第15話 One pair ? ノア&……


「待てこのひったくりー!」

 道行くノアの背後から、不意に男の声が響いた。振り返れば、男物のボディバッグを抱えた小汚い男がこちらへ駆けてくる所だ。

 ひったくり程度の軽犯罪、この街の裏道では毎日のように起きている。それこそ一々首を突っ込んでいては身が持たないほどだ。しかし犯人を追っているのが知った顔である事に気付いたノアは、一役買って出ることにした。

 こちらへ駆けて来るひったくりの脚を目掛けて、袖口に隠し持っている投擲用のナイフを投げる。細いナイフは回転しながら、狙い通りの的に命中──はせず、男のズボンと皮膚一枚を切り裂いて道の端へと跳ねていった。それでも突然の痛みに驚いてか、ひったくりの男はバランスを崩して転倒する。

「いってえぇぇ!」

 転がる男の叫びに、大袈裟な、と呆れるノア。自画自賛だが、今のは上手く掠らせた自信がある。それこそ威力も怪我も大したものではない。あの程度の痛みでよくもまあそこまで騒げたものだ。

「ああ、追い付いた……って怪我!?」

 息を切らせて現場に到着したのは、件の顔見知り──三十路手前といった風情の私服警官だった。安堵の息を吐いたのも束の間、ひったくりの足元を見てぎょっとする。

「たいしたコトねーよ、大袈裟だなーアオヤマさん」

「ノア君!? これ君の仕業かい、何て事してくれたんだ!」

 声をかければ途端に慌てる警官、アオヤマとはちょっとした顔見知りだった。おろおろと無駄な動きを見せつつ犯人へと向かって行くアオヤマを、ノアは親しみを込めて笑い飛ばす。しかし遅れて姿を見せた中年刑事に声を掛けられると、その表情を強ばらせた。

「ノア坊」

 釘を刺すような声の主は、こちらも見知った刑事、ジェフだ。見た目も中身も紛う事なき中年の彼は現場到着こそアオヤマより数歩遅れを見せたものの、息はさほど上がっていない。何ならあと一、二キロは鬼ごっこが出来そうだ。ベテラン刑事の抜け目の無さに舌を巻きつつ、ノアは挨拶を交わす。

「どーもジェフさん、ご無沙汰」

 渋面を崩さぬジェフは、道の端に転がるナイフにちらりと目を遣った。

「ありゃあお前のか」

「なんだよ、捜査協力じゃん。ほら、早く手錠手錠」

 鋭い視線を笑ってかわしつつ、自らも獲物を回収に行くノア。その背後で、不意に耳慣れない異国語が響く。

『あぁ〜〜‼︎ よ、良かった〜〜‼︎』

 単語の意味は分からずとも安堵の叫びだという事だけは伝わる、そんな雄弁な悲鳴を上げたのは、東洋人の青年だ。典型的なベビーフェイスだが、ノアとそう変わらぬ身長を見るに恐らくは歳上だろう。

