第27話 違う。そうじゃない。

 怒られるだろう、と予想して出かけていったのは事実だった。

 だから怒られることを覚悟した。

 そして食卓の目の前には父親が居る。右側に母親がいる。家族全員揃うなんてとても珍しい光景。


「何を言いたいか判っているな?」


 父親は低音の声を持っている。

 会社から帰った後にはコットンのシャツにこの季節はカーディガンを羽織っている。でもそれ以上に崩すことはない。風呂上がりにも絶対に腰巻きタオルでぶらついたりしない人だ。


「黙って出かけたのはごめんなさい。でもあたし、好きなんです」

「あんな騒々しい音楽が?」

「騒々しいだけ…… じゃない! お父さんには騒々しいだけかもしれないけど… あたしには」

「お前には、何だ?」


 ぐっと胸から喉の奥へと突き上げてくるものがある。言葉を見つけなければ。でないと。


「あたしには…… いちばん、今、必要なんだもの」

「何、が必要なんだ? 言葉にしなくちゃ父さんは判らん」

「謝ってしまいなさい、トモコ」


 母親が口を出す。ここで謝ってしまえば、私が後は取りなすから。暗にそう含んで。

 確かにそうだろう。いつもならそうだった。だけど。


 だけど、ここでそうしてしまったら。


 トモコは歯を食いしばる。喉の奥から迫った泣き声を飲み込む。そして母親に向かって頭を振る。


「父さんだって言い分はある。まず、何と言っても夜だ。夜中だ。お前くらいの年頃の女の子が街をふらふらしているのは危険だ。次に、音楽はともかく、そこで活動している連中の恰好だ。どう見たって『まっとうな』恰好ではないだろう。そんな恰好を好んでやっている連中の中にお前みたいな世間知らずが入って、変に影響を受けて、将来に不都合があってはまずいんじゃないか、ということ。そして三つ目は、お前の身体だ。ああいう所で倒れてしまったら、どうするんだ」


 あれ、とトモコは思った。一つ一つ指を折りながら考えてみる。筋は通っている。少なくとも「お父さん」という人が考えることとしては。


「俺は音楽の好みについてはとやかく言わん」

「え」

「トモコがヘッドフォンで気を遣ってロックを聴いているのは知ってる。だからそれは構わない。そんなことに俺は文句言ったって仕方ないだろう? 問題は夜中にコンサートへ行くことだ。その上バンドの手伝いをしたい、というのは」

「あなた」

「母さんの言い分は後で聞くから。俺は今はトモコの意見を聞きたい」


 こういうことを言われるとは、思っていなかった。何となく頭の中のねじが一本いきなり回転して、逆噴射してすっ飛んで行った気分だった。

 自分の中でいつの間にか父親は「ロックに理解の無い頑固親父」というイメージになってしまっていた。


 違う。そうじゃない。


 それは母親の作りだしたイメージだった、とその時トモコは気付いた。


 お父さん怒るわよ。ロックなんて大嫌いなんだから。

 ヘッドフォン掛けて聞きなさいよ、うるさいって言われるに決まっているから。


 それを直接彼に聞いたことがあっただろうか? 

 違う。いつも母親のフィルターごしだった。

 それは、父さんを利用した母さんの感情だ。


「トモコ…… 黙っていないで、謝って……」


 トモコはその声を聞いたら、急に何やらむくむくと怒りのようなものが湧き上がってくるのに気付いた。

 怒りを覚えたら、心の中で三つ数えろ。TEARの言葉を思い出す。祈るように数えろ。一つ、二つ、三つ……


「お父さん」


 トモコは口を開いた。


「お父さんの言いたい事は判る。一つ目は夜中の危険、二つ目は恰好とその恰好をする人のこと、三つ目はあたしの健康のこと。どれもあたしを心配してくれるからっての、すごく良く判る。あたしお父さんがそんなこと考えてたなんて知らなかった。だからそれを聞いて凄く嬉しい。でも」

「でも?」


 おや、という表情を父親はする。これは反論の兆しだ。


「三つ目以外は、言いたい。一つ目は、あたし別にいつも一人じゃない。絶対友達と一緒にいる。あたしだって夜の街は怖いもの。だから絶対友達といる。寄り道しない。予定より遅くなりそうだったら連絡絶対入れる。もちろんそれでも心配なのは判るけど…… 二つ目は…… 恰好は恰好で、人は人だと…… あたしは思う」

「だがあんな恰好は社会じゃそうそう認められないだろうな」

「でも社会は変わってくじゃない!」


 トモコは声を荒げた。


「たまたまあの人たちはその先頭きっちゃっただけじゃない!」

「真っ赤な髪や金髪や? まるでヤンキーじゃないか」

「あれが『恰好いい』か『当たり前』になる時が絶対来る!」

「どうしてそう思う?」

「だってあたしはあれが恰好いいって思うもの!」


 ほお、と父親は目を広げた。


「そんなのは理屈じゃないもの!」


 正直言って、父親は娘がこう反論してくるとは思っていなかった。ずっと対話なんかしたことがなかったのである。いつも母親の陰に隠れているような感じがしていたのだ。


「ではその二つ目は保留としよう。感覚の違い、もあるかもしれんが、お前は何と言っても世間知らずだ」


 だったらこんな箱入りにして置かなければ良かったのに。トモコはやや唇をとがらす。


「で、三つ目だが。お前は何か言うことがあるか?」

「あたしの身体が弱いってのは知ってる」

「ずいぶん母さんにも心配かけたな?」

「それは判ってる…… ライヴでもナホコに迷惑かけた」

「そんな迷惑かけてまで行きたいのか?」

「だって」


 ぐっとこらえていたかたまりが、また喉のあたりまで迫ってくる。言葉が出せなくなる前に、言わなくては。これだけは。

 最大級の、大切な。


「それでも好きなんだもの。あたしああいう世界知るまで、好きなものなんて何もなかった。平和だったけど、いつも何か足りなかった。何か欲しくて欲しくてたまらないのに、それが何だか判らなくて、いつも自分を責めてた」


 母親は無意識に口に手を当てる。そんな馬鹿な。


「いつもいつもいつもあたしがあたしを責めるんだもの。そのたびに頭の中がわーっとなって、誰か助けて誰か助けてって頭の中が叫ぶんだけど、そんなこと言える訳ないじゃない。周りの人達はいいひとなんだもの。違う、そんなこと言いたいんじゃない、だから、ロックは、その」


 祈るように数えな。TEARのアルトの声が響く。


 一つ、二つ、三つ……


「救われたんだもの」


 ひどく陳腐だ、と思う。これじゃ何処かの宗教に走ったかのよう。だけどトモコには、それ以外の言葉がその瞬間浮かばなかった。


「あの音が、うたが、ロック友達が、あのバンドの人達が、別に言葉で言っている訳じゃないんだけど――― あたしを許してくれてるような気がしたんだもの」

「許す?」


 はあ、とトモコは大きく深呼吸をした。これで精一杯だ。奇妙に頭の中がすっきりしていた。


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