんなことを言う資格なんてあるのか?

(――いや、ない)

 無意味に反語を使ってみても、解決策が出てくるはずがない。そもそも『別れちまえよ』なんて、軽々しく言い放ったこと自体が間違いだった。付き合ってるってことは、多かれ少なかれ恋愛感情を抱いているということで。恋人に無理をさせるようなエレンの真似は明らかに間違っているけれど、神風がそういうところも含めてエレンを好きなんだとしたら? そんな二人の間に水を差すこと自体が、間違いだったはずだ。

(――俺だって、神風との時間は誰にも邪魔されたくないのに)


 ――とはいうものの、神風が自分に惹かれ始めている気がするのも、また事実なのだが。



「カットー! もー、山田くん、全然集中してないじゃーん!」

「……」

 あれから2週間ほどが経って、『鶴天祭』を間近に控えたある土曜日。どんよりと曇った空の下、2年A組の映画は撮影本番を迎えたが……薫は全く納得いっていないかのように山田の額にぐりぐりと爪を押し込んだ。

「もう本番なのにさー、ホント上の空って感じ! そんなんでお客さん満足させれるって思わないでよー!」

「……ああ、悪い……」

 桃園の叱咤に、痛みすら感じていないように山田は応える。あれからずっとこの調子だ。脳裏に焼き付いて離れない、の悲しげな表情。彼にそんな顔をさせたのは、まぎれもなく山田で。だけど彼のことを想うとそう簡単に声をかけるわけにはいかず……そのまま、ここまで来てしまった。

(神風……)

 脳裏でそっとその名を呼び、視線を落とす。改めて台本を取り出し、自分の台詞を確認する。それを改めて声に出し、どうにか演技に身を入れようと試みた。

「俺は……お前のことが好きなんだ! 他の誰よりも、何よりも! そのためだけに、俺はこっちに降りてきたんだ。だから……笑ってくれよ。いつも通りに、声を聞かせてくれよ! それだけで、俺は救われるんだ……!」

 ――と、不意に世界に光が差した。ゆっくりと顔を上げると、厚い雲が割れ、その隙間に太陽が覗いている。薄い階段のような線を描きながら、静かに降ってくる光。ああいうのを『天使の梯子』と呼ぶのだったか。

(天使の梯子、か……俺の、天使は……)

 そう思った刹那、脳裏に響くのは、いつかの神風の声。それはどこか恥ずかしそうに、それでも光明のように山田の胸に届く。

『い、いや、その……なな、何となく、そんな気がっ、するんだよ。な、なんていうのかな……その……っ、見て、みたいんだよ、ね……山田が、演技してるとこ』


 刹那、脳裏に閃光が走った。思わず息を呑み、両手を握る。モノクロームだった世界に虹色の光が舞い踊り、極彩色に塗り替えられていくような感覚。

(――そうだ、そうだった)

 あの時の、神風の想いを。叶えるために、彼はここに立っている。山田は空を仰ぎ、大きく息を吸い、吐く。そのまま桃園に向き直り、言い放った。

「――今度こそ、本気でやる」

「もー、最初から本気でやってってば! それじゃあ山田くんも本気になったところだし、一発で決めるよー!」



「よーし、撮影終了! 皆お疲れー!!」

「……ふぅ」

 桃園の掛け声に、クラスメイトたちはそれぞれに安堵の声を上げる。そんな中、山田は一人息を吐いていた。表情こそ変わらないものの、空を仰ぐ瞳は確かに輝いていて。気付くと晴れ渡っていた空のような心地で、彼は愛する人を想う。

(……これでよかったんだよな。神風)

 今は、ただ。出来上がったものを、愛する人に見てほしかった。


 ――そして、それ以上に、山田は。

(――いつも通りに、お前が笑ってさえくれれば、それでいいんだ)

 だから、話をしよう。彼がいつも通りに、笑ってくれるように。

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