第2話 ダニエル・エアハート

 

 ──失敗した。

 銀の短髪を隠す余裕も無いまま、路地を駆ける少年──ダンことダニエル・エアハートは舌を打つ。『対処』を躊躇ったせいで、四人も目撃者を作ってしまった。いや、昏倒させた男を含めて五人も、だ。おまけにその騒ぎでまた彼を呼び寄せてしまった。

 再び背後に迫って来た足音は乱れる様子も無い。追手の彼とはもう小一時間ほど鬼ごっこを続けている。思えば随分と長引いているものだ。一度は運良く撒いたものを、つくづくさっきの発砲は失敗だった。

 彼について、ダンの知る所は少ない。ちらりと窺った限りでは、彼の獲物はアサルトライフルか、それより取り回しのしやすい騎兵銃カービン。この街でもそうそう手に入るものではない、どこかの組織の所属だろう。その心当たりがダンにはある。

 そして、その重石を抱えての長距離走でありながら、こちらを付かず離れずで追って来る手腕。人通りの多い道にこちらを出さない、ギリギリの威嚇射撃による誘導。追手はこの街を熟知し、市街戦にも慣れている。

 要は準備も手際も段違い。少年自身、徐々に追い詰められている自覚はあった。

 だが止まる事は出来ない。こちらが止まれば向こうは容赦しないだろう。これまでの威嚇射撃を鑑みれば一撃で致命傷、という事こそ無いだろうが、怪我を顧みてくれるほどには甘くないはずだ。まず足に命中てられて、逃げられなくなった所を連れ帰られる。

 ──それでは駄目だ。生きているだけでは駄目。

 ──絶対に捕まってはいけない。

 ──捕まったらきっと、次は無い。

 不意に背後から、ぼすっ、と鈍い音が響く。それはダンにも聞き覚えのある音だった。

 ただしこんな街中ではなく、かつて駆けた砂塵の舞う戦場で。

 ダンは咄嗟に脇道に駆け込むと、滑るように地に伏せる。同時に耳を塞いで口を開けた。

 一拍おいて襲ってきたのは、目を瞑っていても感じる閃光、耳を塞いでも響く衝撃。

 ──スタングレネード!

 殺傷性の低い制圧用とは言え、市街地で、しかも子供一人に対して使う代物ではない。

 衝撃をやり過ごして前を向けば、駆け込んだ小道はその先数メートルとせずに先細り、とても通り抜けられるものではない。動揺を一呼吸で沈めると、そっと窺うように元来た道へと戻る。

 手榴弾の直撃を受けたごみ捨て場には可燃物でもあったのか、火の手が上がっていた。俄かに明るくなった路地でまずダンが認識したのは、自分へと向けられたカービンだ。軍用と同型のその銃身には、取り付け式のグレネードランチャーが付いている。

 次いで響いた声に誘われるように、ダンの意識はその使い手へと移った。

「──やーっと追い付いた。」

 炎に照らされた追跡者の顔は意外にも若い。どう贔屓目に見ても二十代、十代だと言われても納得出来る。癖のある黒髪に黒縁の眼鏡、加えて端正なその造作は、一見すれば物騒な路地裏には似つかわしくない。だが軍用銃、ランチャー、加えて腰には大口径の自動式拳銃まで揃えた男が真っ当な人間である筈もない。

 何よりその顔に浮かんだ暗い笑みと、隠す気など更々無いと言わんばかりの殺気。

 青年の纏った気配は、明らかに『こちら側』のものだった。

「ガキの鬼ごっこにしちゃあ悪くなかったんだけどな。……銀髪に赤い目。間違いない、と」

 青年はダンに不躾な視線を向ける。一通り眺めると、促すように銃を軽く振った。

「仕方ないから身の安全は保障してやる。諦めて投降しろ」

 青年の言葉に、ダンがピクリと反応する。

 昔から、嘘を見抜くのは得意だった。殆ど直観的なそれが、これまで間違っていた事は無い。その勘でもって見て、彼の言葉に嘘は無かった。

 しかし、と少年は考える。彼が自分を追っているなら、そしてその目的が自分の予想通りなら、『脱走者』の自分にそんな事は言えない筈だ。それに、そもそも今までの発砲は何だというのか。威嚇は威嚇なのだろうが、あれは「当たっても良い」威嚇だった。

 強烈な違和感にダンはしばし戸惑う。が、結局は青年の促しを切って捨てた。

「──断る」

 口約束の保障など信用ならない。言葉に嘘がなかったとしても、敵意が本物なら意味は無い。

 短い返答を受けた青年は、にやりと口角を釣り上げる。

「訊いてんじゃねぇんだよ、ガキ。」

 青年が無造作に引き金を引いた。ダンのすぐ足元を抉った弾丸は、明後日の方向へ跳弾する。ダンは青年を見据え続けていた。この近距離であの照準なら当たらない。それを判断できるくらいの経験値はあった。

「……多少の度胸はある訳か。つまんねーなぁ」

 身じろぎ一つしないダンを見て青年が言う。彼は銃を構えたまま近付いて来ると、ダンに向けて無造作にその銃口を突き付けた。

「武器を捨てろ。両手を挙げて立て」

 青年の端的な命令に、ダンは一拍だけ逡巡する。そして、慎重に場所を見て銃を置いた。身体から少し離した、右足の少し先。銃から手を引きながら、ちらりと青年を窺う。向こうの視線はまだダンから外れない。

 ダンは殊更ゆっくりと両手を上げる。膝を立て、出来るだけ緩慢な動作で、時間を掛けて身を起こした。直立すると、青年の視線を真っ向から受け止める。

 その瞬間の、彼の拍子抜けしたような表情を、聡い少年は見逃さなかった。

 ──今だ。

 右手でカービンの銃身を掴むと、一気に右腕を伸ばし身を屈めた。

「なッ!?」

 青年の小さな驚きの声と、数度連続する発砲音。勢いで引き金を引いたのだろう、銃身を掴む手に振動と熱が伝わる。発された弾は懐に潜り込んだ小柄な少年には当たらず、近くの壁を抉るだけで終わった。

 ダンは屈んだ姿勢から右足を伸ばし、その踵で先ほど置いた自らの拳銃を手前へ蹴る。地面を滑った拳銃は、持ち主の左手へと収まった。同時に右手の銃身を引き寄せ、至近距離から銃を持つ相手の手を狙う。

「──ッ!」

 小さく息を呑み、青年は咄嗟にカービンから手を離す。間一髪で銃弾は避けるものの、彼の獲物は完全にダンの手中へ収まった。

 一つ舌打ちした青年は、しかし腰の拳銃へと手を伸ばす。それを見たダンは、今しがた奪ったカービンを青年に向けて放り投げた。

「うおっ!?」

 思わぬ投擲に怯んだ青年の脇を抜け、ダンはその背後、来た道を戻る。一番手前の路地へ飛び込むと、振り向かずに走った。

 背後からの足音が聞こえない事を確認して、ダンは走りながらパーカーを被る。これで人混みの中に紛れられる。取り敢えずは、大通りに。それだけを考えて少年は走る。他には何の当ても無かった。

 いや、当てだけではない。

 今の彼にあるのは『捕まってはならない』というタスクと、それを実行するための小さな武器だけ。それ以外は何も無かった。勝算も、希望も、何もかも。

 それでも街を駆け行く少年の脚は止まらない。自らに言い聞かせるように、小さく呟く。

 ──大丈夫。大丈夫だ。

 ──こんなの、いつも通りじゃないか。

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