プロローグ 祭りへ


 携帯電話のアラーム音が枕元で鳴り響いた。寝ぼけ眼をこすり、少年は起きあがった。

 8月20日、という電子文字の浮かんだ携帯の液晶画面を見て、今日が何の日で、何のために目覚ましをセットしたのかを悟る。

おととい、村崎櫛と約束したのが、今日であった。

 時間は7時30分。彼女の迎えは10時ごろ。早々に準備をしなければ。

 桜はベッドから降りて、彼女に言われたことを思い出して、ジーンズデザインのカーテンをしゃっと開け放す。ぱっと広がったレースカーテンの向こうには、銀色っぽい朝日がにじんで光っていた。なるほど。これは体によさそうだ、と思った。日課にしよう。

 朝食の支度をする。パンをトースターに放り込み、1分あたためて、それにかぶりつく。パンの耳はどうも苦手なので、周りをはいでから。ジャムもバターも面倒だから、塗らない。

 服も着替えろと言われていた。ともあれ、よそ行きのために服を用意していた訳でもないので、兄の古いシャツとジーンズを借りることにした。身長は170センチであまり変わらないし、ジーンズのゆるい腰も革のベルトを巻けば良さげになった。

 あらゆる雑事を済ませて、9時30分。時間が経つのは意外と早いものだと思った。

 たぶん、そろそろ来るだろう、と彼は予想した。桜は、彼女が10分前行動を規範にしている紳士的な女子だと知っていた。

 そして、彼女は彼の予期通り、約束の10分前にやってきた。

「やっほー」

 彼女は、白いカットソー、それに膝下までの白いプリッツスカート姿で現れた。

「やあ、元気」

「うん」

 桜はうなずいた。

「ちゃんとパジャマは脱いだよ」

「そうみたいね。それはパジャマではないけど」

 彼女はうなずいたが、顔をしかめている。

「色がダサい。上下同じ紺色にするなんてセンスがないわ」

「色のことなんて言われなかったし。君だって、上下とも白じゃないか」

 桜は眉をひそめた。

「あたしのはいいの。こういうのがはやりなんだから」

「ふうん」

「まあいいや。よし、行こう」

 彼女は、なんだか弾んだ声で言った。

「今日は、寝かせないわよ」

「はいはい」

 休みの日は普段、昼過ぎまで桜は寝ているのだった。

 普段兄弟が居を構えていたのは、東京都練馬区で、元いた八王子付近のアパートを出て、数年前に引っ越してきていた。だから、最寄りの駅は、練馬駅だった。 二人は駅へ向かい、新木場行きの西武有楽町線に乗り、小竹向原で東京メトロ副都心線へ乗り換えた。

「この列車は、元町、中華街行きです。お乗り間違いのないようにご注意ください」

 電車の中は、当然のことながらひどく混んでいて、桜はその空気の圧と熱に、むせそうになった。

 休みだからね、と櫛は言った。

「誰かと会っちゃうかもね」

「君の知り合いにね」

 桜は目を細めて言った。

「ちゃんと、誤解されないようにしないと」

「何を」

 櫛は首を傾げた。桜は、だから、と目を伏せて言った。

「恋人みたいに見える」

「・・・・・・いいじゃん別に」

 彼女はきょとんとした。

「えー、お待たせいたしましたあ」 

 電車は各駅停車しながら、ごとごとと進んでいく。

「明治神宮前、明治神宮前ー」

 そのとき、櫛の顔が険しくなった。

「どうしたの?」

「いや」

 電車の停車音がして、ドアがぱかんと開く。そして、満員電車の中、一人の男が入ってきた。灰色のローキャップに、遮光サングラスをかけ、ボーダー柄のインナーにサマージャケットを羽織った若者風な格好の男だ。

