二章 手を伸ばす先

一節 あちらの繋がり

日の位置が低いせいか、渡り廊下に差し込む夕日が眩しい。


 体を流し、露天風呂へと進む、何処までも広がる湯船、美しく咲く蓮華の花、桟橋の道が私を導く。


「さっきまであんなに明るかったのに。」


 私のつぶやきの通り、既に日は山の裏に隠れ、雲に映る暗い血の様な赤色が、かろうじて夕方であると教えてくれる。


 先客がいた、八つの首を持つ蛇と、大柄な男が湯船につかりながら宴会を楽しんでいた。


「来たか、酒とつまみは持ってきたか。」


 私は頷き山菜の天ぷらと木の実を乗せた盆を湯船に浮かべる。辺りは闇に包まれ空には巨大な月が……、いや月では無いあの特徴的なうねうねとした模様、目の様な大赤斑、巨大な木星が妖艶に輝いていた。


「盃は持って来たな。」


 巨大な蛇がこちらを向きささやく、その余波で湯船が大きく盛り上がり、津波に飲まれる。


自然と盃を重ね一つのそれとして掲げていた、私は過去を思い出し呟く。


「父さん。」


 それは過去の思い出、夢を見るといやな気持になる。それは忘れた何かが原因なのか、今思えば捨て子であると言う事実から目を背けていたのだろう、僕の記憶は暗闇を照らす松明の列と、祝詞の声に合わせて鳴らされる笛や太鼓の音から始まった。


 妖の少年は強制的に意識を覚醒させられる。それは凍えるような寒さ、もみくちゃにされるように濁流の中を流され呼吸すらできない。けれども幸いな事に妖の少年は先ほどまで人の腹の中にいたため、水の中でどう過ごせばいいかはわきまえていた、最悪な事に妖の幼児の心は摩耗していた、妖の少年には母親の腹の中に居る時から意識があり、その耳はおおよそ人では聴き取れぬほど離れた場所の音を聞き分けた、その優れた性能が今の妖の少年を苦しめる。


 そとの言葉から知恵をはぐくませ、同時にその言葉の意味を知ってしまったのだ。

 生きたい、そんな思いが肉体を成長させ、赤子の姿から少年へと成長しもがくが、状況が変わるわけでもなく流され続ける。そんな中で、ようやく僕は何かにつかまった、それは巨大な鯉であった。


 鯉につかりどれほど経っただろうか水質の変化に気が付く。妖の少年の目に映るのは土で濁った川の水ではなく、透き通るほど美しい清流、空を蛇行する巨大な大河、いくつもの河川が空を流れ、一つの山を目指して激しく流れてゆく。そして河川が交わるごとに流れは穏やかになるどころか加速し、一点に集まる水は大地へと降り注ぎ、山の滝つぼらしき場所へと落ちる。


 口の中に広がる土の味、鼻孔につく草の汁の青臭い匂い、まだ生きているのだと、陸地に流れ着いたのだと理解し体を起こす。


「眩しい。」


生まれて間の無いというのに対してひどい扱いではないかと笑みをこぼす。どうにか近くの若木につかまり、地中深くまで根をはったそれを引き抜き杖にして歩き始める。先ほどまで家の外も暗いのだと思っていた、後で知ったのだが雨雲が夜の星空を隠していたらしい、しかしそれを知らぬ僕は外では場所によって明るさが異なるのだろうかと少しずれたことを考えながら、空に浮かぶあの光源は少しづづ動いている事に気が付く。そう言えば日が昇るなんて会話を聞いたことがある。あの温かく、じかに見れば目を焼くほどのあれがお日様という奴なのだろうか? そこまで思考したところでくしゃみを一つ。


「体を温めなくちゃいけないかな、全く僕が何をしたって言うんだ。」


 少し進めば、川の蛇行する場所、角ばった砂利の川原に出た。大きめの石、欲を言えば自分が横になれる大きさの岩を探し歩く、ここで良いだろうと日差しで温められた岩に腰を下ろし、ゆっくりと横向きに寝転がる。耳に入った水がこぼれだすのが思いのほか心地良い、妖は眠りについた。


次の瞬間には辺りは闇に包まれていた、夜だというのに僅かな星の明かりで周囲の地形を把握し、本能のままに風下から獲物を探す。草木に隠れ息を殺す。どれだけ時間が過ぎたのだろうか、口の中に暖かい血の味が広がった。


 巨大な鹿(カノシシ)であった、腹をその爪で切り裂き、内臓の中に頭を突っ込み食らいつく、内臓を守る柔らかい骨も、全体重を支える巨大で丈夫な骨も構わず強靭な牙でかみ砕き、すりつぶし、血液を生み出すそれらを血肉と共に腹に収めた。


