第3話 ライヴハウス「オキシドール7」


 さてそのベーシストがHISAKAを捉えた。

 目が合った、とHISAKAは思った。思ったからここぞとばかりににっと笑った。だが腕組みは解かない。この程度でノれるものか。そう言いたげに、つったったまま姿勢一つ崩さない。

 ベーシストはその挑発にのった。ほとんど動かなかった彼女がいきなりぶん、とベースを振り下ろす。そしてちら、とギタリストの方を見ると、そちらはやや当惑したような表情になっている。それには構わず、彼女は次第に調子を変えていった。


 あ。


 HISAKAは足元から揺れた気がした。

 ベースの音自体の音量は大して変わっていないのに、その振動は急に大きくなった。それまでの単純なビートではなく、気付かない程度に細かい音が入り込んでいる。手を見れば判る。

 スピード自体は変わっていないのに、曲にスピード感が増した。こうなってくると、焦りだしたのはヴォーカルである。ドラムはそれでもついて行っている。

 HISAKAは今度はジーンズのポケットに手を突っ込んだ。

 ベーシストは持っていたおにぎり型のピックを口に加えると、指弾きを始めた。振動はさらに激しくなる。気がつくと、前で騒いでいた少女達のノリも変わって来ていた。気付かないうちに、彼女達の身体も微妙に震えている。気がつかないうちに、意識して聞いてはいない低音に引きずられていくのだ。


 へえ。


 その曲が終わる。ヴォーカルが一言二事喋る。その隙をついてギタリストがベーシストに近づき、こそっと耳打ちする。彼女は一瞬顔をしかめた。あ、注意されたな、とHISAKAは思う。ギタリストが去っていくと、彼女がまた自分の方へ視線を送ったので、HISAKAはひらひらと手を振って、今度は後ろの、先ほどまで呑んでいた丸テーブルへと戻った。

 今晩はこれ以上見ていても仕方ない。HISAKAは残っていたドリンクをくっと飲み干すと、従業員入り口の方へ向かった。

 マジックで大きく激しい字で「従業員入り口 関係者以外は入るな」と書かれた紙が貼ってあるだけのドアを開けると、このライヴハウス「オキシドール7」の店長エノキが何やら書類だの見ているのが目に入る。所々マジックや煙草の焦げ跡が残った白木のテーブルの上には小さいラジカセとヘッドフォン、幾つかのテープが転がっている。

