二夜目 幽霊の凱旋

 けだるげにまたたび酒を舐めていた”錆猫”が、ふいに目線を上げた。


「潮の匂いがする」


 言われて、店長も鼻をひくつかせる。言われてみれば、する。この匂いをかぎ分けられるのは、店じゃ店長と錆猫くらいだ。なんてったって、これは本物の海じゃない。魔法の海の匂いなのだから。


「……賭けないか。来るの誰か」

「あんたが勝ったら1杯奢ればいいんだろうけど、おれが勝ったらなにしてくれるんだい」

「表通りの店で……なんつったっけ。果物潰してないジャム」

「プレザーブ、だな」

「それ1瓶、ちっちゃいの買ってきてやるよ。紫のやつ、好きだろ」

「ブルーベリー、な。よし乗った」

「じゃ、誰に賭ける」

「うーん……”準男爵”」

「おれ、”羅針盤”」


 正真正銘の「海の男」もこの通りに飲みに来ることがたまにはあるが、魔法の海に連なるものは決して多くはない。その少ない選択肢からさらに絞り込んで、2人はそれぞれに答えを出した。

 弛緩した緊張が2人きりの店内を支配した。

 そもそも、魔法の海に縁のある、愛すべきあの子は違う店を選ぶかもしれないのだ。もっとも「中身」については「あの子」と呼ぶのもはばかられる存在だが。

 そうなったら今日の賭けはお釈迦である。お釈迦になってもまるきり支障のない、益体のない賭けではあったが。 


 潮の匂いは、順当にこの区画に向かってきている。

 そして賭けのネタにされているとも知らず、くだんの人物は豪快に扉を開けた。


「よう! やってるかい!」


 どこから持ち出したのか、申し訳程度に中身の残った酒瓶片手に、上機嫌なそのお客。

 長いとも短いとも言い難いが深い付き合いである彼らに「中身」はすぐ知れた。


「……ッチ」

「約束だからな。プリザーブの、ブルーベリーだからな」

「わぁッたよ。明日にでも買って来らァ。……ほかに買い物あるなら済ませてやってもいいぜ」

「おおー、助かるなあ。あとでメモ渡そうね」

「……重いとか遠いとかナシな」


 蚊帳の外で、客はきょとんとしていた。何喋ってるんだろうという好奇心を顔には出すが、なんだなんだと無理に首を突っ込んでくることはしない。それがこの客である。良い客だ。本当に。一見さんを常連さんにしてしまった実績もある。元はと言えば不注意なのだが。


「さーて準男爵、その様子だと違う店でもう何杯か勝利の盃を味わってきたようだけど、ウチでは何にする?」

「そうだなァ、どうしよっかなァ」


 おどけた節をつけながら、準男爵は後生大事に抱えていた酒瓶の中身を、店主が差し出したグラスに移し替える。おそらくはワインを入れるべきグラスの半分くらいまで、濃い琥珀色の液体で埋まった。抱きしめているうちに温まっていたのか、魅惑的な芳香がふうわりとあふれる。ラム酒の香りだ。度数は高いが、水やソーダ水で割ると万人に楽しみやすく、なおかつしゃれたカクテルが出来上がる。

 それを、それをだ。

 準男爵はそのまま一息で飲み干した。

 そうしてグラスをカウンターに置くと、満面の笑みで言うのだ。


「ポートワインが飲みたいなあ。ただのワインじゃなくって、ポートワイン。ある? ないならラム酒をおくれ。ぜひともヘヴィ・ラムでね」

「残念ながら……ポートワイン、ありまーす!」

「やったー!」


 無邪気に両腕を振り立てて、準男爵は喜ぶ。その嬌声及び服装の大胆さに、最近来るようになった事情を知らないお客さまは視線がくぎ付けだ。


 灰色のブラウスは胸元がざっくりと開き、たわわな果実がきわどいところまで晒されている。薄手のベストやコートを羽織っちゃいるが、焼け石に水だ。むしろ色が濃い分、開いている部分を強調しかねない。よくよく見れば下半身もひどい。ズボンはタイトな作りで、腰の細さと尻の張り具合を喧伝する役にしかたっていない。丈は七分で、白い足首が良く見える。せめてブーツで隠せばいいものを、準男爵はそいつを好まないので「滑らなきゃなんでもいいんだ」と、裏にゴムを貼ったくるぶしまでのぺたんこ靴を愛用している。


