ノイジーセッション・オールスタ
鈴久育
序 Deal the cards
第1話 エイジ・キド
思えば昔から、自分はツキが悪かった──そう、
受験をすれば悉く「近年稀に見る難化」と言われ、進学先は常に滑り止めだった。上京して新卒で就職した会社は、上層部が不正を起こして三ヶ月で潰れた。想定外にも始まってしまった延長戦の就職活動では片っ端から祈られ続け、やっと手にした最終面接は時期外れの台風が直撃して延期となり、二度目のチャンスはそのまま終ぞ与えられる事はなかった。
遂には主な収入源であったアルバイト先も人員削減の為の閉店が決まり、申し訳なさそうな店長から申し訳程度の手切れ金を包まれた所で、流石に栄次の心も折れた。
何をする気も起きないまま、僅かな退職金と、雀の涙の貯蓄と、趣味のブログによるあって無いような収入とで食い繋ぐ日々がふた月ほど続いた。
努力が足りなかった──という訳ではない、と思う。それは勿論、血が滲む程、全てを犠牲にする程の努力をしたとはとても言えない。それでも、隣を見れば同じ程度の努力をした人が十人並みにやって行けている、それくらいの努力はして来たつもりだ。
だというのに、何故か栄次だけは、賭け金に釣り合うだけの見返りを摑み損ねてきた。
先の見えないどん詰まりの日々。減っていく一方の口座残高に焦りを覚えるだけの毎日。
そんな折、彼の人生に突然一筋の光明が差した。
もののついでに参加した商店街のクジ引きで、見事一等賞の海外旅行を引き当てたのだ。
行き先は、アメリカ合衆国の東海岸沿いに位置する小さな街、St.グレイフォート。州こそ違えど大都会ニューヨークからもほど近いその街は、合法カジノを主力にエンターテイメントの粋を集めたという、知る人ぞ知る観光都市らしい。観光ガイドを飾るキャッチコピーは、「
これだ、と思ったのは何の根拠も無い直観だ。旅行をした程度で今の窮地を脱せる訳がないのは十二分に承知している。むしろ、少ない口座残高がより圧迫される事は請け合いだろう。
それでも、その売り文句に賭けるしかなかった。
幸いにして、三流ながらも外語大に入れた程度の英語力は持ち合わせている。栄次は逃げるようにして飛行機に飛び乗った。
二泊三日の間、遠い異国で、何の背景も持たないエイジ・キドとして生きれば、きっと何かが変わると信じて。
──だと、いうのに。
「ごめんなさいごめんなさいホントにごめんなさいお願いだから許してください‼︎」
小学生でも分かる英語を連呼するエイジは現在、路地裏で柄の悪い男達に囲まれていた。
細い道が絶妙にずれて交錯し、他よりほんの少しだけ開けた路地の薄暗がりで、エイジの陰には怯えた顔をする金髪の少年が一人。その周囲を取り囲むのは二十代程の男達だ。身体にやたらめったら入れ墨のある中肉中背と、筋肉質な大柄と、ナイフをちらつかせるパンチパーマ。彼らの態度からして大柄な男がリーダー格らしい。
そのリーダー格が、エイジの胸倉を掴み上げて凄む。
「テメェ俺らの邪魔するたぁ良い度胸じゃねぇかジャップが! ぶっ殺されてぇのか⁉︎」
「ノーノーノー!