 咆哮、それは獲物を喰らった喜びか、はたまた別の意図により発せられたはわからぬが、山々の間を響き渡った。


「ウッ、血なまぐせえ、ああやはり夢じゃなかったんだな。」


 人と言っていいのかわからぬが少年の意識が戻る。あたりに散乱する毛皮と血の跡、そして視線を下ろすと、毛むくじゃらな獣の腕、流れの穏やかな川に自分の姿を映す。それはネコ科の大型肉食獣となり果ててしまった歪な体色の大虎、それは大陸から伝わった勧善懲悪、人虎の物語で罪を犯した者の末路の様ではないか、ぼくはまだ何も出来ていないと言うのに、生まれてきたこと自体が悪事と言われているような気がして少し不快に感じた。


「酒の匂い?」


 獣になり果てた妖は、かつての記憶、儀式に使われた奇妙な液体と同じ匂いを嗅ぎあて首を持ち上げた。その酒という物を欲している。匂いの元を探り当てた妖は風を置き去りにして走り出す。


直ぐに周囲の景色が変わり、酒気がより濃い物へと変わる。それは甘いような苦いような、むせかえりまとわりつくような匂い、地面の下を流れる強い力が地上に漏れてているのがわかる。山の精気があふれかえているのだ。川の水から酒の様な匂いが漂い、草木は熟れすぎて腐り始めている。湧き水の泉や川の中に落ちた果実の酵母が天然の酒を造っていたが、妖の少年はそれに見向きもせず駆け続けた。


木々の間を抜け山の尾根に出れば、見下ろす先にあったのは強い酒気を放ちながら常に降り注ぐ雨と、火山湖のような酒をため込んだ湖、妖の少年は貪るように酒を胃の中に流し込んだ。


「あれ? 人の手だ。」


 そっと湖に自分の姿を映す。そこには真っ赤な顔の角の生えた妖が座禅のように足を組み座っている。獣姿ではない、獣のような思考もまたなりを潜め、周囲を見渡す余裕が出来た。


そして気が付く、湖の奥深くに沈む何かが自分に意識を向けていると、それは水神、河川、湖、池、泉、井戸に宿る妖精のような神格であり、竜神物事の流れを司る神、それが僕を見ているのだ。


 まさに蛇に睨まれるというのはこのことか、強大な存在との格の違いにまるでその場所に縫い付けられたかのように動けない、何より僕がその存在に意識を向けた時から僕に向けられる意識の数が増えているのだ。


降り注ぐ雨はより激しくなり、酒気を帯びた霧が周囲を覆い、湖の底から巨大な白蛇が顔を出す。それは長い年月をかけて育った樹木の何倍も太く、少し鎌首をもたげるだけで人の作る建物を容易く超えてしまう。


「うむ、変わった者が入り込んだな、どうだ我らの……、混ざりすぎているな、いや我の作った酒は?」


 僕は手で湖の酒をすくう。貪るのではなく味わうために口に含む。やはりこの酒は酵母で作れる酒精とは比べ物にならないほど強い、独特な香りで癖があるがマイルドな物で生臭さなどは無く、果実の甘みもあり複雑で独特な飲みやすい味に仕上がっている。またこの湖の中で眠るこの巨大な白蛇の影響か、目を凝らせば光を纏っているようにも見える。むろんこれは後から当時を思い返した感想だが、この後に言う言葉は同じだろう。


「美味しい。」


心の中からそう思った。


「ハッハッハッ、そうであろうそうであろう、ワシの幽世では山の精気を暴走させ酒精を生み出しておるがそれだけではこれほど強い酒は造れぬ、そこでこの酒精を空気中に漂わせ、その酒精を雨としてここに降らせているのだ、水の方は雨雲として現世に捨てておる。要は我の権能で酒精と水を分けておるのだ。そこに我好みの果実や捧げ物の穀物などを漬けておる。」


 巨大な蛇から発せられる言葉は酒の事になると早くなる。それは後に人の世で蒸留と言われるようになる技術に少し似ていると感じた。


「また酵母以上の強い酒精を作れる酒虫という魑魅魍魎の類も手に入った、水もまた良い物でここに集まる水自体が我等水神らの加護の込められた清き水、少し話過ぎたか、さて本題に入るとするか、我は貴様が気に入った。ちょうどこの酒の管理を任せれる者にこれを譲りたいと思って居ったのじゃ、どうした目を見開いて、鳩が豆を投げられたようではないか。」


 話を聞くだけで良く解かる。目の前の存在がどれほど酒を愛し、ここまでの一品に育てるまでにどれほど時間と労力をかけたのか、ありえないのだ、たとえ天地がひっくり返ったとしてあの存在が酒を手放すとは思えないのだ。


「何故?」


「ん、ああそんな事を気にするのか、なあお主我がどのように見える?」


「白い蛇じゃないの……」


 いや白蛇に糸の様な物がくっついて、髭やたてがみだろうか、角も見えた気がする。まるで大陸の絵巻物に描かれるような龍のような、そこで自分がその龍の表面しか見ていない事に気が付く。深く覗き見る。集合意識のような、いくつもの蛇神と竜神が解けた鉄の様に赤く混ざり合いぶつかり新たな形を探している。


