三夜目 蟻地獄地獄
今夜の夜空亭には有名人が来ていた。
有名と言っても悪名のほうである。いや、裏稼業のものが多いこの街では名声になりうるのかもしれない。
嫌悪と侮蔑と多少のやっかみとごくまれに恍惚を込めて、その男を皆は”蟻地獄”と呼ぶ。
平たく言えばヒモである。
だが一流のヒモである。
泣かせた女は数知れず、だが泣いた女もそれを後悔せず、さらには養ってあげると自ら申し出る女もいるくらいである。
実はこの蟻地獄、とあるお屋敷の使用人でそっちが本業のはずなのだが、使用人部屋より女の家で寝ることが多いのでその事実をみんなが忘れている。たまに本人も忘れて出勤し損ねる。にもかかわらずなかなか解雇されない。奥様をたらし込んだんじゃないかともっぱらの噂である。
そんな彼が「たまには女っ気のないところで酒を呑みてぇ」と、贅沢な悩みを抱えてやってくるのがこの店である。
「お姉ちゃんたちにちやほやされンのいうれしーよ? でもたまにはさ、男同士の……ねえ、あるじゃん」
「つまりアタシ、蟻地獄さんから男として見られてます?」
「だって初見でお姉ちゃんだと思って声かけたら中身オッサンだったじゃん。マジビビったわー。しかもオッサン2種類いるとかないわ。おれ、幽霊船が本当はお姉ちゃんなんだって知っててもおっぱいのついたオッサンにしか見えないよ」
「斬新な表現ですねぇ」
気を悪くした様子もなく、幽霊船は彼の与太話に相槌を打っている。今日は中身も本人なのでまともな女性がするべきまともな服装をしていた。
当のオッサン2人は大変気を悪くしたらしく、さっきから幽霊船のジョッキがびりびり震えている。「割らないでくださいよぉ」と幽霊船に釘を刺されて、震えは多少、小さくなった。
「つーかさぁ、よく考えたらオッサンが体の中にいるってヤラシくない? 実際どんな感じ?」
「ヤラシくないですし説明もできません」
「説明できないってことはヤラシいんじゃないのかー? うりうり」
「『痛いってどんな感じ?』っていうくらい説明しにくいです。アタシにとっては当たり前の感覚なので」
「そういう説明できないやつかあ。つまんね」
「勝手にどこにでも詰まっていてくださいな。店長さん、お勘定」
「えーもう帰っちゃうの? ヤダー」
袖を引っ張ってくる蟻地獄をすげなく振りほどいて立ち上がると、幽霊船は何もない中空をぐっと親指で指した。
「『オッサン2種類』が青筋立てて爆発寸前なものですから」
「わおヤラシい……うわっと」
蟻地獄のジョッキが跳ね上がる。ついでに中身がごぼごぼと音を立てて沸騰した。
「沸かしちゃったら呑めねえじゃん!」
「船長さん、航海士さん、いい仕事でした」
「おれを気遣って!」
「でもお酒に申し訳なかったですね。きっと美味しく呑まれたかったことでしょう」
「おれ!!」
「じゃあ店長さんごちそうさまです。またそのうち」
「おれ!!」
結局幽霊船から蟻地獄へ気遣いの言葉が投げかけられることはなかった。颯爽と店を出る幽霊船、大げさに肩を落とす蟻地獄。女に不自由しない蟻地獄が女にあしらわれるのが爽快らしく、店はどっと沸いた。
店長も笑いながら蟻地獄のジョッキを取り換えつつ、ひそひそ話。
「ちょっと大げさすぎない?」
「たまにはこれくらいやんないと、もてない男に刺されちまう。幽霊船も役者だね。いつもありがてぇや」
「『オッサン2種類』はわりと本気で怒ってたけど」
「おお、怖え」
「自分も身に覚えあるから余計にね」
「うん?」
「準男爵が風呂場覗いてあわや契約解消の話はしたっけ」
「詳しく聞かせてください」
「もっと高い酒を注文したら考える」
「あっ、ずりぃ」
店長は笑いながら、他の客の注文を取りに行った。
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