いつかの光景



 そろそろ中間テスト前だという憂鬱な平日を抜けて、今日はみんなで水族館へ行く日だ。

 無論、今日の為に予習はバッチリと済ませてある。

 勿論、勉強ではなくイベントの事であって、それにテスト前にやるのは復習だろう。

 ともかく、学生の本分をふっ飛ばすくらい、気合を入れているという事は分かってもらえるはずだ。なんせ、普段の休日は昼過ぎまで寝ている俺が、早起きをして既に身支度を済ませているのだから。


「彩葵まだかー?そろそろ行くよー」

「待って待って、お兄ちゃん!あともうちょっとで髪がセット出来るから!」


 集合時間には、あらかじめ余裕を持った出発時間なのでそのくらい待つのは問題ない。

 しかし、そんなに時間を掛ける奴だっただろうか?久しぶりに出掛けるから忘れているだけかもしれないが、前は出掛けるとなると、俺と同じくらいの時間で準備をしていたような気がする。

 まぁ、彩葵も高校生になったのだからその辺りに時間を掛けるお年頃という事なのだろう。でも、その分可愛くなった事で、ナンパとかにあって変な男にだけは引っ掛からないでほしいと兄ながらに思う。


 それからしばらく玄関に座って待っていると、廊下からとたとたと足音が聞こえて来る。


「お待たせッ!」


 いつもと違い、髪はハーフアップに三つ編みを混ぜたスタイル。服はそれに合わせたワンピースのコーディネートで決めた彩葵が姿を現す。

 その様相で少し大人っぽく見えた彼女だが、綺麗というよりは可愛いと思った。我が妹ながらそこらのアイドルにも負けてない。


「それじゃあ行こっか」


 身内自慢もそこそこにして、家を出ようとドアノブに手を掛けたと同時に、後ろから服をくいくいと引っ張られた。

 ここは玄関で、俺が帰宅すれば新婚三択、家を出る際には行ってきますのキスを要求される等、必ずイベントを入れてくるので、いつものようにここで一芝居あるのかと身構えて振り返る。


「今日の私、どうかな?」


 思ったよりも普通の問い。女の子にとって身嗜みのチェックは必要なのだから、それを他者に聞く事は何もおかしな所はない。

 只、俺にとってその言葉がある日の思い出と一致しただけで。


『君はホント天邪鬼なんだから……素直に褒めてくれてもいいんだよ?』

 病室のベッドで上体を起こして座る、その日の前日とは髪型を変えた彼女がクスクスッと笑う。

 その時の俺は濁した返答しか出来なかった。本心を素直に言えてたら後悔する事も無かっただろうに……


 不意によぎる光景から意識を現在に戻して彩葵を見る。


 だから今は——


「当然、可愛いよ」

「えへへ〜ありがと、お兄ちゃん!」


 あの日、俺が素直であったら、彼女もこんな風に満面の笑顔を見せて喜んでくれただろうか。


 しかし、それも今となっては知る術もない。

 なぜなら、俺が次に病室を訪れた際、彼女は忽然と居なくなってしまったのだ。

 長らく入院していたので、ある一つの理由が考えられたが、その可能性は彼女の主治医だった人によって否定され、胸を締め付ける緊張は解かれたけれど、その病院から居なくなった詳細は個人情報という事で教えてはもらえなかった。

 だから、もう一度会いたいと思ってもそれは叶わない事なのだ。


「どうしたの?」


 横からこちらの顔を覗き込む彩葵に気付き、ぼやっとしていた意識を戻しながら、何でもないと妹の頭を撫でる。

 最初こそ怪訝な顔をしていたがもうそんな様子はなくなっていた。これから楽しい一日を始めるのだから、また彩葵に心配を掛ける訳にはいかない。


「さてと、じゃあ出発しようか」

「うん!今日は目一杯楽しもうね!」

「そうだな、このイベントを存分に満喫してメモリーに刻むとしますか!」

「おぉ!お兄ちゃんのテンションがいつもより二割増になってる!でも、そうこう言ってるうちに、時は刻まれて集合時間ギリギリだけどね。これはウケる通り越してナゲるね!」


 そう言いながら彩葵がキャハハとスマホの時刻を指す。


「いやいやっ、ナゲるって諦め入ってるからッ!?てか、さっきまでの余裕どこいった!?」


 斯くして、俺たちは駅まで精一杯のダッシュをするはめになったのだった。



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