陽だまりに咲いた花
リビングで美味しい朝食を済ませた私は、透明な膜で出来上がった貯水用の袋を肩からぶら下げて、近くの川辺に向かう。この袋はテリャオス(蝶に似た羽虫の一種で、細長い尾の先から密度の濃い粘液を出す。逢魔界の固有種)の粘液から作られたもので、水を大容量入れることが出来るから重宝している。
「行ってらっしゃい。川菜(ここでは川辺に生る食用の植物を指す)があったら拾ってきてね。そしたら、今日の夕ご飯に和え物で出すから、少しだけ食卓が豪華になる」
「うん、判った。フラムも畑仕事頑張ってね。お昼からは私も手伝うから」
見送りに来てくれるフラムに手を振る。
私とフラムが暮らす、全ての果てラグナは、
後ろを振り向いて、ニコニコと笑うフラムの背後に建つ家を見る。二年前にこの逢魔界に逃げて来て、二人で作り上げた木造の家は柔らかい色合いをしている。時間の経過を切に感じられて、嬉しくなる。日常を送っている、そんな気がするのだ。
川辺に向かう道の途中で、遠くの空にどこまでも広がっている銀色の膜が見える。『銀の海』だ。更に、『銀の海』を漂うように、
私達が生きるこの世界は『銀の海』と呼ばれる膜によって二つに分断されている。
その二つとは、森羅万象の頂点に我が物顔で就く、人間と呼ばれる生物が支配する
お日様の恵みを一身に受けることが出来る臨人界では、生命の躍動感に満ちた緑がこれでもかってくらいに満ち溢れていて、色鮮やかな景観はどこも美しいし、その世界で生を謳歌する生き物たちもイキイキとしている。
それに対して、逢魔界は常に薄暗くジメジメとしていて、臨人界に比べたらどの生物も陰気臭い感じはする。頭上に浮かぶ大陸に付着したアカリゴケ(コケ植物の一種で、赤みがかった光を発する。食用ではない)の光に照らされた大地は、まるで血を吸い込ませたみたいにおどろおどろしい色合いをしていて、そこで暮らす人々の
そんな、臨人界と比べればかなり劣っているように思われる逢魔界ではあるけれど、そこで暮らすモノ達は性質的には人間に非常に似ているし―むしろ人間よりも謙虚だと言っていい―そこには、不変でなくてはならない確かな平穏がある。
水の流れる音が聞こえてくる。まるで壮大な自然の交響曲のピアノ伴奏のようだ。
水辺の近くの下草は何かに食まれたのか、先端が凹んでいる。
ふと、何かの視線を感じて、川向うを見る。オオジカの
「大丈夫。貴方達に危害を加えるつもりはないから、安心して」
川を挟んだ向こう側の土地にはミムの木(
ちなみに、ミムの木は私達の家の主な建材として使われているもので、幹の皮を削ると優しい色合いをした木材が出来る。黒色に近い焦げ茶色の幹を柱にして、他の部分はそのお気に入りの木材で作ってある。
オオジカは暫くの間立ち止っていたけれど、私に脅威を感じなかったのだろう。
振り返ると、直ぐに木漏れ日が綺麗な林の中に消えていく。仲睦まじそうに寄り添い合って歩くオオジカの姿に笑みが零れる。なんて、穏やかな光景だろう。
「夫婦水入らずの食事を邪魔してごめんなさい。あとで、お詫びの果実を届けに行くから」
貯水袋を肩から下ろす。蓋を開け、清流の中に袋を沈める。
澄んだ水が手に触れる。爽やかな冷たさが手を伝って身体を巡る。
タクタクと、袋の中に水が溜まっていく。袋が膨らみ、まるで蜜を蓄えた蟻のお腹みたいになる。まあ、中に入っているのは水だから、甘美な蜜のような魅力は感じないけれど、水があることの有難みは知っている。
川の清流が陽光に照らされている。
「そろそろいいかな。よっこいせっと」
タプタプになった袋を肩に担ぐ。可塑的なそれが直ぐに背中に馴染み、水の冷たさが膜越しに明瞭に感じられる。冷たいは気持ちいいだな、なんて思うけど、私は冬があんまり好きじゃないから、夏以外の季節はぬるいくらいが丁度良い気がする。
特に、冬の季節だと手先が
冬のことを思いながら夏の野を歩くのは少し不謹慎かもしれない。だって、今の主役は夏なのだ。一年に一回しか夏は来ない。だったら、夏を謳歌しないで何とするか。
「あっ、川菜見っけ!」
川の上流にぴょこんと可愛らしく生えた川菜を、器用に指で摘まんでいく。傍に生えた雑草の、触れるとくすぐったい先端に小さな虫が停まっている。
