第1章 魔法の世界 第1話 異世界転生とは


「桜、起きなさい」

 その聞きなれない声で桜は目を覚ました。目の前に赤い髪の少女が立っていた。

「夢じゃないのか」

「何寝ぼけたこと言ってるの?着いたわよ」

 桜は体をむくりと起こした。

 ヒクイドリはこれに着替えるように、と迷彩柄の服を渡した。

「これ、なんですか」

「迷彩服」

 ヒクイドリはそれだけ言った。桜は、櫛がまだ寝ているのを確認して、服を脱ぎ始める。

「これ、何の意味が」

「宇宙にでるときに着る宇宙服みたいなものよ。環境に適応するための服。いいから、さっさと着替えなさい」

「・・・はい」

「あの子は連れて行かなくていいの?」

「ええ、まだ混乱してるし、危険な目に合わせたくないし」

「紳士的ね」

 ヒクイドリは微笑んだ。

 着替えが済むと、ヒクイドリは、部屋のドアを指示した。

「指令の内容は現地に移動してから説明するわ」

 ヒクイドリは、部屋の扉をがちゃりと開けた。

 白い光が扉の向こう側から染み出てくる。開いたドアの向こうに歩みを進めながら、必ず、村崎櫛に平穏な日常を取り返すことを、真字は強く誓った。

 

 扉の向こうは、穏やかな風のにおいのする草原だった。青く透明な空に白いふわふわとした雲が漂い、まるで絵本の中にいるみたいだ。周りを囲うように、山がそびえ、どこかでぽちゃぽちゃと川が流れる音が聞こえる。遠くに、何軒かの家が見えるだけで、辺りに人工のものは見つからなかった。

「平和なところですね」

 桜は思わずそんな平凡なことを口に出した。

「そうね」

 ヒクイドリは応えた。

「大分、田舎に出たようね」

「この近くで、何かするんですか」

「ええ、妖精の仲間からここを指定されたわ」

「あの、ところで」

 桜は少し、斜め下を見て、首を傾げた。

「何で、そんな姿なんです?」

「今頃?もっと早くつっこんで欲しかった」

 ヒクイドリの声は、斜め下にぷかぷか浮かんでいる、野球ボール大の赤い球体から聞こえてきていた。

「ちなみに、あなたの姿も変わっているわよ」

「え」

 桜は自身の服装を見た。本当だった。さきほど着替えた迷彩柄の服は、RPGとかで出てきそうな修道服に変わっていた。

「うおお、何ですかこれ」

「この世界の階級の下の人たちが着る服よ」

「階級?ああ。ヒエラルキーみたいな」

「そうよ。さてー」

 ヒクイドリは咳払いした。

「今から、指令を言い渡します。あなたは、これから聖体を見つけなくてはなりません」

「聖体?何ですかそれ」

「パンよ」

 桜は耳を疑った。

「パン?小麦粉で作る?」

「そうよ」

「食べられるパン?」

「そうよ。でも、ふつうの人が食べたら危ないけどね」

「どんなパンですか?味付きですか」

「・・・・・・さあね。いちご味とかじゃなかったかしら」

 ヒクイドリの機嫌が少し悪くなったようだった。

「掘り下げなくていいから。あなたはこれから、この田舎でパンを探すのよ。それが、あなたの役割」 

「・・・・・・」

 異世界転生をしてまで、ただパンを探す話があっただろうか。あったら、絶対に読みたくない。

「さあ、幻のパン探しに、レッツゴー!」

「・・・・・・」

 ヒクイドリの雄叫びで、桜の魔法世界での冒険は始まったのであった。

 


 けたたましい目覚ましの音で、櫛はいつものように目を覚ました。寝ぼけた目で、時計を見た。時間は12時30分。大きなあくびと伸びをして、部屋の中を見渡し、目を見開いた。

