第2話 月光ありき

 エミリアがトイレから帰ってきた。いらいらしているように見えた櫛は、嘘みたいに機嫌を直し、エミリアに本を読み聞かせている。

「え、これは何て読むの?」

「作物が育つようになりました、だってば」

 エミリアは眉をひそめた。

「もう、貸して!クシは文字が読めないから、私が読み聞かせてあげる」

「はあい」

 櫛は微笑んだ。

 しばらく時間がすぎた。二人が遊んでいるのを見るのに飽きた桜は、壁にかかっていた水彩画風の絵画を眺めていた。月のない夜を背景に、一人の人間が、竜の上に剣を突き立てている。

 おそらく、シャーロット婦人の話していた、先祖の英雄譚だろう。竜を退治し、その竜は天に昇り、月になる。そして、世界が平和になる。

「ちょっと、この話訳分かんないよ」

「あなたの理解が足りないだけよ!・・・」 

 エミリアは目を細めて桜をにらんだ。

「何見てるの」

「いや、別に」

 桜はそっぽを向いた。




「ーあ、もうこんな時間!」

 エミリアは時計を見て言った。

「そろそろ寝ないと」

「・・・そう?」

 櫛は残念そうに言った。

 エミリアは首を傾げた。

「どこで寝るつもり?」 

「え?」

「クシは、ここ」

 エミリアは自分のベッドの上を指さした。

「一緒に、寝るのよ」

「・・・」

 櫛はうれしそうに微笑んだ。エミリアは桜を見てにこりとした。

「櫛と一緒に寝れなくて残念だったね」

「はいはい・・・」

 桜は視線を反らした。

「残念残念」

「あはは、サクラ泣かないで」

 エミリアはおもしろそうに言った。

「一人で寝るの寂しくない?」

「あははは」

 櫛は大きな声で笑った。

 桜ははあ、とため息をついた。こいつらとは絡みづらいから、共演NGにしてほしい、と心底思った。

 桜には2階の空いた寝室が用意された。さすがなことに、空き部屋でも掃除がきちんと行き届いていた。

 ベッドメイクがなされた布団の上に寝ころぶと、壁にかけられた月の絵画が目に入った。

 ここにもある。桜は首を傾げた。

 救世主が竜を退治。改心したその竜は、天に昇り、人々を照らす光となった。世界に平和が訪れた。

 桜は、うっとうしくて、目を瞑った。別のことを考えることにした。

「・・・」 

 聖体。

 パンの形をした聖遺物。救世主のために用意された復活後の体は、パンでつくられると考えられていた。

 ・・・なぜパンなんだろう?昔の人はよく分からないことを思いつくものだ。そういえば、ぶどう酒は血なんだっけ。

「・・・」

 そのとき、桜の脳裏に嫌な予感がよぎった。

「ねえ、ヒクイドリさん」

「・・・むにゃ。何?」

 ポケットに入っていた赤い球体を取り出した。

「すいません、起こしました?」

「うん、今起きたとこ」

 ヒクイドリはふあふあ、とあくびをした。

「それで、何?」

「あの、今ちらっと思ったんですけど。聖体はパンなんですよね」

「うん」

「食べられるんですよね」

「うん」

「・・・もう誰か食べちゃってたりしません?」

「・・・・・・」

 ヒクイドリは一度沈黙した。

「ヒクイドリさん?」

「・・・大丈夫よ。だって、ほら、反応があったってほかの妖精も言ってたし」

「でも、胃袋の中に入ってたら?」

「・・・そうなってたら、非常にまずいけど。たぶん、大丈夫じゃない?」

 ヒクイドリは言った。

「今朝も言ったけど、あれは普通の人が食べたら、危険なのよ。だから、今頃、その人は死んでいるはず」

「・・・そうですか」

「そうよ。たぶん、大丈夫。いらないこと考えてないで早く寝なさい。明日もあるんだから」

「はい」

「おやすみ」

「おやすみなさい」 

 桜は目を瞑って、かけ布団を被った。

 もう、何も考えないことにした。

 閉じたまぶたに、月光がしみる。

 そこにエミリアと櫛の姿が浮かんだ。櫛はこんな状況だというのに、エミリアといてひどく楽しそうだ。もしかして、現実逃避だろうか。それとも、妹のように愛着が沸いたのか。

 考えをしないようにしても、雑考が脳内を渦巻く。

「・・・」

 もう、寝よう。

 すべての存在に等しく降り注ぐ星の光に照らされて、桜は眠りに落ちた。

 誰かが、自分を呼ぶような声を聞きながら。


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