 やいのやいのと犯人を引っ立てている警官達を尻目に、ノアは青年へと声を掛ける。

「ようお兄さん、盗られたのアンタのバッグか?」

「えっ、は、はい」

 返されたのが英語である事を確認して、ノアは訳知り顔でうんうんと頷いて見せた。

「背中から留め具外されたんだろ? ダメだぜ、しっかりしてなきゃ」

「うっ、すみません……」

 目に見えて肩を落とす青年。何だか可哀想になってしまったノアが気を付けろよ、と背中を叩くと、彼の童顔に弱々しい笑みが浮かんだ。

「おい、ノア坊は怪我ねぇな? そっちの兄さんも大丈夫か?」

 捕り物はひと段落ついたのか、ジェフが二人に歩み寄って来た。その後ろには、抵抗こそしないが不満げなひったくり犯を引き摺るようにしてアオヤマが続く。

 ジェフの手中にある物を見て、青年が「俺のバッグ!」と声を上げた。

「ほんとに良かった、取り戻して貰えて。ありがとうございました」

 そう言ってバッグへと手を伸ばす青年。しかしすかさずジェフがバッグを遠ざける。

「待て、悪いが確認だけさせて貰う。あんた旅行者だな? 名前と歳は」

「えっ、エイジ……エイジ・キド、歳は二十三です」

 おどおどとした名乗りを受け、ジェフは「失礼」と呟いて躊躇いも無くボディバッグを開ける。慣れた手付きで取り出したのは、青年のものと思しきパスポートだった。

「Mr.エイジ・キド……ああ、間違いない。じゃあコイツは返してやる、ただし書類に記入さえしてくれればな。──アオヤマ」

「えっ、私ですかぁ⁉︎」

 思わずといった調子で声を上げたアオヤマは、当然ながら犯人の拘束で手一杯だ。しかしジェフはそんな状況など御構い無しに指示を出す。

「そいつをパトカーに突っ込むついでだ、書類も車ん中だろうが。新人じゃねぇんだからそんくらいやれんだろ!」

 今にも犯人ごと相方を蹴飛ばさんばかりのジェフの剣幕に圧され、仕方なしにエイジを促すアオヤマ。そんな二人の力関係に、ノアは相変わらずだなと苦笑を零した。

「てかジェフさん、ひったくりが相手なんて珍しいな。担当違いだろ?」

 アオヤマが顔見知りなら、ジェフはそれこそ古い付き合いだ。リベラトーレ傘下に加わる前、ただの不良のクソガキだった時代から幾度となく世話になっている。そのノアの記憶が正しければ、ジェフの担当は長いこと集団犯罪の類だった筈だ。

「ああ、偶然居合わせちまってな。現行犯って奴だ……お前はあんな真似すんなよ」

「そんなだっせぇ事しねぇって」

「ださくなくてもやるな」

「それは懐具合次第かな」

 へらりと笑って応じれば、ジェフの眉間により深い皺が寄る。

「あんまり調子に乗るんじゃねぇぞ? 今のこの街はどっかおかしいからな」

「知ってるって。なあ、その件だけどさ」

 すす、とジェフに近付くと、ノアは声をひそめて訊ねる。

「捜査。何か進展とかないんですかねぇおまわりさん?」

「教えると思うか?」

「ふーん、ねーんだ」

 わざとらしく煽るノア。それをしばし見つめていたジェフだが、やがて溜息と共に頷いた。

「……否定はしねぇよ。むしろこっちが頼りたいくらいだ」

 瞬間、ノアはにやついた笑いを引っ込め本気で天を仰ぐ。

「あーマジかー使えねぇなーもー! 頑張ってくれよお巡りサン!」

「仮に分かっても教えねぇよお前等にゃあ。戦争おっぱじめられたら堪ったもんじゃねぇ」

「あんたらがちゃーんと仕事してくれんなら、俺らもそこまでの事はしねぇって。まあそれはそれとして、喧嘩売られたツケはきちっと払って貰うけどな」

 にやりと笑ったノアに、いよいよジェフが頭を抱えた。

「お前、俺達が何だか忘れてるだろ」

「おっと。じゃ、今のは聞かなかったことに」

「分かったから早く行け――ああいや待て」

 あっちへ行けと払いかけた手を止めて、不意にノアを呼び止める。

「エマの嬢ちゃんは元気か?」

「……ああ、お陰様で今は大分。もう少ししたらまた帰って来るってよ」

「そうか、良かったな。ならもう用はねーよ」

 今度こそ、しっしっ、と手を振るジェフ。そのままノアには興味を失くしたかのように踵を返すと、折悪しく響いたジェフさぁん、と呼ぶ声に一喝する。

「ああん? まだ居たのか、情けねぇ声出してんじゃねぇぞアオヤマぁ!」

 その様子を見て、ノアは思わず笑いを零した。

「大変だねぇ、ジェフのおっさんも」

 その大変な中、表向きには敵ながら、大事な妹を気遣ってくれる辺りに彼の人の良さが滲み出ている。

 やむを得ず道を踏み外す連中も大勢いる事を、あの刑事は良く知っている。悪党憎し一辺倒の警官ではない所には好感が持てた。取引相手としては勿論、知人としても。

「――さあって、本題本題っと」

 遠ざかる背中を見送って、ノアは再び歩き出す。彼等との邂逅は予想外だが有り難かった。これで当面はジャック一人に的を絞れる。

 目指すは一つ、カジノ・ショーメイカー。気分は正に一目全賭けオール・インである。

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