プロローグ 世界を終わらせる悪い奴
夜になった。18時ごろ。あたりは、薄暗くになり、人々は109の中に入り始めた。
櫛は静かに言った。
「そろそろ、暗くなってきたし、先に屋上に行こうか」
今春、新設された渋谷109の屋上は人を収容するスペースに優れていた。たぶん、そのスペース増設工事には、この花火大会を見越した意味合いもあったのだろう。屋上には、ブルーシートがしきつめられていて、座って見られるようになっていた。
櫛と桜は東京湾の方向を見て、屋上の端に座った。
「これなら、もっと海の方に移動してみたほうがいいのかもね・・・・・・」
「そうだね」
櫛はうなずいた。
「でも、祭りも、来たかったから」
桜は黙った。そんな彼に、櫛は聞いた。
「・・・・・・楽しかった?」
その質問の答えにとても意味があるかのように、彼女は彼のことを見つめた。彼も、彼女を見つめ返して、うなずいた。
「楽しかったよ」
櫛はうれしそうに微笑んだ。
「よかった。あたしばっかり楽しい思いしたら悪いなと思ってさ」
なぜか、少しあたりが涼んだような気がして、桜はシャツのそでを引っ張った。
「そんなことなかった。楽しかったよ」
「ありがとう。あのね」
櫛は桜を見ずに言った。
「あたし、絶対、桜のこと裏切らないからね」
どこかで、コルク銃の音がした。
「心配、しないでいいからね」
桜は目を見開いた。
しばらく、ふたりはじっと黙っていた。あたりが人で埋まり始め、人混みがブルーシートを覆い始める。ざわざわざわざわ、と二人の息の音もそれに紛れてしまった。
やがて、アナウンスが流れた。
「本日は、渋谷夏祭り2020にお越しいただいてありがとうございました。今日は楽しい一日になりましたでしょうか」
アナウンスの女性の声は夏の夜に優しく響いた。
「つらいことも悲しいこともありますが」
空には、雲がなく、暗幕をべたっと貼りつけたみたいに、そこのない闇が広がっている。
「明日を喜び、たのしむための勇気を持って、生きていきましょう」
それでは、と消え入りそうな声がする。
「花火大会の開幕です」
ぱーん、ばーん、と闇の中に放り投げた火の玉が、激しく散り始めた。その音は、醒めたくない夢から強引に揺り戻されるような轟音だった。
櫛は、黙り込んで、受け入れるみたいにそれを見ている。昼頃見せたような元気な姿は、夜の彼女の影になりを潜め、静かにしているようだった。
世界が終わる。
桜は、そんな気がした。
ばーん、ばーん。
「・・・・・・」
ざわざわと揺れる人混み、暗い布を貼り付けたような空、悲しげな彼女、夢を打ち砕く火花の音。
その夏の夜。
あたりは、世界が終わる雰囲気に満ちていた。
「恋文は、届かない」
海堂あきらは暗い部屋の中でつぶやいた。
あきらのいる部屋はさびた鉄格子で囲われていて、どこかの刑務所の牢獄のようだった。
「カラス」
闇の中で、鳥のような形をした黒い煙が立ち上る。それは、腐り落ちそうな目玉をゆらゆら、ぎょろぎょろと動かし、あきらを見つめる。
「始めるぞ」
「ああ」
あきらは言った。
「世界が終わる」
恋が、始まる。
「善きユイガの神ナスティカよ、魔法世界の魔獣デーモンドラゴンよ」
あきらは闇の中に潜む何者かに命令を下した。
「渋谷の街を破壊し、本世界を滅せよ」
そのとき、花火がはじける音とは違う大きな音がした。何かが爆ぜるような音。それが少し離れたところから聞こえた気がした。時間は8時ごろ。打ち上げられる花火も残り少なくなったころだった。
何かが壊れるような音がした。
「何だよ!あれ!」
その音のあと、人混みの中にいた誰かが渋谷駅の方向、何か巨大な影が現れたのに気づいた。都会の真ん中で、真っ暗な穴が開いたように、すべての街の光を飲み込んでいくような果てしなく濃い影だった。その影は揺らぎもせず、ただそこにあることだけは常に強調しているように、だんだんと存在感を増していく。
「ねえ、あれ。何?」
「え?」
人混みがざわざわし始める。彼らは異変が起こったことに気づいた。その場にいたみんなが、立ち上がり始める。
「櫛ちゃん」
桜は櫛の手を引いて立ち上がった。その影に目を凝らし、それを見極めようとする。
「あれ、何?」
櫛は怯えたような声で桜に聞いた。
「分からない」
当然、桜に分かるはずがなかった。ただ、あれは、ここにあってはまずいものだということは分かった。
異変に気がつかない東京湾の方では、花火がひゅるるるる、と上がり続ける。
そして、その赤い光が明るくはじけて、渋谷駅南口の方にたちすくむ巨大な人影を照らし尽くした。
「ロボットだ!」
子供が無邪気な声をあげた。
ロボット。そう、その人影の無機質で、黒いメタリックな表皮、そして、機械的な体躯はそう呼ばれるものだった。巨大ロボットとよばれるものに間違いはない。その黒いロボットはうつむいたまま、倒れそうで倒れない、不自然なバランスでそこにたたずんでいる。