 櫛が、その男に反応して、そちらにじっと目をやる。桜は首を傾げた。

 どうしたの、と聞くと、櫛は首を小さく振った。

 見ていると、男は、満員電車の中の人混みをうまくすり抜けて、別の号車に乗り移ってしまった。

「知り合い?」

「・・・・・・分からなかったの?」

「え?」

「いや、いいわ」

 彼女は首を振った。

「何でもないよ。知り合いににてただけだから」

「ふうん」

 桜は不思議そうな顔をしたが、深くは聞かないことにした。そのうち、気にならなくなった。

「大変長らくお待たせいたしました。次は、終点渋谷、渋谷です。お乗り換えのご案内をいたしますー」

 車内アナウンスが流れ、人混みが電車のドアの前に移動し始める。二人は、ある程度人が降りるまで待つことにした。

 無事に駅のホームに降り立ち、桜は満員電車で縮んでいた肩をぐるぐると回した。櫛も手をぐっと伸ばした。

「満員電車ってのは、血行が悪くなるね」

 桜は眉をひそめて言った。それに応じて櫛は笑った。

「大丈夫?人に酔ってない?」

「さあ、ちょっと気持ち悪いけど」

「ほんと、ひきこもりは大変でしょ」

 櫛ははあ、とため息をついた。

「少しは懲りて、外に出てみることね」

「・・・・・・」

 桜は気乗りしないような表情をした。そんな彼の手をとって、ぐいっと引っ張り、櫛は歩き出す。

「ちゃんとついてこないと、渋谷に置き去りになるわよ」

「それは困る」

 桜は、おとなしく彼女のあとをついていく。

「今日は、何の祭りなの」

「えっと、毎年、渋谷盆踊りがあるでしょ。それが明日なのよ」

「ああ。毎年、マルキューの前を交通規制してやるやつね」

「そう。それに乗じて、花火大会をやろうってことになったの」

「花火があがるような手近な川があるの?」

「東京湾であげるんだって」

「見えるのかな」

「見えるようにしてるわよ。渋谷109の上から見れるって書いてあったし」

 櫛と桜は駅を出て、道玄坂を目黒方面に歩いていく。

「渋谷は人多いわね」

「祭りなら、練馬でも八王子でも、もっと人の少なそうなところでやってるけどな」

 桜はグチっぽく言った。

「そうだけど。でもやっぱり、渋谷に越したことないわ!」

 櫛はガッツポーズをした。

「渋谷って何で渋谷っていうか知ってる?」

 桜は言った。

「知らないけど」

 櫛は首を傾げた。

「何か聞いたところでどうでもいい予感がするわ」

「そう。じゃあ、やめとくよ」

 話をしながら歩いていると、テレビとかでよくみる円柱形のエレベータータワーが近づいてくる。アルミパネルで覆われた見通しのよい壁面に、よくテレビとかで見る歌手のCDの広告がでかでかと掲げられていた。手前のスクランブル交差点を行き来する人も駅中の比でもないほど多い。祭りだからだろう。赤と白のカラーコーンが並び、白バイ、パトカーが何台か青いビニールに覆われて停まっていた。バーがコーンの間にかけられ、車、バイクなどが通れないようになっている。その区域の中で、多くのテントが立てられていて、おしゃれ看板がかけられている。どうやら、屋台が並び出すらしかった。白いシャツ、ハーフパンツの男たち、エプロン姿の女性が忙しそうに準備をしているのが見えた。

「どう?わくわくしてきた?」

 櫛は桜に聞いた。

「え?」

 桜は惚けたようにそれを見ていた。

「ぼーっとして。何考えてたの?」

「え?いや」

 桜は答えた。

「渋谷109って戦後は闇市だったんだよな、とか」

「・・・・・・」

 櫛はあきれたような顔をした。

「厨二病かあんたは」

 やれやれ、と肩をすくめた。

「さあ、祭りが始まるよ」

「ゴジラもガメラも決まってこれを破壊する」

「・・・」

 

「では、渋谷夏祭り2020。開幕ですう」 

 11時前、東京テレビ局のアナウンサーの放送で、お祭りの開始が知らされた。みんなが動き出す。人の群が分散し、思い思いの場所に移動し始めた。浴衣姿の女性、その隣を歩く若い男。子供連れの家族、にこやかな老夫婦。

