プロローグ デートをしよう


 カーテンで閉ざされた暗い部屋。17歳の少年はベッドの上で布団を被って眠っていた。

 そのとき、リビングの固定電話に、電話がかかった。少年は呼び出し音に目が覚め、受話器を取り上げた。

「もしもしー」

「もしもし、ジン?」

 電話の向こうから、女の声がした。ジン、とは兄のことだと少年には分かった。

「兄貴はー」

 兄貴はいません、と言おうと思ったら、

「ねえ、ニュースで見たわ。あなた、保釈されるのね」

 彼女は一方的に言った。

「許されないことかもしれないけど、私はまだあなたを愛しているわ。どの口が言うのかと思うかもしれないけど・・・」

「・・・」

「本当にごめんなさい、ごめんなさい。お願いだから、恨まないで・・・・・・」

 少年はなにも言うことができないで、電話は一方的に切られた。自分が出るべき電話ではなかったかもしれない。

 兄にかわることはできなかった。なぜなら、少年の兄は「家出」をしているからだった。

 再び寝床につこうとすると、今度は、少年の携帯が鳴った。彼はぱかっと携帯を開いて、それに応じる。電話の相手はよく知っている人物だった。

「もしもし、櫛ちゃん」

「あ!もしもし、桜?」

 電話の向こうでは、風のように快活な女の子の声がした。あたりで賑やかな人の声がして、がたごとと振動音が鳴り響いている。その音は電車の音で、彼女はたぶん、駅の地下にいるようだ。

「学校来てなかったでしょ!今日来いって言ったじゃん!」

 しかるような口調で彼女は言った。

「うん、さぼった」

「もう、1学期の最初ごろはちゃんと来れてたでしょ」

「ごめんごめん」

 桜という少年は明るく言った。しかし、その表情はそれとは裏腹に曇った表情を浮かべている。ジーンズデザインのカーテンを開けて外を見てみた。日はまだ高く、それに照らされた高い建物の影がにょきっとこちらに飛び出ていた。少年はそれを見て、しゃっと、カーテンを閉じきる。

「もう、学校終わったんだね」

「なに言ってるのよ」

 彼女はあきれたように言った。

「今日は午前中まで。終業式が終わったら解散だって教えたでしょ」

「そうだっけ」

 桜は首を傾げた。

「ふうん」

「ふうん、て。今日は渋谷駅まで買い物に行くからつきあってって言ってたのに」

「ごめん」

「まあ、いいけどね。花ちゃんたちと行くから」

「あのいつも一緒にいる友達か」

「うん。次は、桜も一緒に行こうね」

 桜はうなずいた。

「じゃあ、またあとで」

「うん、また夜ね。おばさんと行くから」

 そう言って、電話は切れた。

 桜は、ベッドの上に横になった。

 今年の春先から、たぶん兄がいなくなってから、体が重くてだるいと桜は感じていた。昔からお世話になっている医者にかかったところ、ウイルス性の不適応症候群かもしれないと検査を受けた。結果、免疫には異常はない。精神的なうつみたいなものなのかもしれない、と言われた。

