没話。

猫田芳仁

薄野オカルティカ

序章

 香嶋嶺かしまれいは小説家になりたかった。

 自覚したのはいつからだろう。中学生の頃にはもう、これがブンガクってやつだと偉そうに、なにがしかの小説もどきを書いていたような気がする。ただしこれは「書き始めた」頃の記憶であり、「なりたくなった」のは書き始めるより前、図書室の蔵書を、純粋に楽しみのために頬張っていた小学生の時。児童書にだって面白い本はたくさんある。恋も冒険も、本棚に目白押しだった。ある日、その本たちに「著者」がいることに気づく。

 始まりだった。

 誰かが書けるという事は、自分にも書けるのかもしれない。

 暗い場所に明かりが――それも苛烈な炎が、灯ったようだった。

 初めはお約束通り、自由帳に書いてみてはやっぱりこれじゃないと消しゴムで消し、時にはページを破りして、今思えば陳腐な、だが当時にしてみれば最高の物語を綴っていた。やがて家族の意向で家にやってきたパソコンでキーの打ち方を覚え、執筆以外の意味でもかぶりつきだった思春期。携帯電話やスマートフォンで小説を書く人がいるのは知っていたけれど、嶺はパソコンを使い続けた。使いやすいし、慣れていたし、愛着もあった。

 やがて小説専門のSNS、というものも登場しはじめた。存在を知り喜び勇んで書けども書けども、閲覧数の伸びは絶望的で、上位ランカーのそれが冗談みたいに見えた。その現実を知って尚、寝る間を惜しんでぱちぱち打った。できたそばから公開したが、結局評価やコメントはついて一つ二つがいいところ。それでも書くのをやめなかった。恥ずかしながら今もたまには書いている。

 そんな思い出をこねくり回しながら――今夜も嶺はキーを叩く。稼働音のやかましさで買い替えを悲痛に訴える、くそったれな愛機のキーを、叩く。叩く。

 でも。

 大人になった香嶋嶺は、小説家なんかじゃない。

 単発なおかつ単価の低い、どでもよさげな仕事をどこからでも受け、わずかばかりの報酬をもらい、次の仕事はもらえないこともしばしばな、木っ端ライターだ。

 なんて言ったら、ライターの方に怒られてしまうだろう。

 そもそも嶺はライターという肩書に食らいついていたいからモノカキ仕事をやっているようなものだ。文章での収入は可愛げのある程度、お小遣い。それじゃあ暮らしが立たないので、普段はチェーン店の居酒屋で働いている。仕事はきつくて給与も安いが、深夜手当がつくので週四出勤のシフトでも何とか食っていける。週五にするとただでさえ限界に近い睡眠時間がゼロに近づく。資料を探して読んで、文章にするのは想像以上に時間がかかる。

 いっそモノカキ仕事をすっぱりやめて、その分を寝る時間にあてて、週五のシフトになってしまおうか。嶺は時々そう考える。もっと大それたこともごくまれに考える。嶺はまだ若い。充分に。勉強し直すなりなんなりして、固い仕事に転職することだって不可能ではない。可能な話だ。

 だけれど嶺はそれをしない。

 するには疲れ切っていた。

 働きながら職探しをするのは大変だと聞く。それはそうだろうと嶺は思う。嶺の想像の中で、それは恐ろしいくらいの苦役だった。まず条件に合う就職先を探して、履歴書、職務経歴書を紙なりメールなりで送って、反応を待つ。噂によれば書類作りも傾向と対策をおさえた精緻な作品を用意する必要があるらしい。転職サイトを使う場合はこれに加えて、スカウトメールが来ても来なくても鬱陶しさや自己卑下に脳内市中引き回しの刑に処される。これだけだって冗談じゃないのに、通ったら通ったで、さあ、面接だ。きみは幸い平日に休みの入る職種ではあるのだが、そうでない場合、転職希望者っていったいどうやって、希望の会社と面接をしているものなのだろう? きみはそれを知らない。知る必要などない。

 嶺は、転職活動なんてしない。

 新しい世界なんていらないんだと、思いたがっている。

 居酒屋で最低限の生活費を。ライター業で最底辺の娯楽費を。

 それでいいじゃないか。

 惰性でなされる生産。システマチックな生活。五〇〇ミリリットル缶一つぶんの悦楽。缶酎ハイを度数と安さでしか選ばなくなったのはいつからだったろう。いとしいサッポロクラシックなど高嶺の華で、よく知らないメーカーの、税込み一二五円のストロングを呑むというよりキめて、眠るというよりシャットダウン。万一何かいいことがあって、お祝いのときにはみんなだいすきヱビスを、不相応なスーパーのマカロニサラダで呑むのだ。 この暮らしがそう長く続かない、続けられないということくらい、嶺もわかっている。痛いくらいに。

 だけれど華やかな未来予想図なんてもう枯れてしまったから、今はただ、破滅に転がり落ちる速度を緩めることに腐心する。

 でも、それでも。いや、だからこそ。

 きみは眠い目をこすりこすり、綴ることを、やめない。

 ぴろりん。

 聞き慣れた電子音。もはや自動書記の動作で、メールを開く嶺。

 眠気で半分、下がった瞼。その下で震える眼球。焦点を無理矢理合わせて、内容を確認する。良かった、督促ではない。新しい依頼のようだ。最近は、自分から売り込まなくっても名指しで依頼をしてくれるところがごくごくまれにある。便利屋、くらいの扱いなのだろうとはわかっているが、それでもありがたい。要望に応えれば、ちゃんとお金がもらえるのだから。

 今回の記事のテーマは怪談らしかった。「新たな都市伝説」とある。この寒空に季節外れもいいところだ。怖い話は夏にやるものだって相場が決まっているじゃないか。嶺は何とも言えない気分になったが、すぐに雑学を思い出して気を取り直す。いいや、本場のイギリスかどこかでは、真冬、暖炉の前でするものだっんじゃないっけか。そんなのすぐに忘れて、要綱を確認する作業に移る。内容は半分も入ってこないが、また明日電車の中で読み返せばいい。

 表題に「新たな」とつくだけあって、最近噂の怖い話、という触れ込みらしい。これでは赤マントとか、ベッドの下の男は使えない。また新しく、探り直す必要がありそうだ。既存のありふれたコワイハナシには造詣が深い嶺だからこそ、いささかしんどいものがある。とりあえずみんなの友達であろう検索エンジンにあらん限りのキーワードを打ち込んで、そのあとは怖い話好きの知り合いに乏しい資産で酒の一杯も呑ませつつ話を聞き出そう。方針はこういうふうに決まった。そんなに都合よく怖い話好きの知り合いがいるものかとのご指摘はごもっともだが、いるのだから仕方がない。嶺がオカルト系に強いライターとして活動を始めたのは昨日今日のことではないのだ。この狭い街にも、その手のコネくらいなら多少、ある。

 物事を考えるのはそこが限界だった。嶺は油の切れた機械のようにがたぴしと動き出し、転げ落ちるようにして万年床に吸い込まれ、そのまま動かなくなる。やがて静かな寝息が狭い部屋を満たしていく。

 パソコンのディスプレイが、暫くの間部屋を照らしていた。



―――薄野オカルティカ

 タイトルの通り「すすきの」、つまり北海道の繁華街を舞台にしたドタバタオカルトアクションになる予定だった。主人公こと木っ端ライターカシマくん、ベテラン退魔師コトリさん、オリジナル都市伝説「縁切り鋏」が原稿用紙狭しと大暴れする予定だった。本当だ。信じてくれ。

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