 そして桜の隣を歩く、村崎櫛。櫛は、人の多さに圧倒されている桜に微笑んだ。

「人がいっぱいいるね」

「・・・うん」

「桜、大丈夫?酔った?」

 櫛は桜の手をとった。

「行ける?休む?」

「うん」

 桜はくらくらしながら言った。平衡感覚が正常ではない気がしていた。あたりをくるくる人が動き回っているせいだ。東京には、こんなに人が生きているのか。

「大丈夫?」

 桜はうなずいた。

「大丈夫。今日は優しいね」

 櫛は眉をひそめた。

「何よそれ!いつも優しいでしょうが!」

「櫛」

「何よ」

「手じゃなくて、手首のさ、ここ握ってくれる」

「何、こう?」

 櫛は言われた通り、手首のつけねの少し下をぎゅっと握った。

「そう」

 桜はうなずいた。

「よし、治った!」

「何それ」

 櫛は怪訝そうな顔をした。

「体の平衡感覚を直すツボがあるんだよ、ここに」

「へええ」

 櫛は興味なさげにうなずいた。

「まあ、何でもいいや。大丈夫なら行こう」

「ああ、はい」

 桜は、主に櫛の先導で、屋台を回って歩くことになった。

「何か食べたいものある?」

 櫛は桜に聞いた。

「さっき朝ごはん食べたしな」

「どうせ食パン一枚でしょ。そいでパンの耳はいで食べたんでしょ」

 図星だったので桜は黙る。

「じゃあ、あたしが食べたいの食べるね」

 櫛はええっと、と屋台をぐるりと見回して、あるテントに興味を持ったらしかった。

「京都の漬け物」

「あれにするの?」

「うん」

 櫛はうなずいた。桜は櫛が漬け物好きであることを知っていた。

「祭りで漬け物かよって思ったわね」

 櫛はにやりと笑った。

「いや、別に。いいんじゃない。人それぞれ」

「君にもおすそわけしてあげる」

 櫛はそう言って、その屋台の方へ向かった。屋台には職人と思われる中年の男二人と若い女二人が立っている。櫛は、手慣れた様子で彼らと会話し、代金を渡して手に袋を持って戻ってきた。

「すごいよ、あの店。京都の創業200年越えの老舗漬け物屋なんだって」

「それ、何?」

「しば漬け。あと、トマト漬け」

「トマト」

「うん。柚トマト。すぐき漬けもあったけど、高かったから止めたわ」

 櫛は満足そうだった。

「桜は?」

「え?」

「桜は何か食べたいものある?そろそろ昼ご飯だしさ」

「えーっと」

 桜は首を傾げた。実は、電車代と余分に300円くらいしか持ってきていなかった。

「300円で食べれるものなら」

「何、それしか持ってきてないの?男なら女におごるくらいのお金の準備をさ」

「ごめん」

 櫛ははあ、とため息をついた。

「桜は本当にあたしがいないとだめなやつだな」

 櫛は言った。

「300円でもたぶん、焼きそばくらいなら買えるでしょ」

「なるほど」

 というわけで、二人は12時になったので、昼ごはんを食べることにした。桜は定価200円の焼きそば、櫛は、カルボナーラを買ってベンチに座った。渋谷109の玄関近くのベンチからは、たこやき、焼きそば、わたあめ、投げ輪、型抜き、射的など、屋台に並ぶ人がたくさん見えた。

「・・・・・・」

 射的の屋台の前で、カップルが2組はしゃいでいるのが見えた。コルク弾を詰めた銃で、女性が指さした景品を彼が当ててしとめようとしていた。

 ぱん、と破裂するような音がして、弾が飛び出る。

 桜はそれに被せるようなタイミングで櫛に尋ねた。

「カルボナーラ、何円だった」

「あ、うん、350円。・・・・・・残念、ちょっと足りなかったね」

 櫛は桜に向かって微笑んだ。

「別にいいよ。焼きそばもうまいし」

「換えっこしてもいいのに」

「いいよ」

 桜は首を振った。

「これは僕の買った焼きそばだし、それは櫛の買ったカルボナーラなんだから」

「相変わらず、そういうところ頑固だよね。自分のものには名前を書くタイプというかさ」

 櫛は言った。

「桜は他人との交流を避けがちだからね」

「うん」

「桜はもっと、色んな人と話したほうがいいよ。誤解されちゃうよ」

「そうかな」

 誤解されてもいい、と桜は思っていた。

 櫛は一足先にカルボナーラを平らげ、自販機で買ったジュースを飲んでいた。

「ぷはああ」

 櫛はビールでも飲むかのような飲みっぷりだった。

「君は、ギャップがすごいね」

 桜はそれを見て言った。

「どういう意味?」 

 櫛は微笑んだ。

「顔はかわいいのにってこと?」

「いや、少し違う。ぐびぐび飲み物を飲む系女子には見えないってことだよ」

「そんな汚い飲み方してたかな」

「してたよ」

 桜は微笑んだ。

「それで、次は何するの?」

「おお、乗り気だね」

 櫛は聞いた。

「たまには桜があたしを連れ回してみてもいいよ」

「それはまだ早いよ」

「そうかな」

 櫛は首を傾げた。

「まあ、それは別の機会にしようか。あ、そうだ。さっき、ちょろっと見えたんだけど、向こうにお化け屋敷があったよ。行ってみよっか。絶対怖くないけどね」

 




