楽園通り夜空亭

一夜目 異国から来た灯台

 夜空亭はその名に反して、この辺の酒場では開くのが早いほうだ。当然ながら早い時間は客が少ない。少ないどころか、いないときがほとんどだ。店長もやる気がない。ひどいときには客が来るまでソファ席で寝ていたりする。

 しかし珍しいこともあるもので、今日は開店直後に一見さんがふらりと入ってきた。重そうな荷物を持った客は店内をひとしきり見回すと、ずり下がった眼鏡を中指で押し上げて店長を見据えた。


「こちらのお店では酒精のない飲み物も出していると伺ったのですが、なにかありますでしょうか」

「……茶が何種類か出せるよ。珈琲もある」

「では、お勧めのお茶を一杯ください」


 言うが早いかその客は手近なテーブル席に腰を下ろし、荷物の中身をそこへ広げた。ごつい本が2冊。帳面とペン。本には何枚も、色とりどりの栞が挟まっている。酒場には似合わない道具ばかりだ。

 店長が湯気の立つ湯呑を持って行ったときには本が開かれ、客の右手はペンを持ち、左手は人差し指でこめかみをおさえていた。眉間には深いしわが刻まれ、彼の苦悩をうかがわせる。

 声をかけるのもはばかられる雰囲気だが、この程度ではばかっていては酒場の店長は務まらない。


「お待ちどうさま」

「有難うございます。おや」


 客の渋面が緩んだ。

 それもそうだろう。湯呑を置いている酒場は珍しい。そしてこの客は、おそらく湯呑と故郷を同じくするはずだ。


「こちらに来てからは初めて見ました。懐かしいです」

「中身も懐かしいといいんだけどね」

「香りだけでもわかります。流通していたとは知らなかった」

「この街にはあっちこっちから変わったものが流れてくるからね。ちなみにその茶は裏通りの茶屋で売ってるよ。漢字だか梵字だかの看板が出てるところ」

「明日買いに行きます」


 さっきまでの難しい顔はどこへやら、少年のような瞳で客は立ち上る湯気を見ている。深く息をしているところから、香りを堪能していると知れた。


「しかし……お勉強するならもっと静かなところがいいんじゃないのかい。もうちょっとしたら、このへんは騒がしくてかなわないぜ」

「それが目当てなのです。少々早すぎたようですが」

「……まるで意味が分からないぞ」


 聞き出したところによれば、どうもこの客は騒がしいところのほうが思索がはかどるたちとのことだ。故にお上品なコーヒーハウスでは喧噪の度合いが足らず、かといって酒場に入って酒を飲まないのもなんだか申し訳ないしと困っていたところで、この店の噂を耳にしてやってきたらしい。


「なのでお邪魔でなければこのテーブルを、しばらくお貸しいただきたく。勿論、席代分に注文は致しますし混んできましたら辞去いたします」

「うちはそう混むような店でもないし、構わないよ。ただし妙な客が多いからね、そこだけは覚悟してもらおうか」

「酒場で研究する異国の学者より妙な客が?」

「うーん……何人かいる」

「ぜひお会いしてみたいです」

「お客さん、変わってるね」

「よく言われます」


 そのやりとりのうちに、いつのまにやら自分がこの客を気に入っていることに店長は気が付いた。それは相手も同様らしいし、このへんで酒以外の飲み物を出す酒場はないとは言わないが非常に少ない。きっと彼は、これからも通ってくれるだろう。


「なあお客さん、名前を聞いてもいいかい。おれは”夜空”で通ってる。本名はダメだ。この辺は悪い魔法使いがぞろぞろいるからな。

 でも学者先生となると語り名はないか……なんでもいいんだ。渾名でも、親戚の名前でも、なんなら実家で飼ってた犬の名前なんかでもいい。なにか本名以外で、あんたが呼ばれてもいいと思う名前はないかい」


 客は少し考えた。考えて、ぽつんと言った。


「……灯台」

「”灯台”?」

「昔、ある教え子が、そう言ってくれたことがあるのです。わたしが、灯台だと」

「ほほお。いいんじゃないかね。”夜空”と”灯台”で、仲良くなれそうだ」

「海と船の方がいると尚良さそうですね」

「船ならいるよ。うちに通うならそのうち会えるだろうさ……もっとも”幽霊船”だから好みは分かれそうだが」

「興味深いです」


 学者――”灯台”は、かすかな笑みを浮かべると、分厚い本を閉じて帳面を仕舞い込んだ。


「エールを1杯いただけますでしょうか」

「お仕事は終わりかい?」

「はい。今日はもう休業します」


 そうして今度は、とびっきりの笑顔を作った。

 つられて店長もニッと笑う。あの仏頂面から、こんな顔をされちゃあ敵わない。昨日入ったいいやつを出してやろうと、店長はカウンターの中に戻った。

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