第3話 ベトナムには行けない

私は、それを聞いてしばらく唖然としていた。

もう、彼女の姿を見ずに帰ろうか、そしてそのまま東京での平穏な生活に戻ろうかという考えに気持ちが傾いた。ー私は思ったより自分勝手な人間だった。

「・・・・・・会うかい」

 老人の声は優しく、しかし、厳しかった。私は、彼の問いかけに、生気を根こそぎ搾り取られるほど精神的に責め立てられた。

「・・・・・・」

「・・・・・・まあ、とりあえず、入りなさい」 彼は奥の茶室に私を通した。私がそこに行く途中、上に続く階段が見えた。たぶん、それは病床に続く階段で、そこに、菫がいるのだ。

 茶室で、老医師の説明を受けた。

 半年前体調を崩し、島に帰った。間接X線検査で調べると、彼女は消化器癌、つまり胃癌にかかっていた。

「・・・・・・この島では、珍しくない」

 彼は言った。

「この島は、がん患者が多いんだよ、昔から。たぶん、この島の水の細菌のせいじゃないかと思うんだけど」

「彼女は・・・・・・」

 私は絞り出すように言った。

「助かりませんか」

「この島では、治療は無理だよ。私は外科医じゃない。診察して、けがの治療をするくらいだから」

「私の父が医者なんです。もしかしたら、東京の偉い先生をよこせるかもしれない」

 私は言った。だが、それにも彼は首を振った。

「ここには、医療設備がない。心電計も脳波計もない。いい麻酔機もない」

「・・・・・・」

「とりあえず、東京の病院を勧めているが、ここがいい、と彼女が言うから」

 私は、考えあぐねた。彼女は癌。不治の病と言われていて、治療が困難と言われている。東京の医者だって、どれだけ偉くたって手が出ないこともあった。

「・・・・・・どうしてもというなら」

 彼は言った。

「手段がないこともない」

「どうするんですか」

「あと数年で、抗ガン剤が完成すると聞いた。3年前イタリアの研究所で発見された抗生物質だ」

「数年も待てるんですか」

「今のところは。おそらく、彼女が自然に回復する以外の方法で、もっとも望みが高いと言える」

 そう彼は言ったが、彼の提案は、客観的に見て望みが高い、とは言えなかった。新発売の抗ガン剤を買うには、金が必要だった。予想もつかないほどの大金だ。それに抗ガン剤は、細胞を殺す薬だ。彼女の体の健康な細胞に牙を向かないとは言えない。それを知ったうえで、老人は望みが高いと言ったのだ。

「まあ、現実的ではないだろう」

 彼はため息をついて言った。

「そうですよね」

「ああ」

「・・・・・・とりあえず」

 私は決心して言った。

「彼女の顔を見ても、いいですか」

「・・・・・・いいんだね」

 老人は、しつこく私に覚悟があるか確かめた。

「はい」

 私は予感があった。

 彼の先ほど提示した方法を、私は、客観的に望みは希薄だなどと思いながら、心のそこではまだ一蹴し切れていないことを分かっていた。

 彼女の苦しみや、痛みを知れば、私の体がそれを救うために動こうとするのではないか、と私は期待をかけていたのかもしれない。

 彼女は私の行動によって、救い出されるかもしれない、と期待した。

 だが、私は何より自分勝手な人間だった。

 私は、私の期待するほど、勇敢でもなかったし、頑丈でもなかったのだった。

 私は、病床の彼女を見て、深く後悔した。

「東京から来たの?あっちゃん」

「・・・・・・」

「こんにちは。今日は、晴れ?」

 彼女はやつれていた。会わなくなってから、半年以上たつけれど、その痩せ方は病的だった。頬がこけ、手首についた二つのプラスチックの管の中を、栄養剤がぽたぽたと流れていく。 

 私は、

「曇っている」

 と言った。

「嘘」

 彼女は言葉の上では元気だった。

「だって、空には雲がでてなよ」

「僕の通ったのは、西側の山道だったから」

「西側?」

 彼女は、眉をひそめた。

「あっこは行ったらいけんと」

「え?」

「あっこはー」

 彼女は強くせき込んだ。

「島の外から来た人が言ってたろ、あっこには戦闘機が隠されとるて。有事のときには、あっこから飛び立つんよ」 

 彼女はそう言って微笑んだ。

「・・・・・・」

 病床の彼女は冗談を言えるほど、たくましかった。そのたくましさは、私をひどく小さいものに見せた。

 彼女と数十分の間、ひどく他愛もない話をした。私は、まだ彼女を愛している。それだけを何度も確かめることになった数十分だった。

 会話が済み、私は病院をでる支度を始めた。

「また、来るの?」

 彼女は私に尋ねた。

 私はうなずいた。

「おう、また来るよ」

 それは、嘘になった。でも、そのときは、本当にまた来るつもりだったのかもしれなかった。 

 次の日の朝、私は船に乗り東京に帰った。

 帰り際のフェリーから、あの西側の山は緑と茶色の迷彩シートのように見えた。

 何か、大事なものを隠すための。

  

 東京に帰ったら、彼女の病気のことがなんだか、他人事で大した問題でないように思えてしまった。私は、自分のことを最低だと分かっていた。大都市東京で、自分の立ち振る舞いに気を使う中、私は理想を捨ててしまった。

 私は、彼女を救うことを、一度はあきらめてしまったのだった。

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