「人々は、今日も希望と繁栄と、ロマンを求め」

 渋谷109の屋上に小さな人影が立っていた。

「その小路を、恋文横丁と名付けた」

 彼の姿は、祭りではしゃぐ人々がふと空を仰げば見つかってしまう場所にあったが、人目を気にする様子もなく、男はゆらゆらと屋上を闊歩していた。

「これより入った奥に、小さな36の店があった」

「何をぶつぶつと。気味の悪い」

 姿の見えない誰かが男に語りかけた。

「さっきこの建物の近くを通ったとき、石碑に書いてあったんだ」

 男は言った。

「戦後の混乱、物資の不足、それに係事という主にまで背負い、彼らの足どりは重く乱れがちだった」

「ーあきら、故郷の文化に浸るのはいいが、今宵の準備は万全なのか」

 声が男、あきらに問う。

「ああ。抜かりない。ビシクルにすべて装填済みだ。妖精会議のじゃまさえなければ。渋谷は、今日、火の海だ。この世界は、あっという間に終わる」

「頼んだぞ。失敗は許されない。俺の頭脳、海堂あきらよ。俺の夢を、どうか叶えてくれ」

「カラス。いらない心配はするな」

 あきらは言った。

「彼らの恋文は、決してもう届かない」


 桜と櫛は、お化け屋敷を出たところだった。

「怖くなかったもんね」

 櫛は言った。

「びっくりしただけだから」

「うん」

 桜はうなずいて、櫛がお化け屋敷の初っ端から、白い煙のでる音に驚いていたのを思い出した。

「あわててる櫛を見たら、落ち着いてきたよ」

 櫛は憎たらしげに桜を見る。

「何よ、桜のくせに」

 抜かったわ、と言った。

「桜をちびらせるくらいに怖がらせて、笑ってやろうという当初の計画だったのに」

「当初はそういうつもりだったの?」

 桜は眉をひそめた。

「当初は」

 櫛はうなずいた。

「じゃあ、次に行くわよ」

「次」

「そう。えっと」

 櫛は射的を見てから、目を反らして、わたあめの店をみた。

「・・・・・・わたあめとか食べる?」

「お金ないよ」

「後払いでいいわ」

 櫛はそう言うと、桜の手を引いて、屋台の群れの中に再び引っ張っていく。

 わたあめの屋台は人の列も意外と少なく、待たなくてもすぐに作ってくれた。綿菓子機の中で溶かした砂糖が、糸状の固まりになり、それを割り箸ですくって、わたあめができる。

「時間が経つとすぐ固まるから、早めに食べてね」

 お店のおじさんはそう言って忠告してくれた。

わたあめには、色んな色のついた部分があり、味が違うらしかった。

 櫛はがぶっと綿飴にかぶりつき、がじっとかみちぎった。そして、あむあむと口を動かし、ん、と桜に手渡した。

「ちょっとあげる」

「え、いいよ」

「うるさい、あげるつってんの」

 桜は苦笑いしながら、綿飴にかぶりつこうとした。だが、どこをどう食べればいいか分からず、食べ方に迷う。

「綿菓子ってどう食べるの?」

「なんじゃそれ。あたしみたいにがぶっといけ」

 櫛は眉を潜めた。桜は櫛が食べたところをよけて、口先で綿をついばむようにして食べる。櫛は眉を潜めて、桜から綿菓子をひったくると、

「あんたは鳥か!」

 と言った。

 

 

 彼ら二人は、おおむね、楽しげに回っていた。型抜き、りんご飴、金魚救い。かけがえのない夏祭りの日、充実した時間を過ごしていた。

 しかしそれでも、桜はある一つのものを避けていたし、櫛もそれをやりたいとは言い出さなかった。

 彼らは、射的だけはやらなかった。エアライフルの銃口にコルクを詰め、ボルトレバーを引き、トリガーを引いて、弾で景品を撃ち落とすだけの遊び。

 忌まわしき射的の屋台を、彼らは無意識に迂回して回っていた。 

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