R-2

 敦貴が大学を卒業してからおよそ二年後、龍次はついに三十歳になっていた。

 友人の多くは恋人がいたり結婚していたり、はたまた子供がいたり。そんな状況だが変わらず龍次は敦貴に好意を向けており、故に独り身であった。

 その敦貴とは昔のようにとはいかずとも交友は続けており、平穏で落ち着いた日々を過ごしていた。


 その年の春、とある日の午後。龍次は、敦貴より頼みがあると言われ、久々に顔を合わせることになった。メッセージだけでもよかったが、久しぶりに会って話したいと向こうに言われては断る理由もない。久々の再会に、龍次は無表情ながら浮かれた気持ちで職場を出て、待ち合わせの場所に向かう。

 とあるチェーン系の喫茶店。その片隅のとある一席。仕事帰りの夕方に店を訪れた龍次は、同じく仕事帰りらしき敦貴の向かいに腰を下ろした。


「久しぶりですね」

「そうだな」


 二十四歳になり立派になった敦貴の姿に安心し、メニュー表を開く。腹も空く仕事終わり。軽食が並ぶメニューの中でも少し重めの料理とコーヒーを頼んだ。敦貴は既に注文を済ませているらしく、先に到着したホットコーヒーを飲んでいた。料理を待つ間、世間話もそこそこに本題に入る。

 敦貴は、少し眉を下げ前置きをした後、意を決したように口を開いた。


「貴方にこんなことを言うのはどうなのかと思いますが……僕、今度結婚することになりまして」

「…………そ、そうか。それは、おめでとう」


 敦貴からの報告に、頭を殴られたとも胸を刺されたともいえるような感覚になる。彼に恋人がいることは知っている。綺麗な長い髪の美しい女性で、しっかり者で、敦貴より何歳か年上だ。龍次も良き人であると、彼女となら敦貴も幸せになれるのではと感じていた相手だ。好意を向ける相手が幸せになるのは望んでいたこと。それなのに、結婚報告が衝撃的過ぎて素直に喜べない感覚になる。

 だが、それは自分勝手すぎる気持ちであると理解しているため、龍次はその気持ちを奥底に叩きつけて笑みを浮かべる。


「おめでとう、お前が幸せになるのは、僕も嬉しい、本当に、おめでとう」

「ありがとうございます。……でもその、ふざけるなとか、思わないんですか。振った相手に、こんな報告してるんですよ」


 敦貴が声を潜めて口にした直後、隣の席の女性がちらりとこちらを見た。やはりこんなところでその手の話はすべきではないのだろう。場所を考えろとたしなめた後、その言葉を否定した。


「僕は振られた覚えはないがな。……それに、お前が幸せになるのは、僕自身が望んでいたことだ。自分の事のように……嬉しい」


 龍次は笑みを浮かべて気持ちを吐露する。だが、敦貴はそれを信じていないように見えた。すがめた瞳が、疑惑を抱いているように見える。しかし敦貴は疑いの気持ちを口には出さず、表情を改め話を進める。


「それで、ですね。お願いしたことがありまして」

「あぁ」

「結婚式の手伝いとか頼みたくて……あと、先輩として、披露宴で喋ってもらえないかなと」

「は?」


 とても言いづらそうに口にした彼の言葉に、押し込めていた感情に僅かな怒りが混ざりそうになる。何故かは分からないが、ただ、無性に文句を言いたくなって思わず威圧するような声が溢れたが、慌ててそれを引っ込める。

 ちょうど二人の料理が運ばれテーブルに置かれたこともあって、仕切り直しにコーヒーを口にし、フォークでカルボナーラを少し巻き取り、それを食べた。なかなか美味なのはいいが、さっきの敦貴の頼みが頭から離れないし、なんと返答していいものが妙に悩む。

――だって、敦貴は、僕を振ったような感覚でいるんだろう? 振った相手って式に呼ぶのも悩むところじゃないか? なのに、そんなこと頼むのか……? それとも同性だからか?