「今夜の夕飯に貰っていくんだ。フラムが調理してくれるから、きっと美味しいご飯になってくれる。少し貰っていくけど、貴方の分まで取らないから安心してね」
赤い甲に黒い模様がついている虫。名前は知らないけれど、漆黒の瞳が可愛らしくて、思わず声をかけてしまう。何と無しに指を近づけてみる。虫は逃げない。
軽く触角に触れてみると、虫は甲を開く。甲の下から硝子細工のような大きな羽が広がられる。
そして、羽を撓らせた虫が草から指に移動してきた。
川菜を指と指の間に挟んでいる右手に停まったので、身動きが取れなくなる。飛び立つまで待とうと考え、暫しじっとしてみる。昼頃から、お日様が
額から生じた汗の雫が頬を伝って草の上に落ちる。真夏の音がする。
虫は完全に羽を閉じていて飛ぶ気配が無い。まだまだ昼には遠い時間帯だ。でも確実に、大地に熱が蓄積している。
「止む無しだなあ」
痺れを切らしたので、左手で取っ手を持ち、袋を肩に担ぐ。右手の指の上には虫が、その間にはさっき採った川菜が挟んである。指と指の隙間にじんわりと汗が滲み始める。
「今日の畑仕事はきつくなりそうだ」
足を進める。草が裸足に触れる。既に朝露は乾いて消えている。
フラムが鍬で地ならしをしている。去年使用して、今は休閑地としている畑の土がなだらかになっていく様はどこか心地よい。
「ただいま」
家の直ぐ隣にある畑は九百平米(平方メートル)ほどの面積で、二人だけで運営するには中々骨が折れる大きさだ。一応、
今、私が川から汲んできたのはあくまでも日常生活で用いる分の水であり、それと農作用の水は分けている。その方が、過度の水量減少を防止できるし、もしも雨が暫く降らなかった時の対策にもなる。
「おかえり、ハウ。袋はダイニングテーブルの上に置いておいて。少し休んだらこっちの方を手伝ってもらうよ。一区切りついたら昼食にしよう」
フラムが首にかけたタオルで汗を一拭いする。
「うん、あと、川菜取ってきたよ。取り敢えず水洗いして、夜に直ぐ調理に取り掛かれるようにしておくね。和え物楽しみにしてる」
右手を上げる。まだ、虫は私の指に停まっている。
「判った」とフラムの返事を聞いてから、足を使って戸を押す。両手が塞がっているので仕方なしに足を使ったのだ。決して、楽しようとかそんな魂胆からではない。
玄関に敷いてある毛皮で足に付着した汚れを拭う。履物をしていない弊害はいつも意外なところからくる。以前、廊下を汚した時はフラムに小一時間説教をくらった。
「よっこいせっと」
質量感ある貯水袋をテーブルの上に降ろし、川菜をその隣に置く。
「ほら、一回ここに降りてくれない?今から川菜を洗わなきゃいかないからさ」
すると、虫は素直に指から離れ、その場にうずくまるみたいにじっと動きを止める。人間の言葉が判るのだろうか。フラムが言うには「虫は無意識の集合体みたいなもの」らしいけど、こうして私の言葉を受け取って行動するこの虫は、何らかの意識を宿しているように思えてならない。
台所で小さく萎んだ袋の中の水を使って川菜を洗う。水は人肌に染み渡るぬるさだった。最初は冷たい水も、時間を置けば次第にぬるくなっていく。空っぽになった袋を壁に打たれた釘の腹部にかける。
「今日も暑いね」
鎧戸の畳まれた硝子窓を開けたフラムがそうぼやく。労働に勤しむ彼の頬から伝ったであろう汗の跡がある。笑みを浮かべる彼は爽やかだ。
「今日の昼ご飯は何?」
「普通は労いの言葉が最初にくるだろうにさ。ハウは食い意地が張り過ぎなんだよ。ちなみに、トマトパスタにするつもりだよ。大地行使で軽く凍らせたトマトを使って作るんだ。今の季節にはピッタリじゃないかな」
窓辺に片肘をつきながらフラムがこちらを見ている。あそこに居るのは神様か何かなんじゃないかな。主に料理の方面の。トマトパスタか、考えるだけで涎が出てきそうだ。
「そんなに目をキラキラさせても、直ぐには出来ないよ。まだ畑仕事が終わってないんだしさ。ほらっ、早く食べたいなら、早めにこっち来て手伝ってよ」
「判った。超特急でそっちに行くよ!」
袖を捲り、水で濡れている手を拭かずに駆けだす。
「よし、もうひと頑張り!」