知識としてはあっても実践経験の足りない英語力では、こうしてテンパってしまえばすぐにボロが出る。急に片言になった英語でどうにか弁明を試みるエイジの脳裏には、走馬灯の如くここ数時間の行動が蘇っていた。
無事にグレイフォートの街に着き、ホテルにチェックインを済ませたエイジは、早速運試しと意気込んで近くのカジノに足を運んだ。
不運なエイジにしては珍しく、始めてしばらくの間勝ち越していたのは嬉しい誤算。
その内に負けが込み始め、いつの間にか勝ち分どころか予算が尽きていたのは悔しいが予想の範囲内。
だがホテルへの帰り道、うっかり迷い込んだ路地裏で、恐喝の現場に遭遇しようなどと──そして、よりにもよって被害者の少年と目が合ってしまうなどと、一体誰が予想しようか。
否、情報としてはエイジも知っていたはずなのだ。何せつい先刻、カジノに併設されたバーのマスターが教えてくれた。
この観光都市の一番の売りは、その昔、市民運動を経て勝ち取ったという合法カジノ。だがこの街のカジノの歴史は、カジノ合法化の歴史より遥かに長い。賭博がまだ違法だった頃からグレイフォートには多くのカジノが存在し、またそれらを運営する反社会的な勢力も多かった。
その名残もあり、観光地区以外のグレイフォートは治安が良いとは言い難い。加えてそもそもこの街自体、来るものを拒まないという性質を持つ。それが観光都市としての最大の強みである一方、こうして運悪く法の向こう側を体験してしまう観光客も常に──それも少なからず──存在する、と。
それでもごく良識的な日本人であるエイジは、大の男に絡まれ、助けてくれとこちらを見詰める少年を見捨てることは出来なかった。
とは言えごく良識的かつ一般的である日本人のエイジは、当然ながらこんな反社会的な修羅場を収めるだけの技量は持ち合わせていない。義憤と勢いだけで間に割って入った結果、こうして泣きを見る羽目になっているのだった。
「うるっせぇんだよ! 謝るつもりならさっさとカネ出せっつってんだろ、え?」
「だから今持ってないんですってぇ!」
ひたひたとナイフで頰を叩かれて、半泣きで声を上げるエイジ。だが、その主張に嘘は無い。
割と流されやすい自覚のある彼は、人生初のカジノに赴くにあたり、今夜の予算以外の現金を全額ホテルのバックパックの隠しポケットの中に置いてきている。完膚無きまでに負け越して手持ちが尽きても落ち着いていられたのはその為だ。後はホテルまで帰るだけの筈だったエイジは、現在真正の一文無しだった。もっとも、この状況に至っては自らの危機管理能力を褒めるべきか恨むべきかは悩みどころだが。
そんな事情など当然知らないチンピラ達は、エイジの襟元を一層捻り上げて恫喝を続ける。
「さっきから無い無いってテメェよぉ、んな訳ねぇだろうが、あぁん⁉︎ あんま舐めてっと──あ?」
男の怒声が止んだのは、不意に響いた物音のせいだ。タッタッと規則正しく響くそれは、紛れも無く足音だった。
疚しい現場を見られたくないチンピラ達は勿論、足音の主が窮地を救ってはくれないかと淡い期待を抱くエイジと金髪の少年も、足音の聞こえた路地を見詰める。
その場の全員が注目する中、遂に音の主が姿を現した。
背後を気にしつつ飛び出して来たのは、グレーのパーカーにカーゴパンツ姿の小柄な影だ。深く被ったパーカーのフードのせいで、その顔を見る事は叶わない。
一拍遅れて路地裏の修羅場を認識したのか、彼は──おそらくは彼で良いだろう──ピタリと硬直する。次の瞬間踵を返して走り出そうとしたその腕は、しかしチンピラの一人によって素早く掴まれてしまった。
「おいガキ! 何逃げてんだ、来い!」
力任せに腕を引かれ、小柄な影はいかつい男達の中心に引きずり込まれる。エイジの目の前に投げ出された彼に、最初に絡まれていた金髪の少年が気弱そうな視線を向けた。
どうにか転ばず踏みとどまった闖入者は、フードの下から男達の様子を窺っているようだ。日本人として平均的な身長のエイジよりも頭一つ分背の低い、ほぼ間違いなく少年であろう彼。しかしその所作には妙に余裕が感じられる気がして、エイジは内心で首を捻った。
そんな違和感に気付く様子もないチンピラ達は、パーカーの少年にも躊躇無く絡んで行く。
「テメェ何ガンくれてんだよ、ああ? 見世物じゃねぇんだよ!」
