一章 継承するべき何か

一節 猫又旅館の誰そがれ

 柔らかな灯りが見えた、霧立ち込める中僅かな灯りを頼りに山道を進む、気が付けば太鼓橋の真ん中におり、濃霧の向こうにようやく建物らしき物の影が見えて来た。


 濃い霧に覆われ、ぼやけた提灯の明かりだけでは、この建物の全容を把握する事は出来ないが、入り口の位置へは簡単にたどり着いた。


「誰かいます?」


 戸を開く、視界に広がるのはオレンジ色の光、それに照らされた大正風味の受付、誰もいないのだろうかと、僕は奥の方へと声をかける。


「は、ん?ん?ニャハハ、随分ボロボロな様子で、ようこそ猫又旅館へ、少しばかり注文の多い店ですが満足の行くサービスを提供できると自負しております。はい。」


 黒猫の模様の着物を着た可愛らしい中居さんが、寝ぼけた様子で言葉を並べる。受付の方を見上げると、どうにもうつぶせに寝ていたのか、少女はハッとした表情でハンカチで口元をぬぐっている。


「旅館、こんな山奥に?」


 ポロリと疑問を漏らす。


「はい、秘境の温泉旅館と言う奴にございます。」


 呟いただけだが聞こえていたらしい、気に障ったのか少し強めの口調で返される。


 軽く謝り中に入ろうとして、足下がふらつく、私はつまずき落としかけた眼鏡をキャッチする。


「うん、頭が軽く、バランスが。」


「大丈夫ですか、随分足元がふらついているようですが、あれ?人間さん。」


「あ、いや少し崖を滑り落ちたみたいで、いや池に落ちたんだったか。」


 何でここに居るんだっけ?寝起きの様な頭が徐々にはっきりしていく。


「大丈夫ですか?」


 声をかけられ受付へと視線を落とす。


「そうだ帰らないと、帰り道を教えてくれないだろうか。」


 私は少し取り乱しながら質問を投げかける。


「ひゃ!?」


少女の中居が驚いた声をあげ、座っていた椅子からぴょんと飛び降り、奥の方の廊下に逃げ込もうとする。ふとその場から離れた方が良いのではという考えが浮かび、入って来た方にチラリと目線をやる。


「慌ててどうしたのかしらぺーちゃん、あらお客さんじゃない、ぺーちゃんもうちの従業員なんだからちゃんとしなさい、ほらお客さんも、そんな所に突っ立って戸を開けっ放しにしないでちゃんと閉めなさい。」


 私は、その言葉に従い、あわてて戸を閉めた。


「先輩?」


図書の先輩を思い出して首を振る。ただ似ていると思った。


日が暮れる。窓から差し込むオレンジ色の光は陰り、二階への階段が霧の様に底にたまった影に染まり、その奥に彼女が、白髪の少女が居た。


彼女は口元を目の様な模様の紫色の扇子で隠しており、青い生地の民族衣装を着こなしていた。


和服ではない、どちらかと言えば中国の方の衣装、何処か怪しくも心惹かれる不思議な感覚、夕日に染められた霧を幻視し掛けた所で、パチンという扇子を畳む音で現実に引き戻される。


「こんな時間に予約は無かったはずなのですけど、ああ成程彼ですか、そうですねひとまずその汚れた服を着替えてもらいましょう。」


 彼女は不思議そうに首を傾げ、一人で納得したのかつらつらと言葉を並べる。


「うちは注文が多くて窮屈かもしれないけど、悪いようにしないは、フフフ、ぺーちゃん、ちょっとお水を持って来てくれるかしら。」


白髪の女の人の後ろで固まっていた受付の少女が、ハッとしたように頷き走ってく少女を見送って、彼女はこちらに向き直る。


「実は道に迷っていて、そういつの間にか山をさ迷ってたんだ、その前の記憶が途切れている。たしか池の中で目を覚ましたんだ、辺りを見渡せば霧の中、さ迷いどうにか見つけた灯りを頼りにここにたどり着いたんだ。その前、残っている記憶は、確か電車に乗っていたのは覚えているんだが、」


 私は言い訳がましくあわてて言葉を並べる。何を慌てているのか、頭が痛い。


「それは大変でしたね、随分混乱していますし、もしかしたら頭をぶつけたのかもしれません、ええ事情は分かりました。ですがこの時間です、今から良ければ一泊していきますか?」


「ああいや、それより帰り道を……、ああ、もう遅いしそう言えば一泊いくらですか?」


 不安があった、何を慌てていたんだったか、そうだ随分としっかりとした旅館で、古くはあるが手入れは行き届いており、またぺーちゃんと呼ばれた、少女の中居さんの秘境の温泉旅館という言葉もあり一泊の値段に不安を覚えたんだ。


「そうですね、大変なようですし、両替の手数料を考えてこの位でいかがでしょう。帰りの電車賃は残ってますか?」


 値段はそこまでも高く無く、むしろ安いぐらいの物をさらに割り引いてくれたので、好意を受けて一晩泊まる事にした。


「ニャーちゃんや、ちょいとかごを持って来ておいでペーちゃんは受付にいてね、あと何組かお客さんが来るからね。」


 代表と呼ばれていた女性の言葉に、受付にいた少女と同じぐらいの背丈の可愛い女の子が浴衣の入ったかごを持って現れる。


「泊まるのであれば従ってもらいますです、うちは少しばかり注文が多いのですよ、まずは体を流してこれに着替えてもらいます。汚れた服は洗っておくのでかごにいれておくのですよ。」


 ニャーと呼ばれた少女がお客の案内をしているのを眺めて、代表と呼ばれた女性はその場から霧に紛れる様に消えた。


「ちょっと聞きたいことがあるんだけど大丈夫かな?」


「何ですか、言ってみると良いのですよ。」


 この辺りの事を聞いてみれば、ここは山の中の温泉旅館で少し山を下りた所に町があるのだという。


 時間を確認すれば7時前後、今から帰れないかと考えるが、土地勘も無いのに暗い山道を歩くのはと諦める。秋である今日この頃、日差しのあるうちは暑いが、夜はそれなりに冷えるだろう。はて、今は本当に秋だったか?


「天狗にさらわれるなんて話がある山ですから、また神隠しに合うかもしれませんよ。」


 考え事は目の前の少女の言葉に遮られる。遭難した事を神隠しなどと例えてると判断し、そうですねと私は軽く笑う。

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