 実際に振ったかどうかはともかく複雑な心持になった龍次は、ついつい黙り込む。押し込めていた感情はやや落ち着いてきた。それに、こういったことを頼まれるのは、頼られ慕われていることの証左にほかならない。

 そう考えた龍次だったが、思考する間ずっと沈黙していたために、敦貴には怒っているように見えたのだろう。恐る恐る敦貴は問う。


「あの、やっぱり、不快でした?」

「あ、いや、別に怒ってはいない。ただ、その……驚いたのと、僕でいいのかと」


 慌てて否定した龍次は、複雑な感情は抑えて質問を返す。敦貴の為にスピーチをしてくれそうな先輩なんて他にも居そうなものだという疑問によるものだ。

 ぎこちなく問うと、敦貴はナイフで切った肉を口に運び、少し考える素振りを見せた後、飲み下し口を開く。


「確かに頼めばやってくれる人もいるでしょう。でも、僕の中で先輩といえば貴方ですから」

「……そうか」


 そう言われてしまえば、単純な龍次は、負の感情なんかなかったかの如く内心喜び、受け入れてしまうのだ。

 帰りには、スピーチで何を話そうと上機嫌で考えてしまうほどには。



 それから式や披露宴の準備は着々と進み、龍次も多々手伝った。敦貴の妻となる女性に対する嫉妬に似た気持ちは少なからずあったが、二人が幸せそうにしているのは見ていて気分が良かった。

 余談ではあるが、結婚の際に話し合った結果、敦貴が苗字を変えることにしたらしい。結婚したら彼は須崎敦貴から出原イデハラ敦貴になるらしい。少し驚いたがそういうこともあるだろうと納得した。本人は「うちの苗字は姉が継いでくれますから」「それに、出原敦貴のほうが語呂が良くないですか?」とにこやかに話していた。


 当日、美しく立派な式場にて、式や披露宴はつつがなく行われた。

 端正な新郎と可愛らしい新婦を誰もが祝福した。龍次も心の底から祝福し、敦貴が幸せを手にしたことを喜び、彼の幸せのために尽力できたことが誇らしかった。敦貴に頼まれたスピーチもやり遂げ、相応の感謝と祝福を伝えられたと思う。

 その筈なのに、なんだか悲しくて仕方ない。なにかを失ったように悲しくて、胸に大きな穴が開いたようで、寂しい感覚になる。

 式の翌日、龍次は一人で生活するアパートのリビングで、何本目かの煙草を片手に呆然と座り込んでいた。立派な式、美しく着飾った新郎新婦、美味しい食事等々。どれをとっても文句はなくて、よい式だったと思える。

 それなのに、気分が重い。なにもしたくないし、昨日のことも思い出したくないような気持ちにもなる。

 煙草を灰皿の縁に置いて、こてん、と横に寝転がった。この感情は何なんだろうと暫く考える。天井に向けてのぼっていく紫煙を眺めながら、ぐちゃぐちゃになった頭で考えていたら、自然とつぅ、と涙が頬を伝った。それに気づいたが、拭う気もなく流れるままに任せた。

 龍次の胸の内からは、今になって悲しみが溢れ出した。自分にもやはり敦貴と深い仲になりたいという気持ちが淡いながらもあったのか、それとは関係なく、結婚相手に対する嫉妬なのか。それとも、単に敦貴が遠くなっていくのが悲しいだけなのか。純真な祝福と喜びだけでなく、嫉妬のような感情も確かにあるため、判別出来ずに厄介だ。

――なにを、泣いているんだ僕は。振られた女でもあるまいし。

 自分の好意は、好きなアーティストを応援しているものに近い筈だ。恋人としての場所なんて求めていないし、身体的接触なんかも求めていない。なのに、こうも敦貴の幸せを直視できないのは何故だろうか。こんなにもぐちゃぐちゃで嫌な気持ちが溢れ出るのは、何故だろうか。