理不尽に言い寄りながら、リーダー格の男がパーカーの少年の肩をどついた。衝撃に合わせ後ずさった彼に、取り巻きの刺青男とパンチパーマがニヤ付いた笑みを深める。
「おら、何とか言ったらどうなんだよ! ガキでもごめんなさいくらい出来んだろうが⁉︎」
「何だぁ、ビビってんのか? まあ無理もねぇけどなぁ」
「大体顔なんか隠しやがって、生意気なんだよ! 脱げよそれ!」
謎の理屈で少年のフードへと手を伸ばすリーダー格。途端、それまでされるがままだった少年が男の手を払い除けた。
「なっ……テメェ!」
反抗的な態度が癪に障ったのか、リーダー格の男は躍起になってフードを脱がそうとする。対する少年も余程顔を隠したいようで、両手でしっかりとフードを押さえ込んだ。その行動は、余計にチンピラ達の不機嫌を煽る。
「このガキ……! おい、そこのテメェ! コイツのフード取れ!」
「おっ、俺⁉︎」
急な指名に驚いたのはエイジだ。自らを示して声を裏返らせた彼は、困り顔でリーダー格の男とパーカーの少年を交互に見やる。
「いやでも、その子嫌がって、」
「ハァ? 誰が口ごたえしろっつったんだよ、あぁ⁉︎」
「ひっ、ごふっ……!」
エイジが悲鳴を上げる前に、その鳩尾にリーダー格の男の拳がめり込んだ。予想以上の衝撃に、酷く咳き込みながら膝をつく。反射的に嘔吐くエイジに、当初の犠牲者であった金髪の少年が、お兄さん、と小さく声を上げて駆け寄った。
それでも収まらないらしいリーダー格の男は、忌々しそうにパーカーの少年を睨み付ける。
「くそ、イラつくガキだな……テメェらも見てんじゃねぇ手伝え!」
リーダー格の一喝で、他の二人の男達が少年を抑えにかかる。大人と子供の体格差に加え、多勢に無勢。羽交い締めにされた少年の頭からフードはあっけなく剥ぎ取られ、彼の素顔が露わになった。
フードの下から現れたのは、日に焼けた肌に、灰色がかった銀の短髪。しかし、丁度立ち上がりかけていたエイジと真っ向から視線を合わせたのは、それ以上に珍しい特徴だった。
「君、目が……?」
酸化しかけのワインのような、鈍いが確かに赤色をした瞳。エイジの小さな呟きを拾い上げ、赤褐色のそれが見開かれる。物言いたげに震えた少年の唇から、しかし言葉が零れることは無かった。
「おい、何だあ?」
目的を達したリーダー格の男が、小馬鹿にするような声を上げる。それを機にチンピラ達へと意識を戻した少年は、弛んだ拘束を力任せに振り解いた。しかしリーダーの余裕につられてか、取り巻きの男達はニヤニヤと笑うだけだ。
リーダー格の男は嘲るようにゆっくりと、少年の顔を覗き込む。
「やけに隠すと思ったらよぉ、ひひっ! 見ろよ、コイツ白髪じゃ──」
しかし、男の台詞は続かなかった。
不意にパーカーの少年が、男のこめかみを目がけて右腕を振り抜いたからだ。
「がっ!」
急襲を受けた男は碌な抵抗も出来ないまま崩れ落ちる。起き上がって来ない男を冷ややかに見詰める少年の右手には、何処に隠し持っていたのか、自動式の拳銃が握られていた。
「えっ? ……えっ⁉︎」
驚いて少年の凶器を二度見するエイジだが、状況が変わる事はない。この場で最大の暴力装置を手にした少年は、ゆっくりと残りの男達に目を向けた。
「て、てめぇ!」
我に返ったパンチパーマがナイフを振り上げる。少年は刃を拳銃で受け止め、空いている手で男の手首を掴んであらぬ方向へと捻った。あっけなく手放されたナイフを蹴り飛ばすと、少年はパンチパーマの体勢を崩し、自身へと向かって来る刺青の男の方へ突き飛ばす。
「ぎゃっ!」「うおおっ!」
勢い余ってもつれ合う二人。どうにか体勢を立て直した時には、パーカーの少年の銃口は彼らへと向けられていた。
少年は標的を見据え、一歩、歩を進める。
「ひッ……く、くそっ!」
その異様な迫力に負け、男達は声を上げて逃げ出した。
助かった、そう思ったエイジはほっと息を吐く。しかしその目の前で、パーカーの少年はおもむろに腕を伸ばすと、小さくなって行くチンピラ達の背中へと照準を合わせた。
「え……?」
エイジの知る日常、これまで培ってきた常識からはとても考えられない光景。無力に逃げ出す大人へと躊躇いなく銃を向ける少年を目の当たりにして、エイジの思考が空回る。
──止めないと。人が撃たれる。撃たれたらきっと死んでしまう。
──止める? あの少年を?