 さて、なぜまたどうして準”男”爵と言っておきながらうら若き女性なのであろうか。

 答えは簡単、準男爵は女魔術師に憑りついた亡霊なのである。

 なお賭けのネタにされていた羅針盤も宿を同じくする魂だが、こっちは気遣い細やかな苦労性である。


 甘いポートワインに舌鼓を打ちながら、聞かれてもいないのに準男爵は新たな武勲を嬉しそうに語った。


「ここんとこ8区で通り魔が出てな、お嬢が見張りを頼まれたのよ。ほら、あそこ、マダムで賑う小間物屋が多いだろ。だからお嬢みたいな女のほうが目立たなくっていい。もちろん俺か、羅針盤のクソッタレがいつでも出られるように待機してた」


 カウンターに置かれたグラスが、かたかた鳴った。羅針盤の抗議であるらしい。準男爵は「うるせぇな」と面倒そうに一瞥したが、すぐに機嫌を直して喋り始める。


「んで、折よく俺がいるときにその通り魔野郎が現れやがり、しかも狙いは俺ときた。ツイてるだろう? ま、憑いてるのは俺なんだけど……っていうのは置いといて、俺はその不届き者を一刀両断……と行きたかったんだが、さすがに殺す許可までは出ていなくってよぉ。峰打ちでずっこけたところを縛り上げて憲兵さんに持ってってもらった」

「それで今夜はそのご褒美ってとこかい」

「おう。夜が明けるまで、この身体自由にしていいとよ。ありがてぇこった。死んでからも酒が飲めて飯が食えるとはねえ。ただ、殺しがあんまりできねぇのと女抱けねぇのは残念だ」

「娼館の客に憑いていったらどうだ?」

「お嬢にしか憑けない約束でな……」


 おかげであのクソッタレと同居するはめになったとグラスを煽れば、今度は隣の、錆猫のグラスが震えだす。それを見る店長と錆猫の顔には親しみと苦笑がくっきり浮かんでいた。

 いつもこうなのだ。準男爵が表に出れば羅針盤を罵り、羅針盤が身体を使えば準男爵の嫌味を言う。その度に本人や、周りのグラスが揺らされることになる。

 だが甚大な被害を出したことはないし、2人の口ぶりからしても、喧嘩するほどなんとやらな間柄のようである。


 なお本来の身体の持ち主である”幽霊船”の場合、したたか酔ってくると「うちの船長さんと航海士さんが……」から始まって、2人を「褒めちぎる」ので何も起きない。


 準男爵が2杯目を所望すると、グラスが2つ出てきた。片方はご注文のポートワインだが、もう片方は……水だ。首をかしげる準男爵の鼻先に、店長が小さい紙袋をつきつける。


「なんだ?」

「ラムを1瓶じゃ飽き足らず、ポートワインも2杯目だからな。生前のあんたならちょっとした二日酔いで済んだかもしれないがね、”入れ物”が酒豪でもなんでもないお嬢さんだってことをお忘れなく」

「おおいけねえ、忘れてた。じゃあ酒はこれでやめにしよう。で、この包みと水はなんだ?」

「二日酔いの予防薬。2回分入ってるから1回は今服んじゃって。二日酔いの症状が出た後も効くってことなんで、残りは出たら明日服んで。さ、まずは1回目。服んだ服んだ」

「至れり尽くせりだな。赤字が出るぞ」

「準男爵じゃなくて、幽霊船の心配してんの。それにこいつは某闇医者の新作だから、実験協力ということでタダでもらった」

「……まともな薬なんだろうな」

「2人に試させたけど評判は上々だ」

「仕様が無えなぁ。実験に協力しよう」


 店長から紙袋をひったくるなり、準男爵は小分けの包みを出して開け、中の粉末を口に放り込み、グラスの水を一息で飲んだ。

 ははん、と笑って言うことには、


「薬鳳院のか。最初から言えよ、あそこの薬なら俺だって渋らず服むぜ。ちゃんと効くし不味くない」

「でも、あそこの薬ってすごい色だよな」


 ぺろりと出した準男爵の舌は、真っ青になっていた。店長と錆猫がげらげら笑う。彼らの夜はもう少し、終わるのに時間がかかりそうだ。


 ***


 翌朝、幽霊船本人はちゃんと自分のベッドで目を覚ましたことに安心し、二日酔いが軽いめまいと頭痛に収まっていることを感謝したが、口の中が真っ青なのに気づいて準男爵を問い詰めることになる。

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