駅の方から、悲鳴があがり始めた。
「何かのサプライズとか、イベントかもよ」
「祭りだしな」
人混みの中には、そんな楽観的な声もあったが、桜にはそれが信じられなかった。あんなものを小一時間で組立てることができるはずがない。そして、それに自分たちが気づかぬはずもない。
あれは、一瞬のうちにそこへ現れたに相違ない。あの大きな爆発音とともに、そこへ飛来したのだ。あれは、サプライズやイベントに使われるロボットなどではない。
そして、次の瞬間、桜の説と考えはたやすく立証された。
黒いロボットは隠していた風貌を上げ、そしてぎょろりと目玉を動かした。そして、その口から、何か赤い固まりを、渋谷センター街の方へ打ち出した。
砲弾が接地したと思われた瞬間、地面を揺らすほどの衝撃が起こった。
そして、人々を地面から引き剥がすのに十分なほど強い爆風が吹き上げた。人々は悲鳴をあげる。桜は櫛の肩をつかんで屋上の床に踏ん張った。櫛は驚いた顔をして声もあげられていなかった。
爆風がおさまり、ロボットはその不自然な姿勢のまま、こちらへ歩き始めた。彼が一歩進む度に、道路は割れ、水が入り、車が何台もひっくりかえった。街の電気は消え始め、彼の通った道に立っていた建物はことごとく崩壊していく。
「・・・・・・」
ロボットは、間違いなくここを通る。彼は悟った。そして、人混みを押しのけ、櫛の腕を強く引っ張って、走り出した。呆気にとられていた人だかりは、一瞬でパニックになり、桜の後を追って我先に助かろうと駆け出した。
桜はエレベーターが使えなくなっていることを見越し、フロア内に逃げ込んだ。
「ねえ、櫛ちゃん」
「な、何」
櫛は動揺していた。
「来たことあるんだよね。非常階段はどこにあるの?」
「え、えっと」
櫛も軽くパニックになっていた。
「え、と」
あたりをきょろきょろ落ち着きなく見回した。
「はやくしないと、エレベーターに向かってる人たちがこっちに来るぞ」
桜は歯ぎしりした。
今、みんなはエレベーターで降りるのがよいと思っている。だが、すぐにパニックから解放される奴が現れて、非常階段を求めてフロアにみんながなだれ込むはずだ。そうなれば、あの人混みに踏みつぶされて、もみくちゃにされる。時間切れで俺も櫛も助からない。
そのとき、フロアの電気がばん、と落ちた。櫛はひっと声をあげた。
「ねえ、桜。あのさ」
「ちょっと、静かに」
桜は遠くに、緑の電灯を見つけた。おそらく、あれが非常口だ。ほかのやつらがくる前に、逃げないと。
「急げ」
桜は自分に言い聞かせるように言い、櫛を連れて非常階段へと向かった。フロアに人が流れ紺できたようで、後ろから、悲鳴や罵声が聞こえ始める。
階段を駆け下りながら、桜は下唇を噛んだ。これで、自分たちだけは助かることができる。誰の犠牲にもならなくて済むんだ。
そう安堵した瞬間、櫛の様子がおかしいのに気づいた。彼女は彼女の手を引く桜の右手を懸命にひきはがそうとしていた。
「櫛ちゃん?」
櫛は、桜の手をふりほどいて、立ち止まった。
「何やってるの・・・・・・」
「桜、あのさ」
櫛は口を開いた。パニックは収まっていたようだったが、様子がおかしかった。桜はなだめるように彼女に言った。
「早く、逃げないとー」
「うん、そうだけど」
櫛は自らを落ち着かせるように冷静に言った。
「あの人たちは、どうするの。こっちに案内してあげないと、逃げ遅れちゃうよ」
桜は目を見開いて、首を横に振った。
「・・・・・・あの人たちは、あの人たちで何とかする。今は自分たちのことだけ考えないと生き残れないよ」
桜は櫛の手を再び取って、走りだそうとする。
「でも・・・・・・」
櫛がまた、何かを言おうとしたとき、壁の向こう側で何かのうめき声がした。まるで、悪魔の叫びのように醜悪で聞き苦しい響きだった。
階段の小窓を見ると、暗い空に、またさらに黒い色をした、巨大な生き物が旋回しているのが見えた。
まさか、と桜は思った。あれも、ここにいてはまずいものだった。
ドラゴン、と呼ばれる空想上の生き物だった。彼がその骨ばった羽を羽ばたくと、小窓を覆っていたガラスと留め具が吹き飛び、壁にぴしりとひびが入った。
櫛、と桜は声をかけた。だが、櫛は動かなかった。震えて固まっているようだった。
空を舞う彼は、その長細い暗純たる瞳をこちらに向け、口を大きく開けた。その瞬間風が起こり、壁がぴしぴしと音を立てて崩れそうになる。
「逃げよう、櫛!」
その声もむなしく、竜の口から放射された赤い飛球は二人のいた3階の階段の下の部分に被弾し、彼らの足下はがらがら、と崩れ落ちた。
そして、二人の体は宙に浮き、地上20メートルほどの高さを落下した。
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