──無理だ。だって銃がある。ただのチンピラの前に出るのとは訳が違う。
──怖い。身体が動かない。
立ち竦むエイジをよそに、パーカーの少年がゆっくりと引き金を絞ろうとした瞬間。
「や、やめて!」
少年の腕が横から押しやられ、大きく狙いが逸れた。勢い放たれた弾丸は無駄弾となり地面を抉る。
奇襲に驚く少年に食ってかかったのは、エイジの陰で怯えて縮こまっていた筈の金髪の少年だった。
「ダメだよ! 何もこ、殺さなくたって!」
必死な形相の少年を、暗赤色の瞳が捉える。そこに一瞬前までの驚愕はもう無かった。代わりにあるのは僅かな逡巡。この非力そうな少年を『的』と見なすかという迷いだ。
「ひぇっ、」
冷たい視線に怯えた少年が、小さく声を上げた──その時だった。
パーカーの少年が、唐突に自分の元来た道を見やる。何かに気付いたように息を呑むと、金髪の少年へと飛びかかった。
「うわあっ!?」
「えっちょっと⁉︎」
悲鳴を上げた金髪の少年ごと、パーカーの少年はエイジの方へと倒れ込む。エイジが咄嗟に身を引いて出来た空間に滑り込んだ二人の背後で、数瞬前まで立っていた地面が破裂音と共に爆ぜた。
「な、何が──うわ!?」
素早く起き上がろうとした金髪の少年を、パーカーの少年は再度突き飛ばす。エイジがその身体を支えたのを振り返りざまに見届けて、彼は路地の向こうへと駆け抜けて行った。
その瞬間、パーカーの少年が来たのと同じ路地から飛び出して来る人影があった。軽やかな足音と共にエイジの目の前を横切る影からは、辛うじて男である事と、大きな銃らしきものを携えている事しか読み取れない。
しかし。
「────ひッ⁉︎」
一瞥された。目が合った。そう感じた瞬間、エイジの全身を怖気が包み込む。それはエイジが生まれて初めて体験した殺気という概念だった。
──殺される!
眼を瞑る事さえ出来ず、身を強張らせるエイジ。しかし人影はエイジにそれ以上の興味は示さず、パーカーの少年が去った路地へと姿を消した。
ばくばくとうるさい心臓を押さえて、エイジは呆然と路地を見詰める。放心状態の彼の耳に、ふと小さな呟きが届いた。
「いたた……」
その声に我に返ったエイジは、慌てて腕の中の金髪の少年へと声をかける。
「君、大丈夫? 怪我とかは……」
「あ、はい、大丈夫です」
路地裏へと消えた影には気付かなかったのか、少年は弱々しくも笑ってみせた。
「こっちこそ巻き込んでしまってすみません。助けてくれてありがとうございました」
「いや、俺は別に、何も出来なかったし……」
そんな会話が交わされる頃には、路地は本来の静けさを取り戻していた。
「とりあえず、助かった……のか?」
残されたのは、呆然と呟くエイジと、それを怪訝そうに見上げる金髪の少年のみ。ふと腕時計を見れば、エイジが路地裏に迷い込んでからまだ五分程度しか経っていなかった。
ほんの束の間、いっそ夢かと疑うような攻防戦。それが紛れもない現実である事は、エイジの目の前に倒れ伏したままのチンピラが証明していた。
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