第2話 少女アリア
しばらく船が進むと、船の揺れはおさまり、スピードも緩やかになった。しかし、船の上空には、相も変わらず、黒いレースカーテンのような怪物がはためいていて、時折、空洞音のようなため息をもらしていた。
「・・・」
陣聖は、マリナを見た。先ほどまで騒いでいたのが嘘のように穏やかな寝顔だ。ジャシャも、彼女の肩に首を預けてすうすう、と寝入っている。 こうして見ると、姉と弟のようだ。だが、その寝顔を愛しく思っている暇はない。
うっかり、起きた瞬間メデューサと目が合ったりしないか注意しておかないと。
「・・・」
陣聖はため息をついた。
かつて、ジャシャには、姉がいた。
名前はアリア・シャンストン。17歳で孤児院の先生を務めていた。
異世界は時間の流れがいろいろなので混乱するけれど、確か現実世界では3年前のことだった。陣聖がひょんなことから異世界を巡るようになり、最初に落とされた場所は、魔法世界の片田舎、ガルバナムタウンだった。南方に緑溢れる霊山が控えた、静かな町。そして、まだ冒険者として未熟で、控えメンバーだった陣聖は、指令を与えられることもなく、その場所で何をすべきか分からず、途方に暮れていた。
異世界に一人きり。置き去りにされた彼だが、自分の食い扶持を稼がないことには、生きてゆけなかった。
空腹に耐えきれない彼は、もうまともな思考ができなかった。
何日もたったある日、食べ物を探して、どこかの建物に迷い込んだ。その建物は、民家や宿にしては広く、庭も大きい。どこかの偉い人の家なのだと思った。一階の食堂らしき部屋の厨房には、たくさんの食べ物があった。
彼は感嘆のため息を漏らした。めがねで涙が曇るほど、食べ物を見て感激したのである。
干し肉の袋を汚く食い破り、がさごそと音を立てながら、それをほおばった。
「ちょっと!」
そのときだった。後ろに人影がたった。
「あなた、何やってるの!」
強く頬を叩かれた。口からほおばった干し肉が飛び出した。せき込んで、人影をにらんだ。
陣聖は目を見開いた。そこに立っていたのは、女だった。頬のこけ、顎のほっそりとした若い女だ。現実世界では彼女くらいの年齢では、学校に通う年頃だ。目は大きく、唇は青く、髪も痛んでぼろぼろの衣服を着ている。
「・・・ふざけないで!」
その女はまた、陣聖の頬を2度も3度も叩いた。
「・・・もう、残り少ないのに!」
女は目から涙を流して、うなだれた。
陣聖が入った建物は、金持ちの豪邸などではなく、金のない廃れた孤児院だった。
「・・・腹が、減ってたんだ」
「そんなの、みんな同じよ!」
女は陣聖をにらみつけた。
「あんたが今食べたぶんで、一人の小さい男の子が、2日は耐えられる。あなたは、その子の寿命を2日奪ったの」
「・・・・・・すまない」
そして、頭を深く下げた。
「・・・許されるわけないでしょ」
女は怒りのこもった声で言った。
「あなたに何があったのかは知らないけど、この村では、みんなが我慢してるの。その我慢を壊すようなことをしないで!」
「すまない」
「・・・頭上げて。謝らなくていいから出て行って!」
「・・・」
「・・・聞こえないの?」
女は頭を押さえて、金切り声を上げた。
「出て行ってって言ってー」
「え・・・」
そのときだった。女の声が急にか細くなり、目の前でよろめいて倒れたのだ。
「ちょっ、君!」
陣聖は、女を抱き留めた。女は長い髪を垂らして、うなだれた。
「ああ、くそ!」
陣聖は足下に転がっていた赤い果物を見つけた。
「あとで、食料は絶対に返すからー」
女は薄く目を開けて、陣聖の手をがしっとつかんだ。
「・・・だめ。大丈夫・・・早く出て行って・・・」
「・・・大丈夫じゃない。ー心配するな。俺だって、かいがいしく病人の看護をしてたころがあった。君は、典型的な栄養失調だ」
女はぱちぱちと目をしばたたいた。
陣聖は果物の皮を剥いた。
「これを剥いて、君が食えば俺は出て行く。借金をしてでも、盗んだ食料は返すから」
「・・・もういいから・・・出て行ってよ・・・」
陣聖は下唇を噛みしめた。
「・・・」
陣聖は果物を女の口に近づけた。
「口を開けて」
女は泣いて、首を振った。
「いやだ・・・」
「食わないと、死ぬぞ」
「なんで、余計なことをするの・・・?」
女はかすれた声で言った。
「食べ物を勝手に食べただけじゃない。こんなことして、また食べ物が無駄にー」
女は果物を食べることをしばらく拒み続けた。
しかし、女も人間であり、人間であるからには、食欲はあった。女はしばらくすると、空腹を抑えきれなくなり、陣聖の手にあった果物をかじった。切ない声で泣きながら、それを食った。
女はなかなか泣きやまなかった。どこかのベッドに移動して寝かせたほうがいいと思ったが、陣聖は孤児院の中をよく知らなかったし、動かして悪化したら大変だと思った。仕方ないので、井戸から水を汲んで、それを定期的に飲ませ、布団代わりに自分のコートを使った。
夜更け頃になると、ようやく彼女は眠りだした。
「・・・」
その寝顔を見て、助けて良かったと思った。
陣聖が朝起きたときには、女は目を覚ましていた。女は陣聖をするどい目でにらんだ。陣聖は、頭を下げた。
「・・・ずっと、いたのね」
「すまない」
「いえ、いい」
「本当に」
「もういいから」
女は強い口調で言った。立ち上がり、ふらりとよろめく。
「もう少し休んだほうが」
「よけいなお世話よ」
彼女は壁に右手をついて言った。
「私は、子供たちを守る義務がある。孤児の多いこの村で、この施設は希望の光なの」
「・・・」
そのとき、厨房の戸から、一人の女の子が顔を覗かせた。
「アリア先生!」
とたとた、と女のもとへ寄っていく。
「エミリアちゃん、朝早いのね」
「うん、早起きは健康のもとだから!」
「偉いわねえ」
陣聖は棚の陰に身をひそめた。誰もいなくなってから、密かに孤児院をあとにした。
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