第11話 One pair エイジ&……
「昨日は酷い目に遭ったなぁ……」
エイジは日本語で独りごち、大きく溜息を吐いた。
昨日の夜更け、人生に一度あるかどうかの窮地を脱した後。「後は任せてください! これ以上お兄さんに迷惑はかけられません、僕の仲間がどうにかしてくれますから!」と意気込んむ金髪の少年の語気に圧されて、エイジは真っ直ぐホテルへと帰って来ていた。今にして思えば警察に連絡くらいしておいた方が良かったのかも知れないが、今更後の祭りである。
ホテルの部屋に辿り着くなり泥のように眠ったものの、やはり緊張が抜け切らなかったのか、まだまだ早朝と呼べる時間に目覚めてしまったのが小一時間ほど前の事。
折角の旅先で二度寝をするのも勿体ないからと、エイジは現在、ボディバッグを片手にホテル周辺の散策に出ていた。
意識的に人通りの多い道を選んでいるが、流石に朝の大通り、昨晩のような物騒な気配は鳴りを潜めている。とはいえ通りに並ぶ商店がシャッターを開けるにはまだ早い時間だ。昨日の宵の口、ネオン灯ならぬLEDの輝いていた煌びやかな街並みに比べれば、物寂しさを感じてしまう。
一抹の心細さを覚えていたエイジだったが、ふと目に飛び込んで来た鮮やかな緑に足を止めた。
唐突に現れた木々は明らかに人の手によって管理されているもので、看板などは見当たらないがどうやら公園の類らしい。時間帯もあってか、広場を囲う並木の向こうには散歩やジョギングを楽しむ人達、朝食の需要を狙ったキッチンカーなどがちらほらと見受けられた。
──あっ、こういうの海外ドラマとかでよく見る!
──……ちょっとだけ寄ってみようかな。
ついミーハー心を出したエイジは、ふらりと公園に足を踏み入れる。
お上りさんよろしく辺りを見回していると、視界の片隅に飛び込んで来るものがあった。
緑豊かな公園にはそぐわぬ、ふわふわとした多段のレース。つばの広い帽子から長く伸びるベール。いつか雑誌のコスプレ特集で見かけたようなゴシック調のドレスを着た少女が、植え込みの前で小さく唸っていた。
よくよく見れば、どうやら手元の何か──恐らくは、スカートの裾か髪の毛だろう──が、植え込みに引っかかってしまったようだ。余程複雑に絡まったのか、無理に引っ張っては困ったように溜息を吐いている。
咄嗟に声を掛けようとしたエイジだが、はっと気付いてまずは周囲を見渡した。辺りには因縁を付けて来そうなチンピラは勿論、少女に手を貸そうとする人も居ない。
──昨日の今日とは言え、流石に警戒しすぎか。
胸を撫で下ろしたエイジは、少女に歩み寄るとそっと声をかける。
「こんにちは。君、大丈夫かい?」
途端、少女がびくりと身を竦ませた。大袈裟でなく飛び上がらんばかりの反応に、エイジまでつられて驚いてしまう。
「お、脅かしちゃったかな? ええと、俺、怪しい者じゃないんだけど……」
慌てて弁明するものの、言語の壁も相まって怪しさ満点のテンプレートしか出て来ない。つば広の帽子に遮られ、エイジの目線からは少女の表情が見えない事も不安要素の一つだ。
どうしようかと彼女の手元を覗き込めば、そこには予想の通り、長い髪とベールの端と植え込みが絡み合った塊があった。
「髪、絡まっちゃったの?」
「……うん」
僅かな逡巡を見せたものの、エイジの問いに少女は小さく頷いた。漸く成立したコミュニケーションに安堵しつつ、エイジは重ねて訊ねる。
「ちょっと見せてくれるかな?」
少女が再度頷いたのを確認してから、その手元に顔を近づけた。少女の細く長い髪は薄手のベールを巻き込んで複雑に枝に絡みついてはいるものの、幸運にも固結びにはなっていなさそうだ。何をどうすればこんな事になるのかは疑問だが、これならば少し時間をかければ解けるだろう。エイジの腕力ならば無理矢理千切ることも出来るだろうが、女の子の髪をそこまで乱暴に扱う事は気が引ける。
「よし、取れた!」
無言で格闘する事数分、少女の髪と植え込みとは元の通りに分かたれていた。
「……ありがと」
ぽつりと、少女が口を開く。発音は完璧でありながらどこか舌ったらずなその感謝の言葉は、いつかの昔に見た英語の教育番組を彷彿とさせる。どういたしまして、と少女に答えるエイジの発音は、自然と『やさしいおとな』のそれになっていた。
「ああでも、毛先がぐちゃぐちゃになっちゃってるなぁ……」