 重いものを抱えたまま悩みに悩んだ龍次は、気持ちが落ち着くまで、ただ静かに泣いていた。


 それから暫く経ち、泣くだけ泣いて自分の悲しみを全て流しきって冷静になった龍次は、敦貴から距離を置くことを選んだ。

 彼の幸せを願いつつも、妻といる姿を見るのは辛い。彼の幸せは龍次自身望んでいたことなのに、そんな気持ちになるなら視界に入れない方がいい。今後彼等夫婦に子供なんてできたらと思うと尚更だ。好きな人の幸せを喜べなくなるのは、嫌だ。

――昔の自分と、大違いだな。

 愚かな自分を嘲笑いながら、龍次は着々と準備を進めあっという間に全ての予定を決めた。

 実家に帰省した際に引越しのことを伝えたら、両親や兄弟には驚かれ、母には何故相談しなかったのかと詰め寄られた。しかし三十歳にもなった男が引っ越すのにわざわざをしなくてはいけないのか? その疑問を口にしたら母に怒られ多少揉めたが、父や兄が母をなだめてくれたので良しとする。弟は困ったように見ているだけだった。

 それから、もちろん敦貴にも伝えた。メッセージアプリで伝えた時、かなり動揺した文が返ってきて、なんだか少し笑ってしまった。


 そして季節は巡り、ある年の冬。寒がりの龍次には、冷たい空気が特に身に染みる。白い息を吐きながら、龍次は空っぽになったアパートの一室を後にした。

 次の在住予定地はもっと都会だ。今までいた街は、都会とも田舎とも断言しづらい中途半端なところだったから、慣れるまで大変そうだが、でも、これでいい。

 地元の駅から新幹線が通っている駅まで付き添い、見送りにきてくれた敦貴は、今にも泣き出しそうな顔つきで立っている。


「……そんな顔するな。今生の別れでもないのに」

「……すみません」

「また、落ち着いたら連絡する。その時にはお前のことと、奥さんの話なんかも聞かせてくれ」

「…………いいんですか、そんな話して」

「別にいい。言ってるだろ、僕は、お前が幸せになってくれることを望んでいるんだから。お前が幸せな話を聞くのは悪くない。好きなアイドルの結婚報告で激怒するようなタイプとは違うし、もしそうならとっくに怒ってるさ」

「そ、そう、ですね」


 喧騒の中、改札の少し手前。往来の邪魔にならぬ場所で、龍次が呆れたように言うと敦貴もつられたように笑った。

 ふと時間を確認すると、自分が乗る新幹線が到着する十分ほど前の時刻になっていた。少し早い気もするがそろそろ行こうと考えて、改めて別れを告げたその時。その言葉に覆い被さるように、敦貴が力強く龍次を呼んだ。


「龍次さん!」

「な、なんだ、敦――」

「僕、多分、龍次さんのこと好きでした」

「――は」


 突然の告白に耳を疑い、そのまま硬直する。だが、龍次の言葉を待つよりも先に、敦貴は柔らかい笑みを浮かべて、続ける。


「でも、今は違う。今の僕が好きなのは、妻です」

「…………そうじゃなかったら今ここでぶん殴ってる」

「でしょうね」


 敦貴の言葉で、長い硬直から解放された龍次が真剣味を帯びた表情で返すと、彼は顔を綻ばせ軽い調子で口にした。

 呆れたように息を吐いた龍次は、今度こそ、別れを告げる。


「じゃあな、敦貴。奥さんと仲良くな」

「えぇ、ありがとうございます龍次さん。お元気で」


 笑顔で見送る彼に手を振って、龍次は改札を抜け、ホームに向かった。

 到着を待つ間、敦貴の先程の言葉を思い出した。多分、という前提があったが、好きだったと。何故今言ったのだ、今更遅いと言いたくもなったが、恐らく、龍次はどのタイミングで言われても彼の好意を受け入れなかっただろう。

――僕と付き合うなんて、普通の幸せからは程遠いからな。

 しかし、自分の気持ちと敦貴のためを思って選んだ選択が正しかったのかどうか。別の道もあったのではないか。そんなことを考えていたら、後悔が押し寄せそうで、龍次はかぶりを振って思考を切り替え、考えないことにした。

 後悔したところで、もう遅いのだから。


(完)

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