2章-36話 逃れられない現実

 口元についた血を拭いもせず、腰を曲げ、両手を垂らした状態で顔を上げている。


 シンヤの知っている屍人はそのほとんどが腐敗していて、今まで人間だと意識することは無かった。異形の魔物達と同じだと、そう意識して人間と屍人を分けていたからだ。


 人ではないと意識していたから、だからこれまで屍人に剣を振るう事に躊躇いは無かった。


 見知った相手、それも好意を抱いた相手が、敵意でも殺意でもない虚ろな目で見つめてくる姿に、恐怖とも困惑ともとれる感情がシンヤの心を支配していた。


 彼女の姿は先程までと変わらない。


 洗脳されて襲ってきたと言われた方が、シンヤには納得できたことだろう。だが、彼女の黒く染まった瞳と、口の周りにべったりとついたシンヤの血が、屍人へと変貌したことを物語っていた。


「シ、シーナ?」


「……ぅぅぅ、がぁあぁっ」


 現実を直視出来ないシンヤは名前を呼びかけるが、返ってくるのは言葉にすらなっていない唸り声。


 なぜ?


 最初に浮かんだのはこの一言。


 この聖都に来てからというもの、疑問だらけだ。説明してくれる人間がいるわけでもなく、これまで憶測と推理だけで理解しようとしてきたが、眼前の状況はさらに混迷を極めている。


 つい先ほど迄は何も問題なかったはず、背中に背負ったシーナは意識を取り戻し、未来に向けての展望を二人で話していたはずなのだ。


 それなのになぜ?


 もう一度自分に問いかける。


 彼女はマグルスによって大怪我を負ったが、それもクロエに治療してもらい。命に別状は無いと判断してもらっていた。


 死んだわけでは無いのだ……。


「シーナっ!」


 彼女の小さな口の形に噛み千切られた肩。そのじくじくとした痛みが、徐々に激痛へと変わり、抑える左手から溢れた血が下へ下へと流れ落ちていく。


 膝を着いたままのシンヤは、黒く染まったシーナの瞳を見つめて再度名前を呼ぶが、彼女は答えてくれ無い。それどころか、まるで獲物を見つけた獣のように口を半月に開いて近づいてくる。


 戸惑うシンヤは身体を動かす事もできず、近づいてくるシーナをすがるような眼で見つめることしか出来なかった。


「うぅ……あぁ…あ」


「止めてくれっ! シー、がぁぁっぁぁああぁあぁぁあっ!!」


 言葉になっていない声を垂れ流すシーナ。その血に濡れた口が眼前に迫る。シンヤは咄嗟に腕を上げ顔を庇うが、彼女は躊躇ためらいも無くそれに噛りつく。


 痛みから逃れるようにシンヤが噛まれたままの腕を振るうと、シーナの身体は体勢を崩し、数歩後ろにたたらを踏んで倒れ込む。


 ……倒れた彼女の口が何かを咀嚼しているのが見えた。


 次いで、噛まれた時よりも激しい痛みがシンヤを襲う。シーナは引き離される前にシンヤの腕の肉を噛み千切っていたのだ。


 屍人の力は常人のそれではない。


 身体が壊れるほどの力を脳が止めず、噛まれれば食い千切られてしまう。アウラの助けも仲間もいない今のシンヤが抑えつけられれば、逃げ出す術は無いのだ。


 すぐにこの場から逃げなくてはならない。


 彼女から逃げなければ殺されてしまう。


 混乱から抜け出る事が出来ないシンヤの脳に生存本能が訴えてくる。


 ふと、背に当たる壁の感触で我に返った。無意識にシンヤは後ずさりしていたのだ。


 噛み千切った肉をようやく飲み込んだシーナは身体を起こし、先ほどと同じようにゆっくりと近づいてくる。


 死。


 森の村で知人達が屍人に貪られる光景が脳裏を掠め、嫌でもシンヤに死を意識させてきた。だが、後ずさろうにも、背中はもう壁。これ以上は下がれない。


 死。


 この聖都でも死を意識したことはあったが、このままでは他でもないシーナに殺されてしまう。


 死。


 それもいいのかもしれない。


 シンヤは心のどこかでそう思った。


 力の無い自分では遠からず命を落とす。その時に誰かを巻き込んで死ぬのならば、いっそここでシーナに殺される方がいいのかもしれない。


 そう思い、近づいてくるシーナだった屍人を前に全身の力を抜く。


「あああぁぁああああぁあぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」


 絶叫。


 迫る死を目前に、諦めて目を瞑ったシンヤでは無く、苦しみだしたシーナの口から飛び出したそれは通路に反響して耳を突く。


 声を上げる彼女は、頭を抱え、髪を振り乱し、倒れ込むように地に膝をつく。


「……シン、ヤさ、ん」


「シーナっ!?」


 次いではっきりとした声が届き、驚いて顔を上げる。シンヤの眼に映った彼女の左目は、屍人と同じように黒く塗りつぶされていたが、右目には光が戻っていた。


 安堵の声を上げるシンヤだったが、シーナの顔に浮かぶ表情を見て、終わっていない事を理解する。


 蒼白の顔に苦悶の表情、理性を帯びた右目もまるで点滅するかのように白と黒がせめぎ合い、必死で何かに耐える彼女の口元は引きつっていた。


「ご……め、んな、さい。……お、ね……がい……」


「……シーナっ! 大丈夫かっ?!」 


「だ、めっ! こ、ない、で……」


 途切れ途切れで言葉を紡ぐシーナの元へ、痛む身体を起こして近づこうとするが、それを彼女は擦れた声で止める。


 明滅する右目に見つめられ、咄嗟に動きを止めるシンヤ。


 彼女は耐えるように両腕で身体を抑え、何かを伝えようと口を動かす。


「……おね、が……。……ころ、して……」


「……っっ!?」


 それは受け入れ難い嘆願だった。


 吐き気と痛みと苦しみと恐怖と絶望と後悔と……そして未来への羨望。


 彼女の内に渦巻く負への変化は、全身を蝕み魂の在り方を変異させていく。


 それは人であれば耐える事等出来るはずの無い、深く、そして黒く飲み込んでいく闇だ。自身の精神が、心が蝕まれていくのを感じながら、シーナは握り締めた想い、残った唯一の欠片だけを頼りに抗っている。


