第26話 「どんなものだって慣れですよ。慣れるまでが辛いんです。そういうものですよ」

「口が上手いなTEAR」


 帰りの機材車の中で、後部座席シートの横に座ったMAVOが言う。


「んー…… 嘘も方便ってね」

「嘘なの?」

「半分は本当。だけど昔聞いた曲がどうの、というのは嘘。そういう曲はあるんだけどね、Kってバンドの『三つ数えろ』って」

「?」

「ただその曲はなかなか物騒なんだわ。怒りと焦りが溜まりまくった奴で、そんな時は三つ数えろ、だけど満足なんかできやしないって」

「ああ、その話はワタシも聞いたことがある」

「P子さんも?」

「確か連続射殺魔の事件でしたっけ」

「背景までは知らんけどさ」


 全開にした窓に腕を立てる。


「まあ何にしろ、言わずに判る、ほど人間はできたもんじゃねーからさあ」

「話すのが苦しいってのはあたしにはよく判らないけど」


 運転席のHISAKAがつぶやく。


「HISAKAはそういう訓練ができているからよ。それが自分の意思かどうかはさておいて、そういう環境にいたでしょ?」


 MAVOは前のシートに乗り出しながら言う。


「まあ言われてみりゃそうかもね」

「でもそれは原因の一つにすぎませんよ」


 P子さんは助手席の窓を開けた。風が勢いよく吹き込んできて、後ろのMAVOの髪を勢いよくなぶる。風を避けてMAVOはシートごとP子さんの首ねっこにしがみつく。


「話す訓練が少なくたって、要は自分にとっての自分と、人にとっての自分のどっちが大切かってことだけでしょうに」

「トモコちゃん…… ああ『エナ』ちゃんて呼ぶことにしたんだっけ。あの子は優しいからねえ」

「確かに優しいかもしれないけどさ、でも結局人のこと考えすぎて人に迷惑かけんじゃどーしようもないわよ」


 MAVOはシートから手を外した。


「MAVOちゃん」


 言いかけて、振り向きかけたとき、だった。

 P子さんはいきなり前のめりになって胸と口を押さえた。そして次の瞬間、それがきた。


「!」


 一巡の嵐が過ぎても呼吸は荒い。HISAKAは車を道端に寄せて止めた。


「大丈夫?」


 などと聞いても答えを要求すること自体が無謀な時だってある。P子さんは黙って後ろのシートの転がしてあるバッグを指した。

 慌ててMAVOはそれを口を押さえたままのP子さんに渡す。P子さんはややもつれる指先でバッグを開けると、さらにその中のポーチから小さな吸入器を出した。そしてそれを一回押す。