 たぶん、どちらでもない、と桜は思っていた。

 リビングのテレビ台の上の置き時計を見ると、15時30分を示していた。櫛たちが来るまで、少し時間があるから、彼はまた眠りにつくことにした。


「やっほー」 

「おじゃまします」

 やがて、夜になり、櫛と彼女の母親、鳩さんがやってきた。ハトおばさん、と昔から呼んでいた。

 櫛は学校の制服でそのまま来たらしく、紺色のセーラー服に身を包んだままだった。

 彼女らが来るすぐ前に、彼は部屋の掃除を大ざっぱに済ませていたが、

「掃除機くらいしなさい」

 はとおばさんはいつも通り、機械みたいな無表情な顔で言って、ぶいいいん、と掃除機をかけ始める。

「ちょっと」

 櫛は自分の口と鼻を押さえた。

「あたし、鼻炎なんだって。ほこりたてないでよ」

「あれ」

 桜はベッドの上で首を傾げた。

「なんか一回治ったって言ってなかった」

「治ってないよ。一時的に治った気がしてただけ」

 彼女はくぐもった声でそう言った。そして、耐えきれなかったようで、へくちゅっと小さくくしゃみをした。

「そのくしゃみの仕方、耳がやられるからやめたほうがいいよ」

 と桜は言った。

「・・・・・・うるさいな」

 櫛はいらいらし始めたようで、彼をにらむ。

「それよりマスクとかないの?」

「あ、納戸にある。取ってくるよ」

「早くしてね」 

 桜が持ってきたマスクをかけて、彼女はふうっと息をついた。

「はあ、落ち着いた・・・・・・」

 落ち着いたら、櫛は桜の身だしなみが気になりだしたようで、

「桜、その服!」

「え?」

 桜は自分の服を見て、首を傾げた。

「なに」

「寝間着姿で一日中過ごすなんて、頭おかしいんじゃない」

 彼女は彼の服の胸ぐらをぐいっと引っ張った。

「いつものことだけど、あたしが来るときくらい、ちゃんとしなさい」

 桜は、軽く眉をひそめた。

「いいじゃん、服くらい」

「よくないよ、ちゃんとしろ!」

 掃除機の音がやんで、台所に回ったハトおばさんがごはんの支度を始める物音がする。それで櫛の気が逸れて、

「何か手伝おっか」

「あなた、料理できないでしょう」

 ハトおばさんの冷徹な声がする。櫛は顔をしかめた。

「できるもん、手伝いくらい」

「タマネギ切るだけでぎゃあぎゃあ騒ぐし。うるさいんですよ。目がしみる、とか鼻が痛いとか」

「え、タマネギ使うのん、じゃあいいや」

 櫛はあっさり身を引いた。

 そしてまた、桜に小言を言い始める。

「だいたいさ、カーテンは朝起きたら開けて、顔は洗って、目やについてるしほらー」

 普段桜は、村崎櫛とは長いつきあいだった。人間関係としては、幼なじみ、と呼ばれうる枠組みに当たる。

 桜にとっては、小さいころから仲がよく、一番身近で気安い相手に違いない。

「だから、聞いてるの。何ちょっと笑ってんのよ、けんか売ってんのねえ」

 桜は口元をさっと直線に戻して、首を振った。

「売ってないよ」

「売ってるだろ!」

「櫛ちゃんは、本当に気が強いな」

 櫛は顔を赤らめてまだ怒っていた。

 

 その日の夕飯はカレーだった。というより、ハトおばさんはたいていカレーと唐揚げしか作らない。栄養が偏るので、櫛が野菜などを買い足してサラダとして付け合わせるのだった。

 リビングのテーブルを囲んで、3人で手をあわせる。

「いただきます」

「いただきます」

「どうぞ」

 みんなは食べ始める。

「ねえ、あのさ、」

 櫛はスプーンを口に運びながら、桜に聞いた。

「お兄さんの行方、まだ分からない?」

 桜は顔を曇らせた。

「まだ。警察にも行ったけど、保釈されたあとのことは把握してないって」

「そう」

 櫛は心配そうに言った。

「困ったね」

「迷惑な兄貴だよ」

 桜ははっきりとそう言った。

「桜はお兄さんに対しては正直だね」

「そうかな」

 苦笑いしながら、あまり、その話はしたくない、と桜はおもっていた。

 桜は話題を変えたいという思いで、櫛に

「ショッピングはどうだったの」

 と聞いた。

「うん、楽しかったよ。渋谷に行くつもりだったんだけど、八王子でぜんぜん足りたわ」

「八王子ってどこだっけ」

「あたしの家の近く」

「ああ。ぜんぜん家行かないから忘れちゃった」

「電車の乗り方とか分かんないんじゃない」

「それはさすがに分かるけど」

「とにかく、今日はほんとに楽しかった。服とかいっぱい買っちゃったもん」

「へえ」

「そうだ、めっちゃかわいい鞄があってさ、駅の中じゃないんだけど、外の新しい雑貨屋にさ」

 櫛は、楽しそうにその話をした。どうやら、したい話だったようだった。

 ハトおばさんは無表情に心のそこから楽しそうに話す櫛と、それに応じて微笑むだけの桜、二人の会話を見ていた。

 夕食が終わると、彼女らは皿を洗って下げて、水周りを片付けて帰るようだった。

 ハトおばさんは挨拶もなく早々と外に出てしまった。

「じゃあ、帰り気をつけてね」

 桜は言った。アパートの外は暗いが、街の方を仰ぎ見ればすごい明るい。櫛の住む八王子の方は、どうだろうか。都会だから明るいだろうが、夜行性のヤンキーが溜まっているかもしれない。まあ、ハトおばさんがいるから平気だろうか。

