第5章 普段桜の夢① 第1話 1970年の戦い

 中古で手に入れたプレハブ小屋は、冬はあたたかいが、夏は暑い。しかもこの島は東南亜細亜に近い地域にある。書き仕事をしていると、紙に手汗がにじむので気を遣いながら書かなくてはならない。

 私は、ある用事で東京から遠く離れた島に来ていた。現在はある農村に住み込ませてもらっていた。

 7月の初め、外から、田圃で鳴く牛の声がする。きゃっきゃっと遊び回る子供の声。それを聞いていると、私の頬は緩んだ。

「あっちゃん、また勉強かいね!」

 プレハブ小屋の入り口から、農作業をしていた敏夫さんが顔をのぞかせた。私は、微笑んだ。

「今日は牛の声が元気ですね」

「昨日、雨ふっとったけんね、嬉しいんだら」

「なるほど」

「そういや」

 敏夫さんは言った。

「啓介くんにさっき、会あたよ」

 私は目を見開いた。来たか!と思った。こうなれば居ても立ってもいられない。私は今書いている報告書と、判例新報をぱたんと閉じて、プレハブをでる準備をする。

「あんたらさ、何やらかす気だ?」

 敏夫は聞いた。

「加世子さんも、あんたのこと心配しとったよ。西にいく気じゃねえかて」

 啓介さんに、なんかたぶらかされとるだとか、と彼は言った。私は首を振った。

「栗栖先輩はそんな人じゃないですが」

「そうよね」

 敏夫はうなずいた。

「じゃあ、わし畑行かや。米にぶどう、7月が収穫だけん」

 東南亜細亜に近いこの島では、二期作が行われている。1970年代、減反政策の波がこの地にも押し寄せるだろうが、この島の人らは自分たちのやり方を変えないのかもしれない。

「はい、行ってらっしゃい」

 私は田園に向かう彼の後ろ姿を見送ると、頭をしん、と入れ替えた。ここからは、戦いだ。

 私は、サンダルからスニーカーに履き替えた。普段は滅多にこちらを履くことはない。島の生活には、風通しのよいサンダルが似合っているからだ。

 栗栖啓介は帝国大学の先輩であった。法学部で行政学の勉強をしている。彼は東京で、現在4回生。見た目とは裏腹に勤勉で、そして何より几帳面な男だった。この島には、一応大学のフィールドワークで来たことがあり、1ヶ月滞在したことがある。

 彼が待っているのは、島の中央にある島民会館だ。平屋造で、島の建物の中ではもっとも大きくもっとも古い。そして、島内で唯一電報の打てる場所でもある。

「やあ、来たか」

 島民会館外門の「守り神の像」の前、島の閑静な雰囲気には到底合わないヒッピースタイルに身を包んだ男が立っている。赤いサングラスをずらし、するどい双眸をのぞかせていた。人に高圧的な印象を与える天才だ、と私は彼を評価している。

「いつこっちに?」

「今朝だ」

 彼は、敦を待たずに会館の方に歩き出した。ついてこい、ということなのだろう。 

 そして、歩きながら言った。

「敦、こっからは戦いだ」

「はい」

 私は強くうなずいた。ある少女のことを思い出した。

ーあっちゃん。

「覚悟を決めろ」

 彼は言った。

「作戦会議を始める」

ー島の西には、行ったらいけん。

 私は、手を堅く握りしめた。

 

「裁判請求が通った。手筈通り、本人訴訟で行く」

 会議室の黒板の前に彼が立った。

「僕達で裁判って、本当にできるんですか」

「できると言っただろ」

 啓介は言った。

「我々の戦場は、東京中野区にある地方裁判所。地方裁判所で、土地を目的にした裁判の半分は本人訴訟だ。心配するな」

「はい」

「我々の要求を明確にしておこう」

 彼は黒板に模式図を書き始めた。

「我々は、島の西側、つまり石岡郷にそびえる山、北里山の土地から残土の撤去を求む。また、残土廃棄に伴う、精神障害、肉体的障害の慰安として、せめてもの謝罪金を求む」

「・・・・・・はい」

 謝罪金。私の目の色は変わったはずだ。彼はにやり、と笑った。

「それは、おまえに必要だと思う分の最低でも3倍に設定してある」

 彼は言った。

「何はともあれ、裁判に勝たねばならない。我々の敵は、とりあえず、ただの法人だ。原子力公社が出張ってきたなら、話は困ったことになるが」

「・・・・・・」

「ただ、向こうの理系の質問には俺は答えられない。理科はお前の領分だから、発言はお前が自由にしたらいい」

 彼は眉をひそめた。

「・・・・・・何だ?敦」

 きっと、私の気弱そうな表情が気障りだったのだろう。

「いえ。・・・・・・ほんとにうまく行くのかなって」

「てめえ、殴るぞ!」

 彼は目くじらを立てて言った。

「敦、お前が背中を見せたら終わりだ。この裁判は、本人訴訟で片がつく可能性がある。だが、それは、医療過誤とか公害とかほど手があるわけじゃない!土地の奪い合いと一緒なんだ。領地争奪戦だ。国盗りだ!」

「すいません」

「ああ!俺たちが弱気にならなければ、勝ち筋は必ずある!俺たちは誇り高き帝国大学生だ。我々の頭脳に、狂いはない!」

 彼の言葉は、そのときの私を勇気づけた。

 

 我々は一週間後の口頭弁論の、少なくとも3日前までには、東京についておかなければならなかった。明日の正午、フェリーに乗り、夜中国地方に上陸する。どこかの宿に泊まり、次の日岡山まで電車を乗り継いでいく。岡山からは新幹線に乗る。今年の3月、東京から新大阪までだった新幹線が、タイミングよく岡山まで延伸開業していたのが便利だった。そのまま、それで我々は東京まで直に向かう。

 東京で、口頭弁論を行う。民事訴訟という形になるから、書面の準備が大切だ。先々月から、書きため、推敲を繰り返したものが手元にあった。

 半年前、

「裁判官は口頭での説明をきかん」

 啓介は言った。

「聞くかも知れないが、それよりも書類を優先する。それに、裁判期間中に裁判官が異動することがあるから、形に残る答弁書にすべて主張をすべて書いておく必要がある。参考資料も、気を張ってのせる。いらんこと書いたら、それが裁判の間ずっと残るんだ」

 心しろよ、と彼は私に言った。それから、半年、本格的に清書準備に入ったのは5月の半ば、先週ようやくまとまったものができた。

 だが、それでも自信がなかった。法律初心者の私が、弁護士の人に勝てるのだろうか。

 フェリーで島を発つ前日の夜、私は心臓がばくばくして、眠れなかった。

 

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