第4話 トニー・マークス
人気の無いビルの屋上で、トニーは大きく紫煙を吐き出した。それをそっと攫った夜風が、彼のくすんだ金髪も揺らしていく。
夜を照らすグレイフォートの歓楽街を横目に、彼が見つめるのは暗い裏路地だ。闇の中に二つ、三つと浮かぶ小さな部屋の灯かりだけでは、夜道を照らすには頼りない。様子など大して分かる筈も無い路地を、それでもトニーは眺め続ける。その足元には黒いカバーの掛けられた、細長い物体が置かれていた。
遠い喧騒が静かに流れるだけの穏やかな空間を、突如として響いた電子音が切り裂く。それに慌てるでもなく、トニーは懐から携帯を取り出した。
「ん、俺や」
西部訛りの強いイントネーションは、多様な人種の揃うこの街でも珍しい。小さく頷きながら、トニーは電話の声に応える。
「そか。まあ、そないなとこやと思っとったけどな……了解、ほな」
苦笑いで電話を切ると、彼は再び煙を吐いた。今度は溜息が主だった。
電話はチームの偵察担当者からだ。彼が捜していたのは、組織の稼ぎの主力商品を無断で横流ししていた男。同じ雇われの身だったその裏切り者が、前情報通りに見つかったという報告だった。そこまでならば喜ぶべきだが、肝心の男は既にブツを売却していて、それで得た金も全額カジノですった後だというから笑うに笑えない。
電話によれば、今からその裏切り者をここから見える通りに追い込む、という話らしかった。
その場にしゃがみ、トニーは足元のカバーを外す。現れたのは細身のスナイパーライフルだった。消音器が取り付けられ、安全装置を外せばすぐにでも撃てる状態だ。トニーは地面に伏せるようにライフルを構え、そのスコープを覗く。安全装置を外しながら、先ほどの指示を思い返した。表通りから三本入った、街灯の二つ目。
「……あれか」
街灯に照らされた路地に、若い男が一人駆け込んできた。その後を悠然と追う、銀髪の男の方には見覚えがある。寄せ集めである自分達を、いつからか束ねる立場にある男だ。
「ようやるわ、ホンマ」
追手の男によって、裏切り者は路地の壁際に追い詰められる。何か派手な動きがある訳ではない。追手の男は文字通り「追い詰めた」だけだ。それが出来るだけの心理術と、何より気迫を、あの男は持ち合わせている。
上司とも呼べる男の冷たい視線を思い出して背筋を粟立たせたトニーだったが、軽く頭を振ると煙草を消し、狙撃の態勢に入った。自分がここに居ることはあの男も知っている。いつ狙撃の指示があってもおかしくない。
体中の力を抜いて、スコープ越しの狭い視界と引き金に添えた指先とに全てを集中する。呼吸は深く長く、そして少なく。
スコープの向こうで、追手の男が右手を挙げた。それが合図だった。
トニーは指先にそっと力を込める。
銃声は響かず、くぐもった音が漏れるだけ。しかし狭い視界の中、壁際の男の頭部に──頭部だった所には、確かに赤い花が咲いていた。ずるりと崩れ落ちるその身体を見届けて、トニーはスコープから目を離す。
「──やれやれ」
殺していた呼吸と一緒に、思わず言葉が漏れた。立ち上がって、背を伸ばしながら天を仰ぐ。
良い夜だった。天気も狙撃の邪魔をしないし、何より風が優しい。トニーは新たに煙草を咥えると、安ライターで火を点ける。自分にとって外す距離ではないとは言え、無事に仕事を終えればやはり安堵は覚えるものだ。
不健康な煙を味わいながら、そう言えば、と不意にトニーは思い出す。追手の男の連れである、年端もいかない少女は今頃どうしているだろうか。ある時世話を任されて以来、何故か懐かれてしまっている。表情には乏しいながら、無邪気に慕ってくれる様子に悪い気はしなかった。昔亡くした妹に、何処か似ているせいもあるだろう。
あの男はあの子を一人で外には出さないと言っていた。彼が連れていないのならば、一人で拠点にでも残っているのだろうか。もう夜も遅い、寝ていてくれればいいのだが。
考えながら、手は慣れ親しんだ後片付けの手順を辿る。意図せず触れた銃身はまだ熱を残しており、その感触にトニーは思わず眉をひそめた。温い金属から逃げるように、狙撃手は思考を巡らせる。
あの子へのお土産に何か買って帰ってあげようか。前に買ってあげたキャンディは随分と気に入っていたようだった。なにも特別なものではない、グローサリーで買った普通のキャンディだ。それが心底物珍しかったのか、違う味もあると告げれば目を輝かせていたのを覚えている。
たった今人を殺したライフルを背負って、トニーは決めた。
――あのキャンディを買って帰ろう。また喜んでくれると良いのだけれど。
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