絡まり方が悪かったのか、所々折れ癖が付いている少女の髪の先端を見て、エイジは顔をしかめる。どうにかならないものかと暫し考えを巡らせていた脳裏に、ふとバッグの中のあるものが過ぎった。
「そうだ、ちょっとじっとしてて」
ごそごそとボディバッグを漁れば、目当てのものはすぐに見つかった。エイジはその細い柄を掴み、引き抜こうとする──。
瞬間、少女がエイジへと飛び掛った。低い位置からのタックルに、エイジは呆気なく体勢を崩される。
「うわっ!」
慌てて体を支えようと下げた右足は、偶然にも着地点に差し込まれていた彼女の脚に動きを阻まれてしまう。
そのまま地面に尻餅をついたエイジは、少女を相手に為す術もなくマウントポジションを取られてしまった。
突然の強襲に困惑するエイジ。それを見下ろす少女の顔はやはり帽子の陰に隠れて見えない。状況が飲み込めずに惚ける事数秒か、数十秒か。エイジはふと少女の手が微かに震えているのに気が付いた。小さく華奢な手はエイジの手を鞄ごと、未だ頑なに押さえ付けている。
「……ああ、ごめんね。ビックリさせちゃったかな? 大丈夫、よく見て。これ、櫛なんだ」
ね、とエイジが笑って見せると、少女は不承不承といった様子でゆっくりとエイジの上から退いた。まだ警戒しているのかその動きはぎこちなく、身体が離れた途端にエイジから一定の距離を取る。
あからさまな反応に軽く傷付きつつ、エイジも続いて身を起こす。問題の品をバッグから取り出し、分かりやすいように刃にあたる筈の部分を摘んで見せた。
一見してバタフライナイフにしか見えないそれは、よくよく見れば刃であるはずの部分が櫛の歯になっている。昨晩訪れたカジノで、ウェルカムサービスだかイベントだかのクジ引きの景品に貰ったジョークグッズだった。
見慣れぬ小物に興味を惹かれたのか、櫛をじっと見つめ、少女はじりじりと近付いてくる。そこにすかさず断りを入れて絡まった部分の髪を梳けば、あちらこちらに折れてしまった毛先も先程よりは見られたものになった。
「よし、ちょっとはマシになったかな」
「…………ありがと」
しかし、今度の少女の礼は上の空だ。その視線は明らかに櫛へと注がれている。出会って初めて少女が見せた分かりやすい反応に、エイジは思わず微笑んだ。
「これ、あげようか?」
「いいの?」
「うん。俺は使わなさそうだし、元々貰い物だしね」
はい、と差し出した所へと、そっと少女の手が伸ばされる。
「ありがとう」
三度目の感謝の言葉は、これまでより幾分か柔らかかった。軟化した態度に手応えを感じたエイジは、今までよりも踏み込んだ質問を投げ掛けてみる。
「君、名前は何て言うんだい?」
対人関係において最も基本的、かつパーソナルな問い。少女は僅かな逡巡を見せたが、やがて小さく答えた。
「……アンネ」
「アンネちゃんか……この辺の子なのかい? おうちの人は?」
いくら今が長閑な早朝とは言え、この街の物騒な側面は昨晩身を以て実感したところだ。年端もいかぬ子を一人で歩かせて良い場所ではない。
しかし、対する少女、もといアンネの答えは端的だ。
「いないよ」
「いないって……じゃあ、君はこれから何処に行くのかな? ほら、遊びに行くとか、お使いとか」
エイジの質問に少し考える素振りを見せ、アンネは首を横に振った。
「ええっと……もしかして、迷子?」
そう問えば彼女は再び、しかし今度は間髪入れずに首を振る。
「そう……」
エイジは曖昧に微笑んで頷いた。
──どうしよう。
──どう見ても迷子だとしか思えない。
「良かったら、一緒に来る?」
思わず口をついて出た問いに、しかし返答は無かった。怪訝そうな雰囲気を察して、エイジは慌てて弁明する。
「えっ、ああいや、えっと、そういう事じゃなくて! ここは危ないから……あっ、俺が君に付いて行くのでも良いよ!」
「ううん、いらない」
「えっ」
ある意味では幼い少女らしい、ストレートな物言いにショックを受けるエイジ。思わず胸の辺りを押さえたその隙に、彼女はひょいと身を翻す。
「もう行くね。クシ、ありがとう」
ばいばい、と一つ手を振って、アンネは引き留める間も無く駆けて行ってしまった。
「もしかして俺、怪しまれた……?」
エイジが呆然と呟く頃には、小さな後ろ姿はもう見えない。一人残された青年の背には、そこはかとない哀愁が漂っていた。
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