Gayパパ子育て奮戦記

あきらっち

第1話

プロローグ


 僕が初めて恋をしたのは中学生の時だった。

 相手はクラスメートの男子。そして僕も男。

 そのときに、僕は普通の恋愛が出来ないんだって気づいてしまった。


 その日から僕は平凡でささやかな夢を諦めた。

 普通に結婚して、子供を何人か授かって……。

 僕が欲しかったのは家族。

 一度失ってしまったものを取り返したかったんだ。

 でも、男同士では子供は出来ないし、家族になれないって、僕でも分かってる。


 ……それから年月が流れた。

 今、僕の足に無邪気にじゃれつく子供がいる。



新たな命


 あれは僕が高校三年生の時。数週間後に卒業式を控え、まもなく十七歳が終わろうとしていた頃。口の悪いクラスメートから誕生日を聞かれたから、数日後の日付を答えた。「十三歳になるんだっけ?」って笑いながら言われた。失礼にもほどがあるだろう。でもそう思われるのも仕方ないことだ。僕は身長が151センチしかなかったから。

 中学生にしか見られない身長と顔がコンプレックスだった。もちろん今でも。僕がチビなのは早生まれのせいだ。きっとそうだ。でもクラスで一番背が高い奴は三月生まれらしい。……それは知りたくなかったよ。


 空気はまだまだ冷たいけれど、暖かい日差しも感じられるようになった頃。お弁当を食べ終わって、鞄にしまおうとしたとき、担任が慌てた様子で教室に入ってきた。進路が決まって新しい生活への希望と、まだ進路が決まらない焦り、卒業が近い寂しさ。いろいろな思いがごちゃ混ぜになった空気を一掃するかのように。

「岩間、いるか?」

 担任が僕の名前を呼びながらキョロキョロする。やっと見つけたという感じで、僕と目が合う。先生、僕が小さいからってバカにしていませんか?

「今、病院から連絡があったんだ」

 担任への不満が一瞬で消えて、緊迫した思いが頭の中を駆け巡った。僕は「姉さんですか?」と訊くと、担任は「そうだ」と答える。

「岩間も大変だったんだな。とにかくお姉さんのところにいってやれ」

 僕は鞄をつかんで、姉さんと、そして生まれたばかりのもう一つの命がいる病院に向かった。

 電車の窓から見上げた空は、凍り付いた青色が溶けるように瑞々しかった……。


 案内された病室には誰もいなかった。ベッドの横の椅子に座る。病室の白さと同化してしまったかのように、僕の頭の中も真っ白だった。どれくらいぼんやりと座っていたのだろうか。ゆっくりと病室の扉が開く音がして、僕は反射的に立ち上がりながら振り返る。開いた扉の先には穏やかに微笑んだ僕の姉さんと、その腕に抱かれた小さな赤ん坊。廊下の窓から射し込む光が、姉さんをきらめかせていた。姉から母になった姉さんはきれいだった。後にも先にも、女性をきれいだと思ったのはこのときだけだった。

 男の子……かな? 僕の無言の疑問を察したのか、姉さんは「男の子よ」と僕に教えてくれた。そして「サンガよ」と続ける。

「……ずっと前から決めていたの。男の子だったらサンガって名前にするって」

 僕の姉さん、岩間美帆はそう言って、僕の腕にそっと生まれたばかりの赤ん坊を乗せた。思いの他に重くて、そのくせ儚げで……。


 姉さんは人差し指をピンとのばして宙に書いた。『山河』と。大吾が好きな漢詩から取ったのよ、と。姉さんにそんなこと言ったっけ? たしかに僕が中学生のときの国語の教科書に「国破れて山河在り……」という漢詩が載っていた。戦争のさなか、家族からの手紙が何にも変えられない宝物。そんな思いが、この漢詩から伝わってきた。あの頃、ささやかな夢を諦めた僕には、この漢詩がどうしようもなく嫌いだった。そのくせ、よくつぶやいていたっけ。あれを聞かれていたのかな? だとしたらちょっと恥ずかしい。僕は今更ながら顔を赤らめてしまった。


 僕は赤ん坊を腕に乗せながら、少しでも動いたら壊してしまいそうで、身動きできなかった。ぶかぶかの産着からちらっと覗く驚くほどに小さな手。その指先には米粒のような爪。こんな小さな手にも爪があるんだ。それがサンガを初めて抱いたときの素直な感想だった。