鍬が土に振り落とされる。ザクッと地面を掻く音が聞こえる。これは、日常の幸せな音だな、なんて老婆みたいな感傷が湧いてくる。肉体的にはまだ二十にも満たない小娘なのに、精神的に年を取り過ぎてしまったのかな。微笑が自然に洩れた。
畑仕事を終えて、フラムが台所に立つ。初対面の頃は身体の線がどこも細く、もろ学徒という風だった彼の身体に筋肉が付き始めている。全体的な細さは体質だろうから変わらないけれど、それでも腕は力瘤で隆起しているし、肩なんかは結構ガッチリしてきている。男の色気みたいなものも纏い始めてきているな、なんて剥き出しになった彼の上半身を凝視しながら考える。
出会ってから四年…全てから逃げ出して、彷徨の末に辿り着いたラグナに暮らし始めてからは二年が経過している。
「はい、お待たせ。冷やしトマトのパスタだよ」
皿には鮮やかな赤色のソースがかかったパスタがのせられている。向かい側に座ったフラムが中央に置かれたサラダを木の小皿に盛って、私の方に差し出す。小皿の中は緑黄野菜で満ちている。目に優しいし、胃にも優しい。
「いただきます」「いただきます」
手を合わせ、感謝の言葉を述べる。これはフラムの故郷での慣習なんだそうで、自分の血となり肉となる食材に感謝するのだとか。細やかな動作ではあるけれど、どこか神聖なもののように思える。
パスタをフォークで絡めて口に運ぶ。酸味の強いトマトにサデュルの乳から作ったチーズの味の濃さがマッチしている。野を駆ける凱風のように清涼感ある味わいだ。
テーブルの端の方に小さくちぎった野菜を置いている。虫が黙々とそれを食んでいる。
「ねえフラム」
博識なフラムならこの虫について何か知っているのではないだろうか。
「んむ、どうしたの?」
咀嚼したパスタを飲み込んだ。
「この虫の名前とか知ってる?」
「水汲みに行った時に連れて来たって言うこの虫のこと?」
肯首して、サラダを口に運ぶ。瑞々しい味わいだ。
「う~ん、図鑑でも見たこと無いしなあ…そもそもラグナに関しての情報は基本皆無だし。新種だとしても可笑しくはないとは思うけど…よく判らないかな」
虫を凝視してから、お手上げだ、という感じで首を横に振る。
「虫が言葉を認識すると思う?」
私が訊きたかったのはどちらかと言うとこっちだ。新種かどうか、だなんてのはあまり興味が無かった。
質問を受けたフラムが暫し沈黙する。質問の意図を読み取ろうとしているようにも、急にそんな質問をした私を訝しんでいるようにも思える。
「どうだろう。前にも言ったけど、虫は無意識の集合体みたいなものなんだ。彼らの行動はどちらかと言うと突発的で、且つ本能的だ。遺伝子に刻まれた無意識を活用することでしか行動を決定できない生き物の筈…だけど、そう質問するってことは、何かあるんだよね」
「私の言葉を聞いて、それに従って行動しているっぽいんだよね。待ってて、と言ったら待機しているし、さっき、こっちに来て、と言ったら指に停まった」
「
「そこが今一判らないんだ。でも、感覚的には、この虫は私の言葉が判って、その上で行動してるんじゃないか、と思うの」
「まあ、無いことも無い…とは思う。どんな事柄にも例外は必ず存在するし。取り敢えず一回やってみてもらっていいかな」
言葉では一部肯定していても、やはり信じられないらしい。フォークを手から離し、気をこちらに向ける。指を絡め、それを鼻の下に持っていく。知識欲になんて誠実な人なのだろう。
私もフォークを一旦手から離す。人差し指を突き出して、食事中の虫に語り掛けるように言葉を紡ぐ。
「おいで」
沈黙が湖面に石を落としたみたいに広がる。すると、食事に夢中だった虫が羽を広げ、私の人差し指に飛んで来た。先端に停まり、羽を閉じた虫がジッとしている。
「おおっ!これは驚いたな。本当に言葉が通じてるみたいだ」
半信半疑であったフラムが感嘆する。
「どう思う?」
「どう思う、って言われてもなあ。さっぱり判らないかな。少なくとも、俺が提唱する無意識の集合体では無い」
「虫じゃないってことかな」
「微妙。さっきも言った通り、何事にも例外は存在する」
フラムの顔に難しい表情が浮かび始める。一先ずこの話題は止めにしておく。考え始めたら彼はとことん究めようとするし、一方的に尋ねていると会話をしている気がしてこないのだ。
