第5話 世界で一番、風下に詳しい男 西条敦
私は、口頭弁論の5日前、東京についた。
答弁書を東京地裁通常部に提出し、練馬の安い民宿に身を寄せ、私たちは作戦会議を繰り返し行った。
口頭弁論の迫る、1973年、7月21日。私は、意を決して、彼女のいる病院へと向かった。
彼女の入院している榎本記念病院は千代田区霞ヶ関、東京地裁合同庁舎の近くに建っていた。今更私は、彼女とともに戦うのかもしれない。
彼女は、数年経って、大人になっていた。痩せ気味の背格好は相変わらずで、管の生えた枝みたいな手首も相変わらずだった。
彼女は、私を見て、憎しみのたまった目でにらみつけた。そして、何も言わず、私に面会を許した。
私は頭を下げた。何度も何度も頭を下げた。彼女は、私を楽にするための言葉などくれなかった。ただ、彼女は、もう私のほうを一度も見ずに、涙を流した。
「・・・・・・ここは、西風ね」
彼女はぽつりとつぶやいた。
私は、それになんとも言えなかった。
私は、半日彼女のそばにいた。途中、彼女の親が来た。私の名前を確かめると、顔を苦しみに歪めた。そして、「ごゆっくり」と言って、病室を出た。
「裁判するんだ」
夕方になって、私は、言った。彼女は何も言わない。
「君に、新しい薬を買ってみせる。許してくれなんて言わない」
「・・・・・・」
彼女は黙っていた。
私は、そろそろ帰らねばならなかった。明日の裁判の準備をしなければならない。
「じゃあ、そろそろー」
「裁判するのね」
彼女は言った。彼女は、標準語で喋っていた。
私はうなずいた。
「あなたは」
彼女は言った。
「風の下に立つ勇気があるの?」
「え?」
彼女は私を見た。
「石岡郷は、北里山から吹き下ろす局地風の風下だった。だから、東の伊都坂よりも、病気した人が多かったのよ」
私は目を見開いた。
「君、もしかして、知ってー」
「あのごみが、もし島に捨てられなかったら、どうなったと思う?」
彼女は聞いた。
「もしこれから撤去されて、別の場所に移動するとしたら、どう思う?」
あなたは、からだを貫く有害物質の風に曝されて、何を思ったの?彼女はそう聞いたのだ。
「気をつけて」
彼女は言った。
「あなたはもう私のために戦うわけじゃないよ。分かってるでしょ」
彼女は、もう来ないでいいよ、と言った。
「・・・・・・」
私は、ひどく打ちのめされた。病室を出て、病院を出た。そして、東にそびえる裁判所を望んだ。
そういうことなのか。私は思った。
私がそうするのは、そういう意味があるのか。
第一回期日口頭弁論が始まった。
それが終わったあとも、私たちは、何度も期日に裁判所に呼び出された。思ったより、敵の用意は周到だった。提出した書証、主張書面に的確さを持って、反論される。相手はやはり、法律のプロで、いくら法学科の先輩が味方にいるとはいえ、我々の作業は難航した。
双方の言い分が出そろうまで5ヶ月かかった。争点となったのは結局、「廃棄証明書」の存在についてで、役場にはそれがあるはずだ、という向こうの主張。しかし、彼らは警察には、15年前にされた過去の不法投棄として扱うような証言をしており、矛盾していた。もしそれがあるとしても、それが健康被害を及ぼしているのだから、企業に責任がある、というのが我々の主張だった。我々の主位的要求は、土地所有権に基づく土地返還請求と、妨害排除ならびに、そして、慰謝料1億9000万であった。
やがて我々は、第一審になんとか、勝った。
しかし、それでは終わらなかった。第二審、被告側の弁護士は我々二人に対して、原告適格を問題として控訴してきた。
我々は、島民に原告として裁判に参加できる人間を求めた。しかし、彼らは、誰も我々に参加しなかった。
彼らにしてみれば、我々は良い迷惑だったのかもしれない。彼らの島のことで、勝手に喧嘩をしている大学生たち、と思っていたのであろう。
確かに、その通りだった。雲行きが怪しくなり、我々は再審理で、敗退した。
そのあと、1974年7月、菫が死んだ。
1974年の終わり頃、抗悪性腫瘍抗生物質アドリアマイシンが完成した。
同年12月、北の攻撃作戦で南ベトナムが崩れ、ベトナム戦争が終結した。
犬濡島に埋まった核廃棄物のことは、一部メディアで取り上げられたが、本人訴訟の是非を問う問題へとすり替えられ、うやむやになった。
犬濡島の魔風は、私がこの世界にいた間、風下に住む人々を曝し続けていた。
それから、16年間、私がこの世界に生きていた間、私が何をしていたのかを聞かれたら、私は困らずこう言うだろう。「すみません、何もしていません」と。
私は彼女が死んだと分かると、父の金で、逃げるように中国に留学した。栗栖啓介先輩や、菫との共通の友人との連絡を断って。
私は中国のNGO法人「菫衣草」に入った。
私は、彼らとともに、棲み分けのできていない、西アジアの紛争地域に立ち入った。
私は、彼女の言葉だけを覚えていた。
ーあなたは風の下に立つ勇気がある?
私は、誰も彼もが、等価に犠牲になっていく様を何度も見た。その信念や人生が、死に様に発揮することなどない。誰の体も生化学的機能を止め、細胞は収縮振動を弱め、我々の、人の心は紙のように易く破れて去る。我々の存在を、紙一重に保っていた外側の、脂質二重層のごとき存在の「膜」は、中をぶちまけ、外界に吐き出し、ぐちゃぐちゃになって消えるのだ。
私はただ、それを認めることだけしかできなかった。私に救われていくものなど、一つもあってはくれなかった。
1990年、私、西条敦は、やがて、宗教的紛争の継続していたヨーロッパの国の戦闘地域に立ち入り、「菫衣草」の仲間たちとともに、戦争に巻き込まれて死んだ。
最後まで、私の生物学で求めた平和は、私の人生に生きなかった。
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