「……。姉さん。本当に一人で育てるつもりなの?」

「何度も言っているじゃないの」

「やっぱり僕もて……」

「大吾は何も心配しなくていいの!」

 姉さんは僕の発言をふさぐようにぴしゃりと答える。僕は何も言えなくなってしまった。サンガも姉さんの剣幕を感じ取ったのかぐずりはじめる。

 姉さんは僕の腕からサンガをすくい取って、優しく揺らすように抱きとめる。……どうして。どうしてだよ。僕がこんなにも願っていたものを姉さんが独り占めするなんて。僕は力一杯、拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込む。痛い……。

「大吾も卒業まで、あと二週間ね」

「……うん」

僕が高校を卒業したら、姉さんはサンガを連れて、僕と暮らしていた家を出ていく。そして僕らは別々の生活を始める。姉さんの妊娠が分かったときに、二人で決めたことだ。とは言っても、姉さんが一方的に決めたことだけど。

 結局、僕はサンガの家族になれない――。

 とうとう爪が皮膚を突き破って血がうっすらとにじむ。


 悪いけれどこれ洗濯してきてと、衣類の入った紙袋を姉さんから渡されて、僕は病院を後にした。

 柔らかい日差しを降らせていたはずの空は、再び無機質に凍り付いていた。北風の冷たさがやたらと頬に突き刺さる。そのときに初めて僕は涙を流していることに気がついた。


僕がパパになった日


 あの日から三年が過ぎた――。

 僕は安普請の木造アパートに一人で暮らしている。

 姉さんがサンガを連れて出ていくまで、姉さんと二人で暮らしていた部屋だ。

 引っ越すお金もなかったし、いつか姉さんがサンガと一緒にフラッと戻ってくるんじゃないかと淡い期待もあって、ここから離れられなかった。


 僕は高校を卒業したあと、町工場の経理部に就職した。

 毎日たくさんの数字に向き合って、電卓を叩きまくっている。

 年輩の社員が多いからか、一番若い僕が可愛がってもらえている。二十歳になったというのに、中学生に間違えられる風貌は変わらなかった。職場の従業員から、いつも「大吾くん、飴ちゃんお食べ」なんて、孫みたいな扱いを受けてしまっている。

 つい先日も、職場の創立三十周年記念で立食パーティが行われた。乾杯の音頭をとるときに「大吾くんはジュースにしようね」ってオレンジジュースをコップに注がれた。

 雰囲気のいい職場だし、優しい社員が多いんだけれど、いつまでも子ども扱いなのが複雑だ。


 お風呂からあがってきた僕は、冷蔵庫を開けて、キンキンに冷えたオレンジサワーの缶を取り出す。プルタブを指先で起こすと、プシュッと軽快に弾ける音がする。これが休み前の僕のささやかな楽しみだ。

 二十歳になったばかりの時に、友人がお酒をごちそうしてくれて、お酒の美味しさを知ってしまった。僕だってもうお酒を飲める大人なんだよ。あーあ、かっこいい大人になりたいな。それで、彼氏とかできたら最高だな。

 僕はゲイだ。きっかけは中学生の時の初恋だったけれど、心の片隅に、いつかは女の子も好きになる。そして結婚して子どもができて家族が増える。そんな願いもあったけれど、歳を重ねるたびに、同性である男に対して恋慕の情が強くなっていく。通勤電車で見かけるサラリーマン、日曜日に高遠で我が子と遊ぶ父親、幾人ものの男性に目を奪われて懸想してきたことだろうか。こんな自分が下品だと自己嫌悪に苛まれたこともあった。

 だけど、僕と同じくゲイの友人もできて、ゲイだからって恥じることもないし、自由に生きていいんだって教えてくれた。

『ダイゴがその気になったら、いくらでも男を紹介してやるよ』

 なんて、友人は言ってくれているけれど、恋愛ってそう簡単にできるものじゃないよ。結局、仕事の忙しさを言い訳に、恋愛から遠ざかって生きてきた。

 僕は空き缶を捨てると、布団の上に大の字になって寝ころんだ。

「やっぱり一人は寂しいよ」

 隠していた思いが、声になって出てきてしまった。


 それから数日後。

 もうそろそろ終業のチャイムが鳴る頃。

 職場の電話が鳴った。外線であることを知らせるランプがついている。

 僕は受話器を取ろうとすると、先に部長が受話器を取った。下っ端である僕が電話を取り損ねて、部長に詫びるように軽く会釈をした。部長は「気にするな」というように手を振る。

「はい……、は? ……岩間は確かにうちの社員ですが……」

 僕の名前? 部長は、僕をチラチラ見ながら、深刻そうに話している。僕は何かとんでもないことをしてしまったのだろうか? 僕は椅子から立ち上がろうとすると、部長は電話を保留にした。

「岩間くん! その……、今、病院から電話があって……」

 部長はしどろもどろで、僕に電話をとるように言う。

 受話器の奥から、僕が予想もしていなかった、残酷な事実が告げられた。

 