「パスタ、美味しいよ。トマトの酸味が絶妙にパスタとマッチしてる」
「うん、有難う。美食家にでもなるつもりかな?」
「まるでトマトの
「棒読みが過ぎるよ。それに抑揚もない。表現だけど…」
フラムがソースをしっかり絡めてからパスタを口に運ぶ。
「凱旋パレードは無いと思うな。暑苦しさは皆無、清涼感に富んだ料理だしさ。春風のよう、とかが妥当だよ」
少しの沈黙の後、二人で噴き出す。急に可笑しさが込み上げてきた。
やっぱり、思考に囚われて個人の世界を作ってしまうよりかは、言葉を交わした方が何倍も良い。言葉の質感を、言葉の温もりを感じられる。
食事を終えて、耕作に戻ったフラムとは別に、私は川へと向かう。ルートの果実(瓜のような形をした淡い黄色の果実。糖度が高く、子供に人気がある。臨人界の固有種)を携え、肩には虫を乗っけている。
あれから少し話し合って、この虫に名前を付けることにした。
「名前を付ける行為には呪術的な意味合いが含まれている」そう、フラムは言っていた。
「例えば、子供に名を授けること。飼っているペットに名を授けること。それは、確固たる存在を対象に付加する行為なんだ」
「個としての存在を得ると、対象は密度の濃い言葉の世界に結び付けられ、そして縛り付けられる」
「個としての存在を持つということは則ち、無限に広がる夜空の中から、星と星とを糸で結びつけて、近づけていくことと同義なんだ。この時の、夜空、っていうのは限りなく広いもの、と漠然と思ってくれたら判り易いと思う。とにかく、その瞬間に、自由であった普遍から限定された特殊へと縮小される」
「大雑把に『人間』もしくは『あなた』とか『君』と呼ばれるのと、『ハウ』と個人名で呼ばれるのとでも、かなり異なった印象を覚えるだろ?前者だとよそよそしくて、後者だととても身近に感じる。それは、個としての自分と他者を言葉を介して結びつける、ということだと思うんだ」
「じゃあ、それがどうして呪術的なのかって?」
「そりゃあ、半ば強制的に『個』と『個』を繋げる行為なんて、そんなの、呪い以外のなにものでもないだろ」
「どんなモノでも不可侵領域はあるんだよ。その大きさは個人差があるけれどね」苦々しい顔でそう綴っていたのをよく覚えている。表情が余りにも印象的だったから、その時の言葉を一言一句違わず記憶していた。
「何事にも、あんまり軽々しく踏み込んじゃいけない…っか」
思い出すのはこの二年間の日々、幸せで、穏やかな日常。その二年間の中で、一度も私達が声を荒げて喧嘩をすることは無かった。互いに踏み込み過ぎず、干渉し過ぎず、程々の距離を保つ。風の凪いだ森のような関係を築き上げていた。
いつの間にか、それが普通になっていた。きっと、フラムがそうなるように思案したんだと思う。あの時の私は、棘だらけだったから、何か一つでも間違えたら全てが崩壊する、そんな恐怖があったんだと思う。
結った髪に触れる。二年の月日が私の髪を長くさせた。
今、私が一歩踏み出したら、彼はそれを受け入れてくれるだろうか。考えるだけで恐ろしくなって、真夏なのに身体が震える。冷汗が背中に滲む。
川辺に着く。川幅は十メートル程。水面から幾つか岩が顔を出している。強い陽光が水面を白く煌めかせている。
数歩後ろに下がり、助走にのって跳躍する。四メートルほど跳躍し、次の岩に足を着け、もう一度跳躍する。三メートル跳躍し、また次の岩に着地する。勢いにのったままもう一度跳躍する。そして、向こう岸に着地する。
「大分鈍ったなあ」
全盛期なら二十メートル程跳べたけど、今は流石に無理だ。髪が伸びて、筋肉も少なくなって、身体つきも女性らしくなった。
いや、男性みたいな短髪に筋骨隆々とした身体、剣と槍を振るう事しか知らなかった『聖槍の
本当の私は、密かな恋心に悶える一人の女性に過ぎなかった、ただそれだけのこと。あの時が異常だっただけなんだ。自分にそう言い聞かせる。
原生林の中は静寂に満ちている。枝葉の裏が光に当てられて暗い。木漏れ日が下草に斑模様を描いている。それは、風が吹く度に右に左と揺れている。自然の匂いが鼻を掠め、安心感を与えてくれる。
大きく息を吐く。肺の中が空っぽになってから思いっきり鼻で息を吸う。
