2章-41話 霧の谷の里パサル
そこは渓谷と呼ぶには急すぎる谷。丸二日ほど山を登って辿り着いたのはそんな場所だった。
神が地面を割りその底に川を創った。
そういう神話がある場所なのだとクロエが教えてくれた。
巨大な岩山を二つに切り分けたように割れ目が続く岸壁の上でシンヤは辺りを見渡す。崖下は深く、水が流れているという谷底まで見通す事は出来ず、霧が深いという理由もあるが対岸すらも目視できなかった。
神の力で切り裂いたと言われても信じてしまいそうな光景にシンヤは思わず息を呑む。
「ここから降りる」
「降りるっ?!」
おもむろに口を開いたステラの言葉に驚いたシンヤが声をかぶせる。覗き見る崖下は先程と同様下の様子をうかがい知る事は出来ない。
どこまで下りるのかはわからないが、ロープがあったとしてもここから降りるのは至難の業だろう。
クライミングの経験などないシンヤにそれが出来るとは到底思えなかった。
「この岸壁にあたしらの里があるのさ」
「岸壁に……」
ステラの言葉で聖都の洞穴にあった壁の家を思い出す。壁に貼り付けるように造ってあった家と同じように、ここの岸壁にも家を作っているのだという。
それならば屍人も普通の人間もそう簡単に襲うことは出来ない。
だが、谷底まで数百メートルはありそうな崖をシンヤ達にどう降りろというのだろうか。
「それじゃあ連れてくよ」
「俺は平気だ」
「わたしも大丈夫だから、シンヤだけお願い」
数人の鳥人が近づいてきたが、リュート達が辞退するのを聞いて離れていく。連れて行くとはどういうことなのだろうか? 崖を下りる為の道具など持ってきていないのだ。
嫌な予感がシンヤの背筋を冷たくした。
「わかった。じゃあこの子はあたしが連れてくよ」
「ちょっ!!?」
鳥人達は腰の翼をはばたかせ、次々と崖を飛び降りていく、それに続いてリュートとクロエも飛び降りていく。
崖から飛び降りた二人に焦りを感じて手を伸ばし谷底を見る。クロエは浮かんでいるかのような速度でゆっくりと、リュートも岸壁を利用して問題なく降りていた。
「あとはあんただけだね。じゃあしっかり掴まってな」
「……まっ?!……無理無理無理っ! 無理だってっ」
ステラは崖から底を見ていたシンヤの脇腹を背後から抱え込み腰の翼を広げる。
ようやく何が起こるのか悟ったシンヤは抵抗するが、ステラは気にせず崖から身を投げだした。
「うわぁあああぁぁっ!!」
シンヤの叫びが谷に木霊する。
地に足がつかない不安を感じたと思った次の瞬間に全身に落下感。
まるで命綱の無いジェットコースターだ。
「うるさいよ。魔物に狙われるだろう。少し静かにしてな」
「いや、だって。おち、おちてっ……」
「落とさないから大丈夫だ」
「そうじゃなくてっ」
「ああもう。ほんとに落とそうかね」
騒がしいシンヤを抱えるステラは呆れたような声を出す。背中から抱き着かれた状態なのだから彼女の大きくも柔らかい感触を感じているのだが今のシンヤはそれどころではない。
本来のシンヤならば小さな喜びを感じる瞬間なのだが、背中に集中しようにもそれを上回る情報に対処できなかった。
ようは初めて感じる落下の恐怖に耐えられないのだ。
「ちぃっ! 騒ぐから魔物が来ちまったじゃないかっ」
「そんな事言われてもぉぉっ!」
空をはばたくステラに目を付けたのは翼竜のような魔物。カバと恐竜を足して二で割ったかのような顔面に四つの眼、鉤爪のある前足を前に突き出して、宙を飛ぶ二人に襲い掛かる。
軽く舌打ちをしたステラはシンヤに回していた右手を外し背中の短槍を手に取った。
腰の翼を制御して一直線に飛んでくる脅威から逃れ、すれ違いざまに槍の刃先を肉に通す。魔物は肩から半分に切り開かれ、そのまま谷底へと落ちて行く。
「ふう。もう騒ぐんじゃないよ」
「……。むぅぅぅぅっ!!」
急制動に内臓が揺らされたシンヤは、顔を青くし口元を抑え何度も首を縦に振る。直後その視界にもう数匹の魔物の姿が映り、抑えた手元から叫びが漏れた。
「まだいたのかいっ……」
「シャーマ」
ステラがもう一度短槍を構えるのとほぼ同時に呪文が響く。岸壁から炎の魔法がいくつも飛来して、魔物を打ち落としていく。
ほんの数秒で周囲の魔物は一掃され、魔物の気配は無くなった。
この霧の谷では今のような魔物が生息している。岸壁で生活する鳥人達にとって食料でもあるのだが、聖都を追われここに住む事を決めてから数年、何人もの鳥人が犠牲になっていた。
この里では屍人という驚異が無くとも、危険と隣合わせであることは変わらないのだ。
「へえ。あの子もやるじゃないか」
「……」
ステラが視線を岸壁へと向けると、そこには両手を前に構えているクロエの姿があった。先に里に着いた彼女がシンヤ達に気づいて援護してくれたのだ。
霧で視界の悪い中、飛び回る魔物に魔法を当てたことにステラは舌を巻いて賛辞の声を呟く。そんなステラの声も耳に入らず、下手に暴れるわけにもいかず、小脇に抱えられたままのシンヤは眼を瞑り両手を口元に当てながら、早く終われと祈っていることしか出来なかった。
「ぃだっ!?」
ゆっくりとクロエ達のいる岸壁へと飛んだステラに、地面へと放り投げられたシンヤは、痛みと地面の感触を背中に感じて瞑っていた瞼を開く。
腰を擦りながら立ち上がったシンヤは周囲を見渡す。
岸壁のくぼみ、そこに木製の家屋がいくつもあり、家の前には申し程度の足場がある。下を見下ろせば谷底は未だ見えず、いかにこの谷が深いかをシンヤに教えてくれた。
「……どんだけだよ」
「あははははっ! よくきた人間。ここが鳥人の里パサル、あたしは歓迎するよ」
顔を青くして谷底を見下ろしているシンヤに、腰に手を当てたステラは大きく笑いながら声をかけるのだった。
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