拡散する種子

冬野ゆな

第1話

 植物は、種子を拡散するために様々な進化を遂げた。

 その中には、一風変わったものもあるそうだ。




 ユグドラシル。

 日本語に訳すと世界樹、と呼ばれる樹がある。

 それは現在、中東とヨーロッパの合間の土地に根を張っていて、天に向かって伸びている。

 世界樹と訳されるだけあって、巨大な根を地面に張っている。あのあたりにある山のいくつかは実は根が隆起しているところだった、なんて話はよくある。中学生あたりの先生の雑学として紹介されるから有名だ。


 その世界樹が、どうやら種をつけているらしいという噂は世界中を駆け巡った。


 休憩室の窓から見える世界樹をじっと見ていると、後ろのドアが開いた。


「やあ、ノリコ。おつかれ」

「お疲れさま、ヘイズ。コーヒーはどう?」

「いいね、いただくよ」


 同僚で、黒人のヘイズがメガネを直しながら言う。

 ノリコは立ち上がって、セルフのコーヒーをカップに注いだ。


「ありがとう。しかし、ここはよく見えるなあ」


 ずず、とコーヒーを啜ってから、ヘイズは大きな窓の外へ視線を向けた。


「きみはどうなると思う? ノリコ」

「さあ。前例がありませんからね。興味深い事例ではありますが」


 ノリコは自分のカップをテーブルに置く。


「日本の情報ですけど、世界樹見学ツアーは増えてるみたいですよ」

「へえ。こっちは毎日大変だっていうのに。気楽なもんだな」

「アメリカではどうなんですか?」

「一緒さ」


 にやりとヘイズが笑った。


 世界樹はいまでは『一生に一度は見たい景色』とまで言われて、ネットやテレビで見たことのある人のほうが多いくらいだろう。

 それなのにわざわざ見に来る人間の気が知れない。だがそれも、日々ここで研究に追われているからこそ言えることだろう。


「まあ、急にバカでかい種が落ちてきても困りますからね」


 樹齢ですら、二千年だとか、一億から二億と言われているが、よくわかっていない。

 どこからやってきたのか、なぜこの樹だけ天にまで届くほど巨大なのかもわかっていない。中には宇宙からやってきたのだという人までいるが、いまのところ肯定することもできなければ否定材料もないというところか。


 後ろのドアが開き、白人の女性が金髪をうざったそうに後ろへやりながら入ってくる。


「やあおつかれ、ジェシー」

「おつかれさま! 二人とも休憩中だったのね」

「ええ。コーヒーはどうです? ついでだから」

「ありがとう、いただくわ」


 ノリコがコーヒーを淹れている間に、ヘイズが言った。


「そっちはうまくいってるかい?」

「ぜんぜん。樹に関する神話はいくらでもあるけど、上のほうの種や花、実の話となるとさっぱりね」


 ジェシーがコーヒーを受け取りながら言う。

 この研究所の中にも、元は神話研究者と呼ばれる人たちがいて、各地の神話の中に世界樹信仰が生きていることを証明している。

 ジェシーもそのひとりだ。

 有名なところでも、かつてはあれが天を支えているとまで言われていたのだから、その影響力というのは凄まじい。実際のところは支えるような天は存在しないし、飛行技術の発達によって上のほうがどうなっているのかまでわかるようになった。いまでもあの樹を神と崇める人々がいるし、誰の土地でもないということに難色を示す人々もいる。


「もちろんそういう神話が無いことはないけど……。いわゆる原典となる神話を、次の時代で二次創作のようにこねくり回しているのがほとんどなのよ」

「確かキリスト教もそうだったね」


 キリスト教がヨーロッパを制圧したあと、世界樹は『再発見』された。あんな巨大なものを再発見するとはどういう事なのかと、当初は議論の的になった。ただ実際に、そのせいで宗派が分かれたり、いまだに「キリストの樹」であるとする一派と、邪教の樹とする一派で分かれているのは有名だ。

 いつだって意味を見いだすのは人間なのだ。


「種ができるのも、これだけ技術や科学が発達した後で良かったとも思うけどね。あれをいまだにフラットに、ただの植物として見られない人も多いし」

「そうですね。あれが実は世界『樹』じゃなくて、分類としては世界『花』に近いことも、まだ認めていない人もいるそうです」

「ははは。まあ、そいつに関してはボクもまだ信じられないけどね!」

「そうね。いままでずっと世界『樹』として習ったし。今更よね」

「まっ、これだけのものなんだから、いつどんな習性があきらかになるか、楽しみでもあるけどね」


 三人は笑い合うと、休憩を終えたあとに自分の持ち場に戻った。


 それから一ヶ月もしたころだった。唐突に研究所内にコールが響き渡り、研究員全員がたたき起こされた。


「なんだ、こんな夜中に!?」

「種が落ちそうなのか?」

「マジか、もうすぐなのか!」


 全員が訓練されていたかのように白衣や防護服に身を包んだ。空には撃墜用の――街に落ちたら困るからだ――ヘリが舞い、弱い光で照らされ、宇宙からもカメラが増やされた。ありとあらゆる想定のもとに人々が動いた。

 これほどのものだ。

 何が起きてもおかしくはない。


 世界では配信映像が国営放送で流され、街中のテレビは緊急放送に切り替わった。ネットの配信動画がとんでもないスピードで再生回数を増やす。動画サイトでは弾き飛ばされた無料会員が文句を言い、あまりの重さに繋がらない人々が、好きなYouTuberの流す「一緒に見る動画」に移動していった。

 樹の近くでは公認された信仰者たちが祈りを捧げている。

 いまだに樹を邪教のものとする人々が抗議活動を続け、各地で衝突する様子が一部のニュースで流れる。

 そんなニュース番組の後ろでも、映像が流れていた。


 ともあれ世界各地の人々が固唾を呑んで、画面を、目の前の世界樹を、そして一本の樹を見つめていた。


 雲の上に突き抜けた球体が、ぽんと三つに割れた。

 おお、と全員の声が揃った瞬間、そこに並んだ小さな球体が勢いよく空へと向かって飛び出した。勢いよく破裂した種は、宇宙空間へと飛び出し、あっという間にきらりと流れていった。

 誰もが空を眺めていた。

 撃ち落とす暇もなく、宇宙へと流れた種は見えなくなった。

 いくつかの種が流れ星となり、地上に光の軌跡を残しながら散っていく。


 いくつものカメラがその光景をとらえ、各地でロケットが発射したような歓声があがった。


 ヘイズの口元が次第に上がって、お手上げだというように禿げた額に手を打った。

 ジェシーは感極まって泣いていたし、ノリコは我知らず口を開けたまま茫然としていた。


 きっと忙しくなるだろう。

 だけど誰も動かなかったし、動くことができなかった。

 流れ星がまだ落ちていく。


 広い宇宙でいつか、あの種子の子供たちに出会うことがあるのだろうか。


 そう思うと、ノリコの目にも熱いものがこみ上げてきた。

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