 電車で一時間。空は紫色に滲んでいた。カラスの悲しげな声が遠くに聞こえる。

 三年前は、新しい出会いに胸がいっぱいだった。真っ白なアルバムを胸の中に押し込んで。アルバムに描く未来を夢見ていた。

 そして今も胸がいっぱいだった。白いアルバムは消え失せて、姉さんと過ごした日々があふれそうになっている。

 僕はひたすら走った。思い出をこぼれ落とさないように。

 息を切らして走りついた先は、総合病院。哀れみの眼差しを向けるかのように、何も語らず僕を見下ろしていた。


 受付で僕の名前を告げると、看護師さんから無表情に案内された。

 姉さんが静かに眠る部屋に――。


 姉さんは女性にしては背が高かった。僕は姉さんの背丈を越すことができなくて、いつも姉さんを見上げていた。

「お姉ちゃんばかり背が高くてずるいよ。僕にも分けてよ」

 なんて言った日は、姉さんはクスクス笑って、

「じゃあ、これでどう?」

 腰を屈めて僕を見上げたから、僕は「そんなんじゃないよ」ってふてくされたこともあったっけ。

 でも、本当は背の高い姉さんが自慢だった。姉さんを見上げることは嫌いじゃなかった。

 それなのに、今は低いベッドに横たわって、閉じた目で僕を見上げている。


 眠る姉さんの頬には生々しい擦り傷。

 姉さん、寝ている場合じゃないよ。早く怪我の手当をしなよ。いつもお化粧していたじゃないか。お風呂上がりには「女性のすっぴんの顔を見ちゃだめ」なんて、恥ずかしそうに言っていたじゃないか。

 姉さん……。

「姉さん」

 僕はのどがつぶれるほどに叫んだ。

 けれど、姉さんが目を覚ますことはなかった。

 僕の目から涙があふれた。壊れた機械から、油が漏れるように、だらだらと頬を伝っていく。左右の目からとめどなく流れる涙は、あごの先端で合流して、大きな滴となって、姉さんの頬や額を濡らしていく。

 どうして……。どうしてなんだよ。

 お父さん、お母さん。どうして姉さんを連れていったんだよ。

 僕は、自分でもなにを叫んでいるのか分からなかった。

 あれは、怖い夢を見て、泣きながら姉さんに抱きついたとき。姉さんは「大丈夫よ。なにも怖くないから」って、僕を抱きしめて背中をさすってくれた。

 今、この世のものとは思えない悪夢を見ているのに、どうして、抱きしめてくれないんだよ。姉さん。

 僕は崩れ落ちるように、固く冷たい病室の床にうずくまった。


「……ま、ままー。どこー?」

 どこからか、すがるような声が聞こえてきた。僕は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

 部屋の入り口でよろよろと歩いている子ども。そのひざには真新しい包帯が巻かれていた。

「……サンガ?」

 数えるほどしか会っていないけれど、間違いない。サンガだ。

「ままー。ままー」

 サンガは、姉さんが眠るベッドに近づく。ベッドの縁に手をかけて、つま先立ちで、姉さんの顔を覗き込もうとしている。

「まま。どうしたの? まま」

 サンガはきょとんとしながら姉さんに呼びかけている。その姿があまりにも痛々しくて、僕は抱きしめた。

「だれ?」

 サンガは僕の顔を見て訊く。サンガは僕を覚えていないのだろう。僕はなにも答えられなくて、ただサンガを抱き続けた。


 姉さんの死因は交通事故。

 赤信号に変わるというのに強引に右折してきた自動車と、信号が青に変わってすぐに横断し始めた姉さんと衝突したそうだ。サンガが軽傷で済んだのは、姉さんがひかれる瞬間にサンガを歩道に向かって突き飛ばしたからだそうだ。


 悲しみが癒えないまま、僕とサンガは病院の応接室に呼ばれて、役所の担当者と面談が始まった。

 サンガも何か緊迫とした空気を感じているのか、椅子に腰掛けて足をブラブラさせながらも、おとなしく紙パックのリンゴジュースをすすっている。

「――それでは、岩間さんも山河くんの父親の所在が分からないのですね?」

 僕は頷く。

「はい……。父親はどういう人なのか、教えてもらえなかったので」

 僕は真実しか話していない。


 あれは僕が高校三年生の夏休みのことだった。

 その日は姉さんが珍しく仕事を休んで、久しぶりにお昼ご飯を一緒に食べたんだっけ。あのときの食事は素麺だった。

「ダイゴは高校を卒業したらどうするつもりなの?」

 姉さんが切り出した。

「うん。就職しようと思うよ。まだ内定が決まってないけど」

 僕は、中学生の頃から、高校を卒業したら就職するつもりでいた。だから、商業高校に進学して、簿記の資格も取得した。

 お父さんもお母さんも早くに亡くして、年の離れた姉さんが親代わりで僕を育ててくれた。今でこそ分かるけれど、姉さんは本当に苦労したんだと思う。だから僕もほんの少しでも姉さんに恩返ししたくて、早く就職して姉さんを支えたいと思っていた。

