俺と母親の280日

もくた くも

俺と母親の280日

お母さん若いね、と言われるたびに嫌な気持ちになった。

ただの事実だ。

俺の母親は14歳で俺を産んだ。


生まれてから27年経った俺は、建設系の商社で営業をしている。

母より2つだけ年上の親父は懸命に働いて、今では小さな工務店を取り仕切っている。

母はそこで経理をしているらしい。

らしい、というのは、俺はその会社のことを何も知らないからだ。

親父は家に仕事を持ち込まない。話すらしない。

いわゆる入婿で、持ち込みにくい、という面もあったとは思う。

祖父と祖母と、母の姉と母と俺と、仕事に出っ放しでたまに帰ってくる親父。

六人家族に特に問題はなかった。

仲も悪くはなかったし、まだ若い祖父母は仕事を持っていて、経済的にも安定していた。

問題はいつも外にあった。

幼稚園で、小学校で、中学校で、高校で。

母は俺の母親であることを表明しなければならない時、いつも申し訳なさそうな顔をした。

成人すればもうそんなことはない。

早く大人になりたかった。

30歳が見えてきたこの頃になっても、自分が大人である自信はないが、少なくとも両親の手を煩わすような人生は送っていない、と思う。


「ゆーや、ゆーや」

帰宅してリビングに入るなり名前を呼ばれて何事かと思った。

台所から顔を出した母は菜箸で掴んだ大根を俺の前に突き出した。

いくつになっても母はこちらを子供扱いするのをやめないし、母自身に、子供みたいなところがある。

「味見して!」

「焦げてんじゃん」

「そうなの。まだ食べられるか試して」

生まれてこのかた、そんな理由で味見をさせられたことはない。

「やめといた方がいいんじゃないか?」

「ほら、私も言ったでしょ?」

台所の中では祖母がフライパンを振るっている。

「だって、有弥の好物だから」

「俺の好きなのは豚の角煮であって焦げた大根ではない」

しかし、母が料理を焦がすのは珍しい。

「そんなにしょげるなよ」

「今日は有弥のお祝いだからと思ったのにー」

落ち込んでいると思ったら今度は拗ねている。

「何のだよ」

誕生日は4月だし、昇進したのは6月だし、今は8月だ。

「10000日」

「は?」

「生まれてから10000日目だよ。おめでとう!」

どう反応していいのか分からなかった。

全く想定していなかったし、それがめでたいことなのかも分からない。

「ばあちゃん、これって祝うことなの?」

「いや、聞いたことないけど紗和がお祝いするって言うから」

紗和は母の名だ。

「お祝い事は多い方がいいじゃない」

そう言って母は祖母から皿に盛られた焼きそばを受け取った。


祝い事と言ってもささやかなもので、俺の好物が並んだ食卓を囲む顔ぶれはいつも通りだった。

食事を終えるといつも通り各々の部屋に戻って行く。

親父は普段飲まないビールを飲んで上機嫌だった。

「有弥、ちょっといいか?」

「んー」

皿を食洗器に入れて席に戻ると、親父と母が向かいに並んで座っていた。

「何だよ改まって」

心当たりは何点かある。

そろそろ家を出ろとか、伯母の体調が良くないとか、いろいろ。

「子供が出来た」

テーブルの上では二人が手を繋いでいる。

「はぁ」

どこに?誰の?いつ?

