第2話 菫を着た少女
私が14のときに一目惚れした女性は、戦前の女学生のようなボブヘアをしていた。その古風な出で立ちに、私は一目惚れをした。きっと、あの子は灰かぶり姫だと周りではささやかれていたほど、顔立ちは端正だったのである。
名前を菫と言った。日本列島の西側にある島から上京してきたと言う。そのため、少し方言が混じっている。
彼女は、私のことを「あっちゃん」と呼んだ。
彼女は普通の子だった。運動はそれほどうまいわけでもなく、勉強ができたわけでもない。
ただ、変わっていたのは、彼女は、毎朝決まって、私に天気を聞くのだ。
「今日は晴れかな?」
「さあ、今は曇っているけどね」
「そう」
彼女は、そう言ってまた聞く。
「風はどちらから吹いてるだらか?」
「さあ。来るとき、押し風だったから、西の方じゃないだろうか」
「そう。そうなんだ」
これは、彼女にとっての挨拶だった。天気の話が挨拶の代わりなんて、やはり普通の子だった。私の目に狂いはない。
「今日もベトナムで戦争が続いてる。新聞で北ベトナムがカンボジアを攻撃したで言ってた」
彼女は、戦争の話もよくした。世界での流血が起こるたび、悲嘆に暮れた。彼女はやはり、普通の子だった。
高校に上がった私は、彼女と交際を始めた。彼女は、高校には行かず、渋谷の商店街でアルバイトをした。慎ましい仲だった。変に馴れ馴れしくも、よそよそしくもない、律された関係だったと思える。つまり、普通の男女交際であった。
交際は順調のはずだった。
彼女は、ある日を境にめっきり私と会うことがなくなった。
私は必死に彼女との連絡を得ようとした。まさか、私が彼女に見限られたのかもしれない。愛想をつかせるようなことをしたのかもしれない。そう心配していると、郵便局から、彼女から電報を預かったというお知らせをもらった。
「私は島に帰ります。あなたに愛想を尽かしたということは断じてありません。一身上の都合より、島に帰ります」
私は、どうしたことか、と頭を抱えた。このまま彼女を追いかけるのも、何だかしつこい男だという気がして、情けない。そうこう悶々している間、私のもとによくない噂が耳に入った。
「彼女は、島の病院に入院した」
それは、八百屋の主人とたまたま仲の良かった母親から聞いた話だった。
1972年の秋。世界情勢では、パリ協定への交渉が、合意に向けて加速し始めたころだった。 ようやく決心のついた私は、10月の連休を使って、その噂の真偽を確かめるべく彼女の住む島、犬濡島へと向かった。東京から、大阪まで新幹線で行き、そこから臨時列車を何本か乗り継いで、島根の日本海側にあるフェリー乗り場まで向かった。フェリーで8時間。私は船の上があまり得意ではなかったので、空きっ腹で乗って下手して戻すことがないようにしていた。しかし、あとで、大学で聞いた話によれば、船酔いは精神的な不安やストレスが原因らしく、腹は満ちていたほうが、酔わないらしいと知ったのだが。
私は、丸1日と半日かけて、犬濡島に初上陸した。
船着き場に降りて、驚いたのはあたり一面、人の住む気配のないところだったのと、実はその船に乗っていたのが船員以外で、私一人だけだったことだった。
私は、その無人島のような島に降り立ち、早速不安になった。こんなところに病院が立つことがあるだろうか、まず人が住めるところがあるだろうか。
まず遠くに見えた山と森は大きく、その気になれば、米国のFー100などの超音速ジェット戦闘機を2、3台隠しておけるほどの大きさだった。こういう例えをしたがるのは、私の父親譲りだった。私の親たちは、紛れもなく戦争をしていたということだった。
とりあえず、私は東に向かって島の周りを海岸にそって一周することにした。しばらくして、人工の防波堤を見つけ、安心した。やはり、ここには人が永代住んでいるようだった。
ついに、人も見つけた。その人は方言がきつくて、何をしゃべっているのかほぼ分からなかったが、病院はどこかと聞くと、島西の石岡郷という村にあると答えたようだった。
私はその言葉を頼りに、今度は島の西に向かって、歩いた。石岡郷と思われる村は、すぐに見つかった。昔ながらの日本家屋が立ち並び、田圃で牛馬が田起こしし、山に沿って人工竹林がしげり、山と一体になったような島だった。
さらに診療所もすぐに見つかった。やや新しげのアスベスト建材で立てられた3階立てプレハブは、日本家屋の群に隠れるには難しかったようだった。
ここに、彼女が入院しているのだろうか、と思うと、その事実を確かめるのが怖くなりそうだった。しかし、何のためにここまではるばる来たのだ、と自分に言い聞かせ、診療所の木扉を叩き、がばっと開けた。
「福島総合診療所」
玄関の扉横に釘で打ち付けられた木の看板にはそう書かれており、中はどうもしんとしていた。
「ごめんくださいな」
私は中に一歩入って呼びかけた。奥でそれに応える声がして、安心した。
「はあい、待ってね」
中から、白髪の老人が出てきた。彼は標準語を喋った。
「やあ、どうも。どこが悪いかね。風邪?腹痛、腰痛?ーおや、あれ、どうも若いなあ。君はこの島の人?東の村の人かな、めかけぬ顔だね」
老人は首を傾げた。私は東京からやってきたのだ、と告げ、その事情を話した。すると、彼のしわしわの表情は何だか曇り始めた。
「なんだ、君は、菫の彼氏くんかね」
「ということは、彼女はここにいるんですね」
「ううん」
老人は困ったような顔をした。
「今、会わせるのはなあ、しかし、会うために来たんだろうから」
嫌な予感が頭をよぎった。こうなる予感がしていたから、私はここには来たくなかったのだ。
私は聞くしかなかった。
「・・・・・・彼女、何の病気なんです?」
老人は黙り込み、しばらくして、
「言いにくいんだが」
彼ははあ、と息を吐き出した。
「・・・・・・とても重い病気だよ」
老人は険しい顔をした。
「彼女は、今、戦争をしている」
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