オオジカは自分の縄張りを示すために、木に尿をかける習性を持っている。ツンと酸っぱい臭いがするから、近くにあるのなら直ぐに判る。
北東の辺りから臭いがする。刺激臭を嗅いだ時の仄痛さが鼻に残る。
木間を進んで行くと、比較的新しい痕跡が残る木を見つける。幹が尿で湿っている。その痕跡の付いた二つの木の間を覗けば、奥に開けた場所が広がっていて、そこでオオジカの番が日向ぼっこをしている。
木陰に潜り、気配を殺しながら近づく。
陽だまりの海のような場所。その中心で寄り添い合うオオジカの姿は理想的な夫婦像みたいに見える。蝶が二匹、オオジカの角の周りを飛んでいる。
そっと、持ってきたルートの実を陽だまりの上に置いて、踵を返す。二度も邪魔をする気は無かった。
「あっ!待って、ヴィル!」
早々に立ち去りたい私に異を唱えるみたいに、ヴィルと名付けた虫が陽だまりの中に飛び込んだ。煌めく甲がフラムの髪色によく似ている。
オオジカに気付かれないよう常に意識しながら木陰の中を進む。木々は円を描くように林立していて、円周に沿って進んで行くと、オオジカに隠れて見えなかった横たわった何かを見つける。
それが人間の子供だと気づくのに、そう時間は要らなかった。ヴィルが子供の肩に停まった。数瞬陽だまりの中に入るのを躊躇うが、それを気にしている暇は無かった。
薄暗い木陰の中から出た直後、目が眩む。片目を閉じながら子供の傍に駆け寄る。
苦しそうな呻き声が聞こえてくる。痛みを耐えているような荒い息遣いと合わさって、とても残酷な音が木霊する。
子供を仰向きにさせる。子供は左目を両手で隠していて、髪の毛が不自然に長く、右目も隠されている。頬から血液が滔々と流れている。さっきまで子供の頭があった下草が赤黒い。
「大丈夫、もう大丈夫だから」
出来るだけ声を静めて、優しい声で語り掛ける。隠れた右目から涙が流れている。痛みが激しいらしく、歯を食いしばっている。本当は叫びたいくらい痛いだろうに、それを全力で耐えているようだ。
広げた右の掌で地面に触れる。
「全ての母たる大地の神よ、どうか私に、この童を癒す力を授けて下さい」
大地行使を唱える。すると、掌に光が灯る。陽光とは違う、青緑色の冷たい光。夜の川に舞う蛍の光にそれはよく似ている。
「目から手を退けて。大丈夫、直ぐに痛いのが治まるから」
左手で子供の髪を撫でる。少しでも気が楽になるように、痛みに意識が向かないように、出来るだけ力を抜きながら撫でる。
子供が腕を震わしながら手を退けた。私は、手に隠されていたものに驚愕した。
「無い…」
子供の左目は無かった。くり貫かれ、空洞となった眼窩だけがそこにあった。風が空洞音を鳴らして流れていく。穴からは血が流れ続けている。
掌をその空洞に宛がうと、青緑色の光が吸い込まれていく。光が消え、手を離すと出血は止まった。
子供の腕の震えが止まったのを確認して、安堵する。子供も痛みが消えて気が落ち付いたらしく、小さく寝息を立て始める。
ずっと子供の肩に停まっていたヴィルが私の肩に戻る。
「有難うヴィル。全然気が付かなかったよ。はぁぁ、良かったあ」
全身から力が抜ける。久しぶりに大地行使を使ったからすごく疲れた。発動できるか不安だったけど上手くいって良かった。
視線を感じる。オオジカの番が私達をじっと見ていた。
「二回も邪魔してごめんなさい。直ぐに去るから、貴方達はゆっくりして…」
すると、角が小さいオオジカがこちらに近づいて来る。角の大きさで、そのオオジカがメスかオスかは判別できる。近くで見れば見るほどオオジカの顔は凛々しい。眼前で足を停め、首をこちらに伸ばす。そして、子供の左頬に残る血の跡を舐め取っていく。
血の跡が消えると、メスのオオジカは私の隣に蹲る。「気にしないで」そう言っているように思える。
オスのオオジカは背後に置かれたルートの実を咥えてメスの隣に蹲る。暫くの間滞在を許可されたらしかった。
「有難う」
優しい心遣いに感謝を示す。髪が風に靡く。涼しくて気持ちの良い風だ。
両目が髪で隠れた子供を見る。
草床で眠る子供がまるで陽だまりに咲いた花のようだった。
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