 だが、世界の理に人間が抗い続ける事は出来ない。


 苦しみながらも、それを理解しているからこそ彼女は願う。


 愛した人を殺すのでは無く、愛した人に殺されることを強く願ったのだ。


 


 未だ彼女の変異は終わっていない。


 屍人は、行き場の無くした魂を変化させ、その肉体に無理矢理押し込める事で成る。


 聖都の儀式は、魂を肉体から剥離させ、そこに留めておく事で結界に魂を吸わせる。


 では……魂の剥がされた人間はどうなってしまうのか……。


 シンヤは判断を間違えたのだ。


 結界の外に連れ出せば、術は無効化されるものだと思っていた。魂さえ削られなければ死なないのだと。


 だが、それは違った。


 魂が肉体から剥がされる事自体が死だったのだ。


 結界内で留められていた死が、止められていた時が、結界を出た事で動き出してしまった。


 シーナが屍人になる事は止められない。もう死んでいたのだから。


 儀式を受けた時、その魂を剥がされた瞬間に、彼女の生は終わってしまっていたのだ。


 身体は激しく痙攣し、自身を両腕で抱きしめている腕からは血が流れ出ている。必死で自分の変化を押さえつけている彼女の願いを聞き、それでもシンヤは整理が出来ず立ち尽くしていた。


「殺し、て……」


 もう一度。


 今度は先程より強くはっきりと声に出す。シーナの訴えかけるような瞳がシンヤを見つめる。


 出来ない。


 出来るわけがない。


 守ろうと決めた相手を、手を携えて生きていきたいと想った相手を殺せと、首を刎ねろと、そう言うのだ。


 気づかぬうちにシンヤの両目からは雫が溢れてくる。


 本当に彼女を助ける方法はないのか? 


 ……リネットは、いかに最高の治癒魔法であっても、死んだ人間を生き返らせる方法は無いのだと言っていた。


 ……ノエルも、天使の力でさえ死者は生き返らないと話してくれた。


 屍人は死者だ。


 必死でシンヤの為に抗っているシーナだが、彼女はもう死んでいるのだ。


 考えても彼女を救う方法が見つからない。


「お、ねが、い……わた、しに……あな、たを、ころさせ、ない、で……」


 せめぎ合っていた彼女の瞳の白と黒。


 それは徐々に黒が勝っていき、懇願するシーナの意識を少しづつ狩り取っていく。


 もう考える時間さえ残されていないのだ。


「……ぐぅっ」


 奥歯が砕けてしまうのではないかと思う程に噛みしめ、逃げ出したくなる気持ちを押さえつける。


 シンヤはここでシーナに殺されてもいいと、本気で思っていた。


 彼女に殺されるならそれも仕方ないと。


 震える手で腰の剣に手を添え、ゆっくりと引き抜く。


 彼女の願いは人であるうちに、シンヤの手で終わらせること。


 優先させるべきは弱くみっともないシンヤの怯えではない。シーナの決死の想いこそを優先させなければならない。


 ここで逃げ出す事は絶対にできない。


 引き抜いた剣を構え、苦しむ彼女を見据えた。


 自分の涙で霞む目を擦り、しっかりと彼女を見る。


 結界迄走ればシンヤは生き残れるだろう。屍人は結界に阻まれるのだから。


 クロエを呼んでくれば彼女が魔法で燃やしてくれる。ノエルの方へと向かえば彼が代わりに首を刎ねてくれるだろう。


 だが、それは彼女の魂が屍人へと完全に変異した後だ。


 全身に力を入れ、屍人になることを全力で拒んでいる彼女の願いを、最後の想いを無下にするわけにはいかない。


 今ここでシンヤがやらなければならないのだ。


 全身の血が引いて行き、指先の感覚が無くなっていく。


 手は震え、狙いは定まらない。


「……ご、め、、ん……さ、、い」


 もうほとんど意識が無いように見えるシーナだったが、剣を構えるシンヤをその眼に収めると、首が見えるように顔を上げる。


 彼女の右目から一筋の涙が零れ落ちた。


「……シーナ……好きだよ」


 もう一度自分の気持ちを言葉にする。


 今度こと伝わるようにはっきりと。


 剣を握る手に力を籠める。


 彼女をこれ以上苦しませない。


 そう思うと手の震えは止まっていく……。


 そして、シンヤは剣を振るった。


 ――ありがとう。愛しています。


 振り切られる刹那の間に、彼女がそう口を動かしたような気がした。 


 振り切った剣と、首から上の無い身体。


 ぼやけた視界でシンヤが映しているのはそんな光景。


 一呼吸遅れ、地面を叩く鈍い音が通路に鳴り響く……。


「ぁ、ぁあああぁぁぁあああぁあぁぁあぁぁっっっっ!」 


 止めどなく溢れる大粒の涙は頬を伝い地面に染みを作っていく。


 剣を取り落とし、膝から崩れ落ちたシンヤは、


 この日初めて人を殺めたのだった。

  

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