「桜」

 櫛は部屋に戻ろうとする彼を呼び止めた。

「あのさ」

 彼女は、妙な顔をした。

「あの・・・・・・」

「どうしたの」

「明日から、夏休みだね」

「僕はもっとまえから夏休みだけど」

「体力落ちてるよきっと」

 彼女はびしっと人差し指を桜に突きつけた。

「たまには、外に出ようじゃないか!というわけで!」

「え?」

「明後日遊びに行こう?ね?」

 彼女は目を輝かせた。

「お祭りがあるの。花火もあがるのよ。どう!行かない?」

「場所による」

桜は髪をぐしゃぐしゃとかき回した。

「どこなの」

「渋谷だけど。都内だし、全然近いよね!」

「人が多くて苦手なんだけどあそこ」

 桜は、困ったような顔をした。櫛はじれったそうな表情を浮かべて、

「もう、行くったら行くんだよ。日本男児だろ!」

 と男勝りな言葉を放った。桜は、少し考えて仕方なしにうなずいた。

「・・・・・・分かったよ。櫛ちゃんが一緒だったら、まだ、ましかもしれないし」

「あなたは、もっと他人とふれあわないとね」

 櫛は真剣な顔をした。

「人が歩いているところを見て、人が街にいるところを見て。部屋に閉じこもってると、この世界に自分以外の人が生きてるなんて想像もできないっしょ?」

 櫛の言うことは、まともだった。

「こんな生活してると本当に一人になっちゃうんだからね。・・・じゃあ、また明後日、迎えに行くから。寝間着姿で出てこないでね。しっかり準備しておくこと!」

 おやすみ、と言って、彼女は出て行ってしまった。

 桜は玄関の前で、考えにふけって、しばらく立ったままだった。

 ー一人になっちゃうんだからね。

「・・・」

 一人の方が、きっといい。この世界には俺しか住んでいない方がきっとすばらしいのに。

 彼はそう、思ってしまう少年だった。

 


場所は代わりまして。

 大都会渋谷の近傍にある、その荘厳なお宮は明治神宮と呼ばれていた。関東ローム層である代々木の大地にそびえ立つ椎、樫、楠の人工林に囲われ、ある意味都会の煩さとはもっとも僻遠している神なる地。その林苑には、たくさんの人々の誠実なる祈りが漂い、霊気を以て魔をやるのである。

 そう称えられる土地に、何の信念も持たぬ男がやってきた。朝早く、まだ日の光も取り戻していない、夜と朝の、闇と光の合間、男は林をくぐって、ここに立ち寄った。おそらく、正当な道とは思えない、獣道のような道を通ったのだろう。その服にはあちこち泥や砂の汚れがあった。彼は、灰色のローハットに、少しずりあげられた遮光サングラスを身につけ、青のボーダーの入ったトップスに軽いジャケットを羽織った涼しげな格好で立っていた。

「明治天皇とその奥さんが祀られた場所なんだって」

 まあ、僕には関係ないが、とその男はつぶやいた。誰かに話しているようだった。

 やがて、誰かがそれに答えた。

「アキラ、なぜ、ここに立ち寄った」

 どす黒い声だった。底知れず、ただ黒く深い淵のような声。

「別に。ただ、ここに眠っている人はすごい人たちだ」

 アキラは言った。

「ここにいる人たちは、死んだあとも誰かの怒りや憎しみを受け続けるんだ。誰かの誠実な祈りと感謝を浴び続けるのさ」

 そうだろう、と言った。

「彼らの命は、インバウンド消費のコアとなりつつある。不信心な誰かに祈られてね」

「何の話をしている」

「いえね、別に。この国の意識の高そうな人はそんなことを言うんじゃないかな、と思っただけだ。いるだろ、最近。社会学者とか、評論家とか」

「そういったことは俺の知ったことではない。どうでもよい」

 声は言った。

「そんなことより、忘れるな。決行は、今日の夜だ」

 声は、男に迫り来るような力を以て言った。その声は、神霊、妖精、そのたぐいとするには、あまりに、グロテスクで、気味の悪い響きをしていた。

 けれど男は動じない。

「分かっている、カラス。僕たちは、どの思想も、どの文化も、何もかもを壊して歩いていこう」 

 どす黒い声で男は言い、彼はその場所から瞬時に姿を消したのだった。

「さあ、祭りが始まる・・・・・・」

 

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