第5話 エイベル・ブラッドバーン

 

 エイベル・ブラッドバーンは落胆していた。原因は目の前の男の器の小ささにあったが、落ち込む理由は他にあった。

 元フリーの殺し屋であるエイベルは、一月ほど前に仕事でこの街にやって来た。だがその仕事で下手を打ち、かつてない程の大怪我を負ってしまった。死に体のエイベルを拾って、何かと世話を焼いてくれたのが『ヴィヴェンツィ商会』だ。街の裏側とも深く繋がる彼等は怪我の治療や寝食の世話のみならず、リハビリ中のエイベルの技量を見込んで、そのまま護衛として雇ってもくれた。そんな商会に、そして何より世話を焼いてくれた上司達に、エイベルは返し切れぬほどの恩を感じていた。

 彼等のお陰で怪我も完治し、初めて一任されたのが今回の仕事だ。曰く、「提携・資金援助を頼んで来たホテルがあるがどうもキナ臭い。交渉担当としてウラを探ってくれ」という。先方の手勢と荒事になる可能性を考慮し、エイベルに白羽の矢が立ったのだった。

 自分の能は人殺しだけだと自負するエイベルに、それ以外の仕事を任せてくれたのは彼らが初めてだった。殺し屋という職に嫌悪感を抱いている事を、彼らは見抜いていたのだろう。それがエイベルには嬉しかった。何としても期待に応え、良い報告を持ち帰ろうと意気込んでいた。

 だが、とエイベルは改めて目の前の男を見る。向かいのソファに座る、見るからに虚飾に塗れた男。三十路頃だろうが落ち着きが無く、高級そうなスーツにも着られているという印象だ。

 ユージーン・ロイスという名のその男こそ、このホテル・ロイヤル・ロイスのオーナーで、エイベルの上役に援助を依頼した張本人だった。

「今、我がホテルの売り上げは順調に伸びている最中です。前年度の同時期と比べれば実に二倍以上の利益になる。まあそれもこれも発案者たるあの男と、それを雇った私の慧眼によるものですがね。加えてそちらの援助を頂ければ、この事業を更に展開できます。必ずや、投資以上の利益を約束しましょう!」

 エイベルの白い目に気付く素振りもないまま、ロイスは意気揚々と話し続ける。

 会談も半ばを過ぎた辺りから、ロイスの話は仕事ビジネスのそれではなく、ただの自慢話になっていた。それも性質の悪い犯罪自慢である。実に下らないその自慢話の内容は、しかし社長たるロイスの人間性を量る以上に、このホテルの実態を量るに十分なものだった。

 エイベルの所属する商会も真っ白な組織という訳ではない、ホテルに併設したカジノの条例違反な倍率に関しては目を瞑ろう。不正を悟られぬほどの手腕であれば、むしろ歓迎さえしても良い。だがロイス率いるホテルのやり方はイカサマというにはあまりにお粗末で、当然のように発生するクレームは恐喝と腕力で叩き潰すという有様だった。加えて無暗に私兵や用心棒を雇っては、それなりの躾も施すことなく放置して、街の均衡を崩しているのも頂けない。

 更にはこうして直接顔を合わせた事で、エイベルはこの男にある種の警戒心を覚えていた。いや、この男に、というのは正確ではない。経歴上、エイベルはしくじりそうな相手や場所には敏感だ。ホテル・ロイヤル・ロイスは正にそういう空気に溢れていた。

 率直に言って、ここと手を組むのが良い選択だとは思えない。だがエイベルの仕事はその有様を報告する所までだ。今この場で判断を下す事ではないし、そもそもその権限もない。それに相手に見込みが無いとはいえ、顔合わせで粗相があっては商会の名に傷が付く。

 一抹の不安と膨大な不満を堪えるエイベルを置き去りに、ロイスの自慢話は山を越え、申し訳程度のこちらへのおべっかに切り替わっている。どうやら今日はそろそろ解放されそうだ。

 それから喋り続けること五分ほど、ようやくロイスが締めの言葉を口にした。

「それでは、宜しく頼みますよ。Mr.ブラッドバーン」

 ずいと、無遠慮に差し出されたロイスの右手。半ば呆れつつ、エイベルはその手を儀礼的に握り返した。

「こちらこそ。良い報告が出来ると良いのですが」

 こういう時、生来表情に乏しい自分は得だとエイベルは思う。愛想笑いで顔を引きつらせる心配をせずに済むからだ。



 一礼して部屋を出たエイベルは、廊下を進みながら思案する。経過を伝えに一度上司の元へ戻るべきか。しかし日々仕事に追われる彼等は、明日に備えてもう休んでいる頃合いだろう。

「うん?」

 ふと気配を感じて、エイベルは脚を止めた。見ればエレベーターの向かいの窓際に、少女が一人立っていた。窓を開け、半ば身を乗り出すように外を眺めている。

 小柄な身体はエイベルの胸までもなく、人形のようなふわふわした黒いドレスを纏っていた。それが所謂ゴシックロリータと呼ばれるものだと、ファッションに疎いエイベルは知らない。更に少女は室内だというのにつばの広い大きな帽子を被っている。帽子の後頭部の側には黒く長いベールが付いていて、少女の顔はおろか髪の毛の一筋すら見えなかった。

 エイベルの足音に気付いたのか、少女がこちらを向いた。帽子のせいでエイベルと目は合わない。合わなかったが、少女の方から「おにいさん」と声を掛けて来た。

「おにいさん、しらない人。あたらしいようじんぼうの人?」

「……いや」

 立場上は似たようなものだが、あの男の部下とは認めたくない。エイベルの小さなプライドをよそに、少女はさらに言葉を紡ぐ。

「あのね、おねがいしてもいい?」

「お願い?」

「ハンカチ、落としちゃった。だいじなものなの。おにいさん、拾ってきて?」

 窓の外を指差す少女の表情は相変わらず窺えない。だがその声には本気の困惑が滲んでいる。それを察したエイベルは、否定的な声音にならないよう細心の注意を払って疑問を投げた。

「……自分で行けば良い、のでは?」

「いけない」少女は静かに首を振る。「わたしはね、ひとりでここから出ちゃだめなんだって。ほんとは、ハンカチも拾いに行きたいし、外にあそびにも行きたいんだけど。でも、だめなの」

 俯く少女の様子に、エイベルの脳裏で一人の知り合いが重なる。この街で出来た友人の、病弱な妹。あの子も満足に外に出られず、寂しそうに外を眺めているばかりだ。理由は違えど、さぞもどかしい思いをしている事だろう。あの子も、この少女も。

 エイベルは肩を落としたままの少女の頭に、そっと、帽子の上から手を添えた。

「なら、一緒に行くか?」

「え?」

「拾いに行くだけならすぐだろう。誰かに見つかったら説明してやるから、一緒に行くか?」

「――うん、行く。」

 答えた少女の声は僅かに、しかし確かに弾んでいた。

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