「・・・・・・」

 ばっと薄紅色のカーテンを開け放し、外を見ると、頭を抱えて落胆した。

「あたし、まだ悪い夢の中だ・・・」

 外にはカバの体液みたいなピンク色の液体が満ちていて、この部屋はそれにぷかぷか浮いている。船酔いのような感覚になり、気持ち悪くなった。

「ああ、何でこんなことに」

 櫛は嘆いて、息を大きく吐いた。渋谷は火の海、ここはカバ体液の海。櫛は、元の世界に残してきてしまった人たちのことを考えた。

「ああ、花ちゃん、あたし今、異世界転生してるよ。・・・・・・ていうか、保護者も心配してるかな・・・あーあもう!」

 櫛はそのまま仰向けに倒れた。

船の中では天井を見つめると酔わないらしい。こうしていると、かちかち、と時間を刻む音だけが聞こえる。

 これはいい。なんだか、心が落ち着く。景色が変わらないからだろうか。

 もう、何も考えないようにしよう、と櫛は心に決めた。

「・・・あれ?」

 ・・・そういえば、何か大事なことを忘れているような気がする。

「・・・・・・」

 がばっと櫛は体を起こした。

「桜!」

 桜の寝ていた場所を見ると、すっかりもぬけの殻だった。

「桜、ほんとに一人で行ったんだ。ばっかじゃないの!」  

 櫛は背中に冷や汗をかいた。

「・・・桜、どっかで道に迷ってるかも。それとも、人の多いところで倒れてるんじゃ。いや、きっと、道に迷ったあげく、人の多いところで倒れているに違いない!」

 そう思うと、いても立ってもいられなくなった。櫛の目は、部屋の扉に向けられた。

「そうよね。ふつうに扉から出て行ったっぽい、多分」

 櫛はそう思って、金属製のドアノブに手をかける。

「・・・」

 いや、待てよ。櫛は、そのひんやりとした鉄の感触で思いとどまる。これ、ちゃんと桜の行った場所に出られるのだろうか。もし、行き先がランダムだったら。あたし、帰り方分かんない、という顛末になりかねない。

 櫛は目をつむった。

「・・・・・・こうなりゃ自棄だ!」

 そう意気込んで、ドアノブに手をかけた。

 桜に何かあって、あたしだけが現実に帰るなんて薄情だ。あたしは、何が何でも、あいつと一緒に日常に帰る。そう、彼女は強く誓った。

 彼女は白い光に包まれて、視界に何も見えなくなった。


 そして、数秒何も見えず、何も聞こえない時間が続いたあと、

「・・・・・・何ですか、あなたは!」

 と声がして、ざわざわ、となんだか、騒がしい場所に出た。

 え?と思って、櫛は目を見開いた。

 そこは、確かに異世界だった。強い違和感。違う空気感。気障りな圧迫感。

「うわあ、この人急に出て来たあ!」 

「超絶魔法だ!」

「・・・・・・あれ?」

 櫛は目を丸くした。手狭な部屋。目の前には、席に座る子供たち。そして、となりには、いぶかしげな目をした大人の若い女性。

 そこは、どうやら学校の中、しかも教室の中のようだった。

 櫛は、顔をひきつらせた。

「あのー」

「・・・・・・」

 教壇に立つ女性は、彼女をにらみつけた。その女性は修道服のような服を着ていて、頭には角帽をかぶっていて、やはり教師のようだった。

「これには訳がー」

「授業中ですが、何か用事でも?」

 女性は、手に長い杖を持って、彼女に構えた。櫛は、あ、と思った。ヒクイドリの言葉を思い出したのだ。

ー次の世界は、魔法のある世界。人々が魔法で生きる世界よ。

 杖。魔女。何とかポッター。

 櫛は、教師の姿を見てぞくりとした。その目は冷たく、鋭い。杖の先はこちらを向いている。

 まずい。蛙に変身させられてしまう。

「・・・・・・失礼しました!」

 櫛は脱兎のごとく、教室から出ようとする。

「待ちなさい!」

「見逃して!」

「逃がしませんよ」

 教師は杖を振り上げた。

「ヒキガエルになあれ!」

「先生、それはテンプレすぎませんか!」

 櫛は目を瞑り、ヒキガエルとして一生を終える覚悟を決めた。そのとき、

「お姉ちゃん!」

 一人の女の子が、いすから立ち上がり、こちらにとたとたと駆け寄ってきた。小学校低学年くらいで、金髪で、目の大きくて丸い女の子だ。声が少し高い。

「お姉ちゃん?」

 女教師は目を丸くして、杖を下ろした。櫛も驚いていたが、これはしめた、と思って、それに乗じようとする。

「・・・おお、妹よ?」

「ちゃんと乗れよ!」

 女の子は小声で言って櫛の頭を殴った。思ったより口が悪いと思った。

「・・・・・・本当にお姉さんなのね」

 女教師は、じとっとした目でこちらを見た。櫛は、もう黙って首を縦に振る。

「そう」

 女教師は納得してくれたらしかった。

「危なかったわ。エミリアさんところのお姉さまだったのね。これは失礼しました」

「いえいえ」

 櫛は苦笑いした。

「でも、良家の娘さんが、壁を抜けて現れたらだめよ。お下品な」

「はい、すいません」

 櫛は頭を下げた。壁を抜けて現れたら、お下品なのか。勉強になった、と櫛は思った。

「どうしたの?お迎え?」

 女教師は首を傾げた。

「いや、あの」

「今、終礼中だから。廊下で待ってて」

 櫛は、エミリアを見た。エミリアは、顎で廊下を指した。この小娘。櫛は顔をひきつらせたが、すぐに笑顔に戻す。

「分かったわ、エミリア」

 ここは年上女性としての威厳を保たねば。

 エミリアはふん、と鼻を鳴らして小声で言った。

「様をつけなさい」

「・・・・・・」

 どんな姉妹だ。櫛は、怒りのつっこみをこらえて、廊下に立って待つことにした。

「いい夏休みにしてくださいね!空とぶほうきの練習課題も忘れずにやること!」

 女教師は、子供たちに微笑みかけた。

「ーそれではみなさん、さようなら!」

「さようなら!」

 子供たちの終礼の風景を見ながら、一人思った。

 のどかじゃなあ。

 異世界転生ってこんなだっけ。

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