第9話 One pair エイベル&……


 エイベル・ブラッドバーンは腹を立てていた。勿論、顔には微塵も出さずに。

 彼は現在、予定外にもホテル・ロイヤル・ロイスを訪れていた。彼が居るのは会議室のような一室で、彼の他には誰もいない。妙に陰気だったので、エイベルは勝手にブラインドを開けた。

 本来ならば今日の仕事は、昨夜の成果を上司に報告に行くだけのはずだった。散々だったミーティングを仔細漏らさず伝えてやる気満々で床に就いた昨夜だったが、ホテルからの「大至急来てくれ」との呼び出しに朝の安眠を妨げられたのだ。

 商会の立場を考え呼び出しには応じたものの納得のいかないエイベルは、ホテルまでの道中、いつもと変わらぬ鉄面皮の奥で延々と不服申し立てを行っていた。まず昨夜の打ち合わせからして、全く益が無いまま終わったのだ。そのくせ妙に長引いたせいで、睡眠時間が足りていない。先方のせいで寝不足の所を、電話一本で一方的に叩き起こされた形の自分には、十分に苛立つ権利がある。

 ――そもそも殺し屋は職業上、朝には強くないというのに。

 そういう訳でホテルに着く頃には既に相当の不平不満を溜め込んでいたエイベルだが、ホテル側の所業はそれだけでは終わらなかった。朝食も終わらぬ早朝に人を呼び出しておいて、謝罪はおろか碌な挨拶も説明もせず、唯一あったのは「説明があるまで待機」の指示のみ。彼を部屋まで連れてきた案内役はすぐに出て行き、それからこうして三十分ほど待たされている。

 これはもう裏側とか表側とかいう問題ではない。裏の仕事の長いエイベルにも確信を持って言える程、フツーにとっても失礼である。自分が肩入れしているのはあくまで商会であってこのホテルではないのだ、無礼に目を瞑る義理は無いと、声を大にして主張したい――

 がちゃり。

 唐突に背後から響いたドアの開く音に、エイベルは驚いて立ち上がる。普通ノックくらいするものではないのだろうか、という疑問は、入ってきた男を見て消え去った。

 色の褪せたような銀髪を後ろに固めた、四十路くらいの男性。スーツにアスコットタイという着こなしにも隙が無い。一見細身だが、その実十分以上に筋肉がついているだろうことは、重心のぶれない歩き方からよくわかる。厳めしい表情からは、感情らしいものは読み取れない。

 だが、何よりもエイベルの意識を引いたのは男の目だった。

 自分と同類の――人殺しの眼。

「君がブラッドバーン君かね」

 確認の態でありながら、有無を言わさぬ低い声音。緊張感がぴり、とエイベルの肌を刺す。同時に、昨日会った社長が自覚していなかったであろう実態を悟った。

 ――この陣営の本丸は、恐らくこちらだ。

 本能的に姿勢を正したエイベルを見て、男は「……良いだろう」とひとりごちる。

「ヘクター・メイスフィールドだ。暫くの間、私の指示に従ってもらう」

 エイベルへ向けて、挨拶のための右手が差し出された。エイベルはすぐさまその手を取ると、軽く握ってそれに答える。

 否、という選択肢は無い。最早商会の体面以上に、この男の存在の方が問題だった。この手の人間は手段としての戦争を躊躇しない。少しでも拒否の態度を見せれば、その矛先は自分のみならず商会そのものへと向くだろう。

 ここから先は、どうあっても事を荒立ててはならない。

 先方が席に着くのを見て、エイベルも再び腰を下ろす。ヘクターと名乗った男は前置きも無く本題に切り込んだ。

「君に、この街の案内を頼みたい」

「……案内、ですか?」

 思わぬ内容に、エイベルの片眉が上がる。彼の疑問を首肯し、ヘクターは続けた。

「昨日、ここから子供が一人逃げ出した。銀髪に赤い目の子供だ。年端もいかぬ幼子だが、何分希少な人材でね。現在部下が総出で探しているが、君にもその手伝いをして貰う。勿論、別途報酬は出す」

「それは構いませんが、一口に探すと言っても。何か目処は?」

 あくまで淡々とした説明に、流石のエイベルも声に若干の動揺が混じる。対するヘクターの言葉は変わらず端的だ。

「この街で人が集まる場所は」

「人ですか」エイベルは少し考え込む。「今日は第二日曜ですから、メインストリートで市が立ちます。露店も多く出ますし、規模はちょっとした祭り並みかと」

 そう口にしてしまってから、そういう次元の話ではなかったのではと思い至る。しかし、窺い見た先のヘクターは表情一つ変えずに頷いた。

「ではそこへ」

「……はあ」

 溜息のように曖昧な返答は、エイベルにしては珍しい。一方のヘクターは、それ以上説明を加えることもなく席を立つ。

「多少荒事になるかも知れないが、準備の程は? 必要な装備があれば用意させるが」

「いいえ」

 こちらも立ち上がりつつ即答するエイベル。遠慮からでも警戒からでもなかった。元来、武器を必要とするスタイルではない。

「結構、ではすぐに出る。時間が惜しい」

 身を翻して部屋を出ようとするヘクターを、エイベルがあの、と呼び止める。

「一つ聞いても?」

「何か?」

 そう答える彼の顔からは、やはり感情は読み取れない。

「その子供というのは、一体」

「ああ」

 その問いに、ヘクターが初めて表情を変えた。いっそ剣呑なほど目が細められ、薄い唇は音も立てずににい、と歪む。

「大事な大事な、『被検体』だ。」

 歪なそれが笑みだということに気付くまで、エイベルはかなりの時間を要した。

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