「はあ」


 ようやく治まった、と言いたげに顔を上げる。額が汗びっしょりになっている。


「もう少し車動かさないでくださいな」

「喘息か」

「時々、ですよ、最近はそうひどくはない…… 薬もあるし…… だけど強いですから、そうそう吸いたくはないんですけど」

「大丈夫?」

「大丈夫な訳ないだろ!」


 訊ねるMAVOにTEARは軽く頭をこづく。


「大丈夫ですよ、慣れてはいるんです」

「慣れ、ね」

「どんなものだって慣れですよ。慣れるまでが辛いんです。そういうものですよ」


 だからトモコだって慣れれば大丈夫だ、そう言外に含めているようにMAVOには思われた。



 その後の予定は全てカットしてP子さんは自宅へ強制送還された。発作を起こした、と聞くと妹は素晴らしい勢いで行動を起こした。


「じゃあねP子さん、また電話するから。例の件、本当に考えといてね」

「はいはい」


 HISAKAが帰ると同時にユウコはほぼ無言で姉に早く寝ろ、と命令した。


「すみませんね、いつも」

「そんなあなた、あたしに『それは言わない約束よ』なんて言わす気ですか?」


 ここで冗談の出るあたりがさすがだ、とP子さんは思う。


「あたしはあーちゃんが生きていさえすればいいんですよ」

「そうですか?」

「そうですよ」


 ユウコはゆっくり飲むんですよ、と言いながらミルクのカップを手渡す。湯気があまり立たないようにかなり冷ましてあるのがP子さんにも判る。

 こういう所がひどく良くできた妹だと思うのだ。自分の妹などやっているのはもったいない。


「何か妙なこと考えてませんか?」

「いや、あんたはやっぱりいい奥さんになれるなあと」

「仕方ないでしょう?」


 下手に言うと嫌みにしかならない言葉をさらっと言えて、絶対に嫌みにならないというのはこの一家の人間の強みである。ユウコは自分には結構熱そうなコーヒーを煎れたようである。香りがP子さんの方にも漂ってくる。


「あたしにはそういうことしかできないですからね」

「でもワタシにはあんたのようなことはできないですよ」

「だから何とか世界は平和なんですよ」

「そうですね」


 実際そうだとP子さんは思う。


「だって最初にギターを買ったのはあたしじゃないですか? あーちゃんはそれを借りてた方じゃないですか。まああれはフォークギターだったけど」

「あ、そうでしたっけ」

「そうでしたよ。だけどあたしはFコードでつまづいて、すぐ放り出してしまって、その時あーちゃんはも少し弦の柔らかいエレキギターを母上に頼んだんではないですか」

「そうでしたっけ」

「そうでした」


 よく覚えているものだ、とP子さんは思う。そんなこと自分はとうの昔に忘れ果てていた。


「まあ仕方ないんですよ。あたしは他にも見たいものがあったし、音に入り込めるタイプの人ではなかったんですから」

「そうですか?」

「そうですよ。あの頃あーちゃん結構昼間起きられない日々だったでしょう?」

「そうだった気もしますねえ」

「それで夜は起きられたものだから暇つぶしに弾きまくっていたでしょう?」

「そうでしたねえ」

「いくらあたしが無頓着でも、昼間あなたが寝ている所で音をかき鳴らせませんよ」

「悪いことをしましたねえ」

「そういう意味じゃあありませんよ」


 ユウコはコーヒーをすする。


「もしもこれが逆だったら、あーちゃんはあたしの枕元でもギターを弾きましたよ。あたしはそれよりは外で遊んだ方が好きだったってだけでしょう? 運動部だったし」

「ああ」

「だから別にいいんですよ。あたしはあたしに合ったことを選んでいるんだから」


 そう言われると何も反論できない。

 家にこもりがちで、学校も結局中学までしかマトモには行っていない自分に対して、きちんと高校まで行って、きちんと毎日会社へ通っている妹はかなりの部分で尊敬できる相手だった。

 だが妹が本当に何を考えているかは、P子さんも知らない。知る必要などない、と考えているふしもある。


 だって。


 途中までは思うのだ。どうしても身体は動かないのに、目ばかりが冴えて眠れない夜。


 知って何になると言うんですか。知らなくともそれなりに日々は過ごせるし、知ってそれが自分か相手どちらかを傷つけるようなことになったとしても、だからと言ってそれで切り離せるようなものではない。

 知らない方がまし、という訳ではないが、わざわざ知る必要はない。


 そして一方の妹は思う。姉が実に「忘れっぽい」分、その代わりを引き受けたように記憶力の良い妹は。

 記憶というものは本当に消えるものではない。ただたびたび出す必要のないもの、出して気分の悪くなるような記憶というものは、人間は無意識のうちに奥の奥へしまってしまうことが多い。

 そしてそれがどの程度その後の人間に影響を及ぼすか。「忘れやすい」姉はどれだけのことを「忘れよう」としてしまったのか、それを「思い出した」時どんな対応をするのか怖かった。

 だが一方でこうも思う。


 だけどあーちゃんはどんなことにも動じないはずよ。大丈夫よ。それにもう十年経っているんだもの。何かあったらあたしが何とかするから…


 「忘れやすい」P子さんと違って、十年前の夜、血を流して帰ってきた姉の姿をユウコは忘れることができなかった。

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