第5話 生きることと死ぬこと

『ここが海?』


 ウサギと呼ばれた少女が目を輝かせながら呟く。


「見ればわかるだろ」


 ネコと呼ばれた少年が深く息を吸うように返す。


 川を見つけたのはまさに僥倖だった。


 ここを下って進めば必ず海へと行き着く――その安心感が、水面に反射する光のように、2人の心を輝かせた。


 少年は家を出てから1週間強、少女も1週間弱となる。


 その長い行程が胸に去来したのか、それとも別の理由からなのか、互いに黙ったまま海を見つめ続ける2人。


 夕日が落とす2つの長い影を、弱々しい白波が、すっと砂ごと押し流していく。


「暗くなってきたな」


『そうね』


「お前、もう死ぬのか」


『……デリカシーの欠片もない』


 目を合わすことなく投げかける軽口に悪意は含まれていない。


 その証拠に、お互いを励ますようにと繋がれた手が、今もそのまま残されていた。


「『あのさ(ね)』」


『お先にどうぞ』


「お前から言えよ」


『君の方が先に辿り着いたんだから、譲るわ』


「同時だったと思うけど?」


『私の方が10cmも後だった』


「やたら細かい」


『ずっと足元だけ見てたから――』


 大きな目標を持つとき、最初は遠くからでもゴールを眺めようとするものだ。しかし、いざそこに手が届きそうになったとき、それを一瞬躊躇する心理がはたらく。


 もう少し感傷に浸りたい、この一瞬を大切にしたい、心に深く強く刻んでおきたい――。


「ならさ、最初と同じで同時に言ってみないか?」


『ふふっ、それは面白いかも!』


「『せーのー!』」


「キスしたい」『ビンタして』


「『は?』」


『君ね……ふざけてるとこっちからビンタするわよ』


「うわ、外したか。恥ずかしすぎるだろ」


『ふふっ、ありがと。言いたいことわかるから』


「わかってくれて、僕もありがとうだ」


 死を決意した者にとって、自力で生き続けるという決断を下すのは極めて難しい。


 それを知ってか知らずか、彼は、彼女が少しでもそれを踏みとどまるためのきっかけを与えたかったのだろう。


『どうして君は私のことをウサギって呼んだの?』


「それがビンタとどう関係が――」


『ううん、無関係。ちょっと先に訊きたくなってね』


「それ言うなら、僕は何で猫なわけ?」


『私が飼ってるネコに顔が似てたから』


「……」


『ってのは冗談で、ほら、ネコって単独で散歩するでしょ? あんな山道を独りで散歩しているからネコっぽいなって』


「あのなぁ……それならオオカミとかでいいじゃん」


『強そうに見えなかったし』


「蜂が怖くて泣いてた奴に言われたくないね!」


『それで、なんで私はウサギ?』


「肌が白いから」


『ちょっ』


「というのは冗談で、表情がさ……急いでる……生き急いでいるような感じがしたんだよな」


『生き急いでる?』


「実際は死に急いでたけどね」


『……そう、かもね』


 固く手を繋いだまま、2人はお互いの瞳に映る自分に話しかけるかのように言葉を紡ぐ。


 少し離れていた影が、そっと1点で交わる。


「ありがとう」


『どういたしまして』


「次は僕の番だね。歯を食いしばれよ」


『ま、待って! 本当にぶつの? 女の子の顔を?』


「俺の知ってるビンタって、そうなんだけど?」


『そういう厳密な意味じゃなくって、比喩よ、比喩!』


「ん? じゃ、カンチョーしろってこと?」


『バカ! 昨日までの私を消し飛ばしてってこと。言わせないで、情けないから』


 彼は彼女に生き続けてほしいと願い、彼女も生きたいと願う。言葉は違えど、2人の思惑は期せずして同じだった。


 しかし、彼はそんな彼女の決意を呑み込んでなお、それを確かめるように、突き放すような発言をする。


「雰囲気で決めるなよ。元の場所に戻ったとき、また同じ気持ちを繰り返すことになるからな」


『ならない……もん』


「なるね、お前は絶対になる」


『……否定はできない。私も私が怖い』


「生きることと死ぬこと、どっちが難しいと思う?」


『え? 人それぞれ違うと――』


「僕は同じだと思う!」


『いきなり訊かれてもわかんないよ』


「考えろよ」


 生きることと死ぬこと、どちらが難しいのか――。


 よく、生き続けるのは死ぬより大変だという話を耳にする。生きるためには、学び、働き、好きでもないことを、好きでもない人としなければいけない。その苦痛に耐えきれなくなった者が逃げるように去っていく。


 しかし、実は死ぬことの方が困難な場合が多い。


 自分の命を絶つ決意をするということは、今まで築いてきた全てを捨て、無にする覚悟ができたということ。今まで縋り付いてきた温かい思い出すら、雨露の如く消し飛ばすということ。多くの苦しみながら生きている人は、その決断をできずにいる。


 真の意味で強く生きることができる人は、往々にして死を覚悟したところから再生を遂げた者が多い。


 そういう者にとっての死は、決して逃げ道などではない。死ぬことは自分だけの問題ではなく、この世の全てにとっての喪失――無を意味する。その人の生が撒き散らす喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも、つまるところ、存在意義の全てを消し去るブラックホールのようなものが、死である。故に、強い者ほど死を恐れ、がむしゃらに生きようとする。


『私は……私は逃げるためにここに来たんじゃない。自分を認めてもらうため、理解してもらうため、存在を証明するために来たんだ』


「うん」


『情けないけど、やっぱり死ぬのは怖い』


「当たり前だ」


『死ぬ以外に、方法なんてあるのかな』


「それを一緒に考えるために僕がいるんだろ」


『ふふっ、そうね。頼りにしてるわ』


「任せろって」


『君も、私を頼っていいからね』


「死んじゃったら頼れないけどな」


『うん!』

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