「こそばゆいぞ人の子、見るという事は他の行動より安易で難しく、感じ取れた以上は手遅れと言う無責任な物、神なぞ気まぐれもまた同じ、巡りあわせが悪かった、それが呪いとなるか祝福となるかは人それぞれ、そう言う物と諦めよ。」


 目の前の白蛇の豪快な笑い声に慌てて視線を逸らす。だが今の僅かな時間でわかったこともある、もはや長くないのだこの蛇は、むろん変化しながらあり続けるだろうが、その意味が変わろうとしている。これまで以前の意識が残っていたのは蛇の特性か、それとも元々の神格が高いのか、強大な存在である事が良く解かる。


「目も悪くない、それなら宝の方も譲ってみるか、人の子名前は何という?」


 名前、それは何なのだろうかと首をかしげる。


「無いのか、であれば我が名付けるか、どのような妖になるのか楽しみじゃ。なあに管理できなくなったコレクションを味のわかる者に譲りたいというそれだけじゃ、名前を付けてやる。酒天、それが貴様の名だ。」


 奇妙な、フワフワとした気分だ、人間でなくて良いと言われた気がして涙がこぼれる。


「どうした、嫌だったか?」


 その見た目に似合わずオロオロと戸惑うその姿がおかしくてクスリと笑ってしまう。


「うれしくて。」


 泣きぐずりながら答えて言葉に、笑みを浮かべて何度も酒天と名を呼び、僕はそれをかみしめた。


「では酒天よ、手っ取り早く義理の親子関係を結ぶ、ワシの鱗でいいか、それで酒を飲み地面にたたきつけろ。」


 うなずきはしたが、こちらの困惑が伝わっていたらしい。


「戸惑っておるな、なあに自然の気に飲まれるお前も、穢れにまみれて消えるお前もどちらを見るのも忍びない、なんだ気が付いてなかったか、未熟よなまあ才はあるのだ磨けばよい、将来が楽しみだ。」


 もらった物を壊したくないという僕に、砕いた欠片を宝として持って欲しいというと、そっちかと人間の好々爺の様に笑う。僕はその言葉に安心し、鱗の盃を地面にたたきつけた。


それが八個に割れたのを見た白蛇は愉快そうに笑いうなずくと、その巨体は黄金の粒子となり風に吹かれ霧散する。


「やはりすべて受けつぐか、貴様は『八河峰大蛇(やかみねおろち)』の息子『酒天(のしゅてん)』となった、なに自由に生きればいい。」


 最後に激励の言葉を残して、ただ信じられなかった事を覚えている。なんの脈絡も無くただ生きて良いと言われた気がして、一言ありがとうと口に出し見送った。


「立派になったな酒天。」


 その言葉に僕は現実に引き戻させられる。否定の言葉が口を飛び出しそうになる。まだ妖だった頃の記憶を取り戻せていないし、何をしていたのかも覚えていない、けれど、その視線に僕は胸を張り、精いっぱいの妖力をひけらかす。


私が手のひらを上に向けると、黄金の粒子が集まり盃が姿を現す。八つに割れた鱗を重ね姿を変えた盃、私の名付け親、夜河峰大蛇が残してくれた宝物。


「でも父さんは……」


 消えたはずと続けようとして口をつぐむ、それを言えばまた消えてしまうのではないかと思ったのだ。


「なあに、ワシを知る者がおればこうしてワシの意識が出てくるという事もあるだろう。久しいな酒天、こうして湯船に浸かる宴会もまた良い物よ、再会の宴にふさわしい。」


どれほど時間がたったのか、霧が晴れるようにすべてが消えた、地平線の向こうまで広がる湯船も、夢幻かとも思ったが、残された盃が先ほどの出来事を肯定する。


私は露天風呂の縁に腰掛け、空を眺めながら酒をあおる。何処までも広がる山々の向こうに日が沈もうとしている。


私が自分の部屋に戻るころには西の地平線は赤く染まり、カラスの群れが怪しく染まる雲に影を落としていた。


「食事が来るまで少し休もうか。」


 前世の記憶、親を失った苦い思い出、はたまた別の記憶か、目を背けるように少し眠る。


『【八岐大蛇】昔、出雲国簸川上と申す所に、八岐大蛇という大蛇がいたが、この大蛇、毎年一人の娘を生贄として喰らい多くの酒を貢物として要求した。最後の娘である奇稲田姫が食い殺されそうになった時、須戔鳴尊現れこの大蛇酔わせてその首切り落とし、討伐する。

その大蛇変じて又神となる今の伊吹大明神これなり。

それは川を神格化した物であり、八岐大蛇の伝説は製鉄民族との交渉か征服の物語、名を変え神として祀られる。』

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