二節 湯船の縁

「では今着ている物を空のかごに入れてください、洗濯しておくので。」


 そう言って男と書かれた青いのれんの下を通っていく、私もその後に続きのれんをくぐった。


 私が服を脱ごうとしたところで、隣で爪をいじる少女を見て、無言で手で追い払う仕草をする。


「はい?貴方の裸になんか興味ありませんですよ、さっさとかごを渡してください。」


 こっちに気がついた少女は、そう言って自分の爪に視線を戻す。私は文句の一つも言おうと思ったが、馬鹿らしくなってため息をこぼし、タオルで下腹部を隠して脱衣室を後にした。


 体を洗い室内の湯船には目もくれず露天風呂を目指す。


 湯につかった瞬間脱力した、浴槽の木の匂いが心地よい、どのようにここまで来たかは覚えていないが、数時間山道を歩いたのだ、訳の分からない状況に疲れを忘れていたが、こうして思い出してしまったものは仕方ないと存分に湯を堪能する。


 偶然なのだろうが、自分以外の客が温泉にはおらず、貸し切り状態と言うのがまた最高だ、日は山の裏に隠れ、雲に映る暗い血の様な赤色が、かろうじて夕方であると教えてくれる。私は浴槽のふちによしかかり、ぬれぬように置いておいたヒョウタンを……、


「あれ、いつ持ってきたんだっけ、そもそもこんなもの何処で手に入れたんだ?」


 そこにはヒョウタンと、ハスの花弁、あるいは仏像の台座の様な模様が掘られた木の、ハッキリとしない一つの盃が置かれていた、それを見た瞬間八つの盃が頭に浮かぶ、何故この盃……脳の奥がずきりと痛む。


 痛みを忘れようと酒を飲む。


「ほぉ、考える事は同じか。」


 露天風呂に入って来た大柄な男が私を見てそうつぶやく、私以外に人がいないせいか、その声は良く響いた。


 彼は逆立った長めの黒髪と威厳のある立派な顎髭が印象に残る大男で、勾玉のアクセサリーを首に着けタオルを腰布の様にまき、大きめな大量のとっくりと小さなおちょこの入った盆を持っていた。


「オレもこうして湯船につかり酒を飲みに来たってわけよ、食事の時に嫁に飲みすぎだとどやされたが、こうしてこっそり持ち出せたわけだ。」


 そう言って豪快に笑う。


「湯船につかって飲む酒がここまで美味しいとは思わなかった。」


 ポロリと感想が漏れる。目の前で美味しそうに飲む大男につられて盃の中身を何度も空にしてしまった。


「それで坊主はデートか、都に足を踏み入れたり、開かれる市に顔を出すっていうのが普通だろうよぉ、こんな山奥を選ぶとは変わってるが悪くはねえ、ここの食事と温泉はそこらの物とはくらべものにならねぇ、静かな場所だし夜はお楽しみでもすればいい。」


 残念ながら一人さみしく旅行中だと、もちろん食事と温泉の良さについては肯定しつつも、ちょっとしたトラブルでここにたどり着いたと話す。


「まあ災難に見舞われるっていうのはよくある事だ、ここに来るのは初めてなら夜神楽を見に行くといい、良い厄払いになるだろう。そこの山、見えるかあの灯り。」


 言われて初めて灯りに気が付く、参道の灯りだろうか、小さな灯りが列を作って山の中腹まで伸びていた。せっかく来たのだし見に行こうとぼくは心に決めた。


 大男の愚痴を聞きながら酒を飲む、娘の婿をいじっていたら髪を柱に結ばれて、気が付かずに家を壊したと笑っていたのが印象に残っている。


「ああ、クソ酒が切れた。」


 私は自分の酒をすすめる。


「うむここに頼む。」


 私は言われた通り、空になったとっくりに酒を注ぐ。


『八雲立つ 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を その八重垣を 八 八 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を』


 となりの大男は気分が良くなったのか鼻歌を歌い出す、歌詞など知らぬはずなのに、その声につられて私は口ずさんだ、いくつもの石が積み上げられ早送りで屋敷が建てられ、屋敷の完成を祝福するように昇る朝日が雲の雲海の向こうから顔を出し、光の反射で山一面に広がる稲穂が黄金に輝き出す。


 空高くの日が空を青く染め、白い雲が何重にも重なり合うその中に広がる世界にただ見とれていた。


 今、山々の影に隠れようとする夕日が、何重にも重なり合う雲を赤く染める。


「だいじょうぶか?」


 目がちかちかする。湯けむりを見間違えたのだろうかと頭を振る。


「すまんすまん、そりゃ神が歌えば景色が変わる。鼻歌とはいえ人には衝撃だったか、酒を飲んで気が緩んでおった。」


 そういって目の前の大男は軽く笑う、彼のとっくりが空になっている事から、思ったより時間がたっている事に気が付く。


「良ければ追加しようか?」


 ヒョウタンの酒が減らぬのが当たり前に感じている事に違和感をおぼえたが、酒で酔った頭は考える事を放棄した。


「そうだな、ワシが舞うのならもう一杯もらうとこだが、お前が飲め、ほれ顔が赤いぞ湯に当たる前にあがっておけ、にしても神の酒は久々だ五臓六腑に染み渡る。」


 指がふやけしわになっているのを見て、確かに長湯しすぎたと湯からあがり、軽く体を流して露天風呂を後にした。


「相変わらずさ迷っておるは、奴と酒を飲むのは久々だな、時代も移り変わり俺の側面が現世に現れる事も無いだろうとは思っていたが、どうなるかわからぬものだ、まあ理不尽だろうが、俺に目を付けられたという事で、舞の一つも踊って見せろ。」


 男は今度は聞こえぬようにつぶやき、入れ替わるように入って来た蛇と酒を酌み交わす。

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