 彼は四十代後半、という感じの男である。奥さんはいないが息子は一名いて、結構な腕で、よくここへ出場するバンドのやとわれギタリストをしている。


「こんばんわ」

「おやHISAKAじゃないの。どーした?」

「暇なんで今日は客だったんだけど。今日のバンドはどーも…」

「好かね?」

「んー…… いまいち」

「まあそう言いなさんな。いい所だってある」


 そう言って彼は書類をざっと揃えた。HISAKAは空いている椅子に悠然とかける。

 この部屋にまで音は響いてくる。ライヴの様子は近くの窓から見える。エノキはHISAKAに訊ねた。


「今やってるCHAIN REACTIONはどう思う?」

「まあ、上手いね」

「上手いよ。彼らはキャリアがある」

「うん。それは判るけれど」

「その批判癖は嫌われるよ」

「判ってはいるんだけどねえ」


 音楽についてだけは嘘をつきたくないのだ。


「まあHISAKAの耳は確かだから、俺は怒らないけれどさ。何処が良くて何処が悪いと思った?」

「悪いって程じゃないけれど、インパクトに欠ける」

「そりゃあお前さんのバンドに比べりゃ何処だってそうだ」

「だけどインパクトは必要だと思うわ」

「それはお前さんの価値観だろ。あいつらはそれでいいと思っている。あれ以上売れようとはあいつらは大して思ってないね」

「どうして?」

「どうしてだろうね」


 はぐらかす。そしていい所は? と彼は重ねて訊ねた。


「ベースの奴」

「ああ。あの子」


 エノキは顔を上げた。


「さっきいきなりあの子の様子が変わったけれど、お前さん何かしたのか?」

「あ、ばれた?」


 くすっとHISAKAは笑う。


「お前さんあの女の子の間にいちゃ目立つからな。また何か挑発でもしたろ」

「引っかかってくれたのはあのひとだけだったわよ」

「だろうな。そんな大人げないことに引っかかるのはあの子位なものだ」


 へらへらへら、と笑いは大きくなった。


「あそこのメンツは大人野郎ばかりでね。まああの上手さは年の功もあるのかな」

「あれ、あのひと幾つ?」

「お宅のMAVOちゃんくらいじゃないかな。高校中退って言ってたから」

「へえ」


 身体だけ見れば二十歳くらい軽く越えてると思ったけど。彼女は自分の相棒のプロポーションを思い出す。絶対に同い年には見えない。


「会いたい?」

「んー。どうかな」

「まあ終わる頃に出口で待ってりゃ会えるかもな」

「そんな追っかけでもあるまいし」

「あそこはそう追っかけが多くないんだ。もともと打ち上げとかしない体質だし」

「へえ」

「もしかしたら面白いものが見られるかもしれないよ」


 何なんだ。



「いったい何なんだよっ」


と、ギタリストが怒鳴った。まあまあ、とヴォーカリストが止める。


「止めんなよキョージ! あれ程言ったのにまたこいつ暴走して…」

「挑発する奴がいたからだよ」


 腕を組んで、壁にもたれて、横目使いにベーシストは言う。本人気付いてか気付かずか、そんなポーズを取るとはちきれそうな胸が余計に大きく見える。


「見なかったのかよ! あんな真正面でガン飛ばしてた奴!」

「見たけどさ」


 ヴォーカリストはギタリストを止めながら、


「だけどいつものことじゃん。ああいう奴はいつだって一人や二人」

「ありゃ違う!」

「まあまあ」


とドラマーが止めに入る。


「とにかくここで争ったって仕方ないじゃねえ? ほら、皆さん驚いてる」


 最年長のドラマーは、一番年下のベーシストをなだめるように言う。

 確かに周囲には一目があった。3バンドが一緒にやっていりゃ、どうしたってその荷物置き場は人で一杯になる。特にこんな、インディでやっています歴が長いバンド達は。


「田沢さんは気にならないの!?」

「気にはなったけれどさ、いちいち気にしてちゃ演奏できないじゃねえ?」

「そうそう。判らん奴には判らん訳だから」


 ぽんぽん、と肩を叩く。おっと、と手がすべったようなふりをして、彼はついでに彼女の大きな胸に触った。と。

 反射的だった。狙い正しく、ドラマーの顔に彼女は右ストレートを食らわせていた。

 そして騒動は始まった。



 HISAKAは店長に言われた通り、終わったバンドが引き上げる頃、店の前に居た。


 ……まだかなあ。


 いい加減お目当てがやってこないと、うちで待っている子が心配する。終電には間に合わせたい。


 あたし今日留守番?つまんなーい。


 まるで小学生の女の子みたいに相棒はぷうっと頬をふくらませた。


 ごめんねMAVOちゃん。でも、どーも気になるのよ。HISAKAは心中つぶやく。何本目かの煙草に火を点けた時だった。

 階段を勢い良く上がってくる音がした。ライヴハウスは地下にある。中の誰かが出てくるんだ。HISAKAは身構える。

 ばたん、とドアが勢い良く開いた。ドアの付近に居たHISAKAは慌てて飛び退いた。


「とっとと行っちまえっ!」

「こっちの台詞だっ!」


 ばたん、とすさまじい力でドアを叩き閉める音がした。ちぇ、と舌打ちするのは、アルトの声だった。ベースのケースと皮ジャンをかついでいる。


 居た!


 そう思った瞬間、HISAKAは彼女の前に飛び出していた。とても勢い良く。相手はうつむき加減に歩き始めていて――― とても勢いが良かった。

 見事にぶつかった。


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