 けれど姉さんは……。

「そう? それならよかった」

 姉さんはそっと自分のお腹をさすったんだ。

「実は、お姉ちゃんね、赤ちゃんができたの」

 僕の箸から素麺が滑り落ちて、めんつゆがあちこちに飛び散った。姉さんは「あらあら、なにやってるの」とティッシュを三枚ほど引き出して、テーブルを拭いた。どうしてこんなに冷静なんだよ?

「ちょ、ちょっと待ってよ! 赤ちゃんってどういうこと?」

「あら。赤ちゃんは赤ちゃんよ?」

「そうじゃなくて。その、姉さんの相手は……。えっ? 結婚するの?」

 とにかく混乱して、自分でもなにを言っているのか分からなかった。でも、僕はゲイだけれど、どうすれば赤ちゃんができるのかくらいは、何となく分かっていた。

「ダイゴはなにも心配しなくていいの。あたしが一人でこの子を育てていくから」

「心配しなくていいって……。その、父親は誰なんだよ?」

「ダイゴは知らなくていいの」

 姉さんは人差し指を口に当てた。隠し事をしているときのいつもの仕草だ。

「ダイゴも働いてくれるなら、あたしも安心してここを出ていけるわね」

 姉さんは優しかったけれど、一度決めたことは頑として曲げなかった人だった。

 結局、サンガの父親が誰なのか一度も聞くことはなかった。サンガが産まれて、僕の就職が決まったら、姉さんはサンガを連れて新しい土地に引っ越していってしまった……。


「そういうことになりますと、叔父である岩間さんが山河くんを引き取るというケースになりますが……」

 職員は事務的に僕に告げた。

 僕がサンガを? 一人で? それは無理じゃないの? 僕、まだ二十歳なんだよ、そんな責任重すぎるよ? 第一、僕はゲイ。子どもなんて考えたことないよ?

 頭の中で渦を巻いた。予想外のことばかりで、姉さんの死の悲しみすらも渦の中に飲み込まれていた。

「……もしも、僕が拒否したら、どうなりますか?」

「その場合は、施設に引き取っていただくことになりますね。ですが……」

 職員が続けようとしたら、サンガが僕に向かって口を開いて、話を遮った。

「ねえ。おじちゃん」

 おじ……。ちょっとグサッときた。中学生に間違われるのも嫌だけど、おじちゃんと言われるのもきついよ。

「まま、いってたの。サンガがいいこにしてたら、パパがきてくれるんだって」

 サンガは、リンゴジュースを飲み干したようで、空になった容器をテーブルに置いた。そして、僕のスーツの袖を引っ張った。

「おじちゃん。サンガのパパなの?」

 姉さんはどういうつもりだったのだろうか?

 いつかはサンガの父親と三人で暮らすつもりだったのだろうか?

 サンガの目が不安そうに潤む。僕は助けを求めるように職員に目配せするけれど、職員は目を逸らしてしまった。

 ついにサンガの目から大粒の涙がこぼれた。姉さんの死に対面しても涙を流さなかったサンガが。

 僕は、お父さんとお母さんを亡くしても、姉さんがいたから希望を持ち続けることができた。でも、サンガはどうなのだろう。

 父親が分からず、そして母も失って……。

 僕は思わずサンガを抱きしめていた。そして、僕の口からは。

「そうだよ、サンガ。僕がパパだよ!」

 いつかサンガに本当の父親が現れるまでは、せめて僕がサンガのパパでいよう。

 それが、自分の命をかけてまでサンガを守った姉さんへの恩返しになるはずだから。

 そして。僕とサンガを家族にさせてもらえなかった姉さんを憎んでしまった罪滅ぼしのために……。

「……パパーっ!」

 サンガはわっと泣き出して、僕にしがみつく。

 僕は職員を振り返った。職員もどうしていいか分からない表情だった。僕は、揺るぎない口調で言った。

「サンガは、僕が引き取ります」

 やっぱり、僕は姉さんの弟なんだ。なんとなく、姉さんが自分が妊娠したときの気持ちが分かったような気がした。


 大丈夫。僕は嘘をつくことも、隠し事をするのも慣れているから。

 だって僕はゲイなんだから。

 ゲイであることを隠しながら、嘘をつきながら生きてきたんだから。

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