混乱は脳内でぐるぐる回り、口からは脱力する音しか出なかった。

「この歳だから悩んだけど、もう一度子育てするのもいいかと思って」

「親父と母さんの子供ってこと?」

「そう。有弥の妹か弟」

俺は混乱がピークに達し、頭を抱えた。

「身体とか大丈夫なの?」

漠然とした不安があるが、何を心配すればいいのか分からない。

「母さん今年42歳だけど、同い年で初産の人もいるらしいし、あんまり心配してないよ」

「親父は?」

「嬉しい」

「そうだろうなぁ」

酒のせいもあるだろうが、こんなににこにこしているところは初めて見る。

「うん、まあ、無理しないで」

何と声をかけていいのか分からず、席を立った。

二階の自室に向かう俺を親父が呼び止めた。

「有弥。嫌だったら家を出てもいい」

階段の踊り場で立ち止まり、振り返るか迷ってやめた。

「じいちゃんたちを心配してくれてるんだろう。大丈夫だから」

「親父だって心配だよ」

経営者だと言うのに現場に出て怪我をしたのはつい最近だ。

涼しい顔をしているが、痛みに耐えているのを知っている。

「ありがとう。おやすみ」


14歳の時の夢を見た。

反抗期のピーク、自分の窮屈さを母親にぶつけたことを思い出す。

『なんで俺なんか産んだんだ』

違う。本当に責めたいのはそこじゃない。

『なんで子供なんか産んだんだ』

母の泣きそうな顔を覚えている。

『あんたの人生は、それで良かったのか?』

伯母が止めに入って、俺はその手を乱暴に払いのけた。

『もう一度生まれたら、ちゃんとした両親がほしい』

違う。傷付けたいんじゃない。でも、受け入れられない。

『ごめんね。私がお母さんで、ごめんね』

母は泣いていた。飛んで来た親父にも食って掛かった。

『あの時、俺の人生には紗和しかいなかった』

親父も、母も、伯母も。みんな悲しそうな顔をしていた。

『紗和に甘えていたんだ。お前にも甘えてる。辛い思いをさせてすまない』

親父が涙を流すのを見たのは、後にも先にもあの時だけだ。


子供が出来るというのはどのような気分がするものなのだろう。

俺は結婚するつもりはない。ましてや子供など。

今時、独身男なんて珍しくもない。

思春期を引きずっていると言われようが構わない。

自分の子に『あんたの人生は、それで良かったのか?』と問われるのが、怖い。


母は元気だった。

周りに諌められて自転車はしまい込み、臨月まで徒歩で通勤していた。

俺も休日は掃除を手伝ったりしたが、週五で働きながら家族にしてやれることは少ないと思い知った。

そしてその日、なんてことない普通の火曜日、仕事中にメールが入った。

病院名、母が産気づいたこと、『来られたら来い』と素っ気ない文章。

俺は上司にどう説明したらいいか分からず、結局終業時間まで働いた。


「来たか!」

親父は廊下をうろうろしている俺を見つけると引っ張って分娩室に入ろうとした。

「ご家族以外の方は……」

「家族です」

「お父さんになられる方は良いんですけど……」

どういう規則か知らないが、看護師は歯切れ悪く俺の入室を拒んだ。

第一、医師やら看護師やらがベッドを囲んでいるのに割り込んで行けるはずがない。

仕方がないので廊下で小さな椅子に腰かけながら、保健室に貼ってありそうな様々なポスターを眺めて過ごした。

もう何時間にも及ぶお産なのだと言う。

子供を産む時に死んでしまう母親がいるということを、俺はその時初めて聞いた。

母のうめき声と助産師が励ます声が響いている。

この人たちは、命を待っている。

そして何十分か経った後、命は産声を上げた。

その声を聞いた時、あれは俺だ、と思った。

『もう一度、生まれたら』

そう言った14歳の自分が望んだ、俺だ。

目からぽろりと涙が落ちた。

あの時母は、親父はどんな気持ちで泣いていたのだろう。

息子に責められて、辛かったのだろうか。

それまでの人生が、苦しかったのだろうか。

「有弥、先に病室行っててくれ。じいちゃんとばあちゃんが来るから」

目を真っ赤に腫らした親父が分娩室から出て来た。

俺の目も負けずに赤かったと思う。


「思ったより早く出て来てくれて良かったね~」

祖母は随分と気楽なものだ。

出産を経験したことのない者には分からない何かがあるのだろう。

祖父と親父は壁際のソファに掛けてぼんやりと話をしている。

「女の子だね」

「女の子です」

「かわいいだろう」

「かわいいです」

祖父の声は静かなのに、居住まいを正さなければ、という気にさせる。

親父はまた泣き出した。

「いいんだよ、宏和くん。結局みんな幸せになったろう」

俺は二人に近寄れず、母の枕元にある丸椅子に座った。

「有弥まで泣いちゃって、どうしたの?」

「昔、酷いこと言った」

母は抱いている赤ん坊から目を離してこちらを見据えた。

「うん」

「ごめん」

赤ん坊がぐずり出したので、俺の謝罪は宙に浮いた。

「ほら、お兄ちゃんだよー」

指を近付けるときゅっと掴んだので、感心した。

新生児にはそういう反射があると、廊下のポスターに書いてあった。

「妹に会った感想はどう?」

「小さいな」

「いっぱいかわいがるからやきもち焼かないでね」

「焼くかよ。でも男より女の方が良かった?」

「そんなことないけど、生まれてきて良かったって、思って欲しいじゃない」

母は疲れた顔をしていたが、笑顔は少女のようだった。

「俺は思ってるよ」

「そう?なら良かっ……」

「泣くなよ」

「良かったあ」

母が声を上げて泣くので、赤ん坊はつられて泣いた。

「有弥、何したんだ?」

慌ててベッドに近寄って来た親父に、一部始終を見ていた祖母が告げた。

「有弥ね、生まれてきて良かったって思ってるんだって」

命ひとつが感情を掻き回す。

命ひとつが俺を見つめる。

顔に対して大きな目をじっと見ていると、退屈したのか寝始めた。

母が小さい手を勝手に動かして招き猫みたいなポーズを取らせた。

「よろしくね、お兄ちゃん」

「よろしく、妹」

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