第37話 君の為に
ミールは見ていた。レットモルと言う国を。そこで眠る者達を。
どうか起き出す者がいないように。無粋な侵入者が現れないように。
体の一部が凍った者達は今ではそれを受け入れて生きている。壊れた城も直された。事件は過去として今に繋がり、誰もが明日へ歩いている。
進めていないのは――他者の為に誓った子ども達。
ミールが愛してやまない三人の子ども。
彼が残酷だと伝えた聡明な王女様。
彼が嫌いで嫌いで堪らない白紙だった王子様。
「ミール」
「……ガラか」
「……クラウンはどうした」
城を見つめながら歩いていたミールに近付いたキノ――ガラ・テンティアは、シルクハットを胸に当てていた。赤い双眼は三つの銀の瞳を見つめている。
「走り出したよ。大事な大事な王子様の為に」
「それは、」
「行ってはいけない」
動きかけたガラの言葉を遮り、ミールは銀の瞳を細めている。止められた団長はシルクハットを被り、歯痒そうに唇を結んでいた。
「私達が行ってはいけない」
副団長は諭すように言葉を続ける。
団長は体の横で拳を握り、自分と共にサーカス団を支えてきた者の声を聞いていた。
「これは子ども達が解決すべきことだ」
「その子ども達を、危険から守るのが大人だろう」
「守られることなど誰も望んでいないさ」
「ッだが、」
「苦しまなくて良いと、頑張らなくて良いと、大人が決めるのは狡いじゃないか」
黒い上着がはためいている。そこから覗くのは握り締められた黒い拳。ガラはミールの表情に気が付き、深く呼吸をすることで黙るのだ。
ミールは城を見つめている。愛しい子達の明日を望んでいる。
愚かで優しい子ども達の幸せを、見守っている。
「子ども達には、子ども達の覚悟があるんだよ」
* * *
剣に思いを乗せたとして、それが相手に届く筈もない。
剣は剣だ。覚悟や信念を乗せた所で結局それはただの武器である。相手を自分の覚悟の考えで斬りつけ、傷つけ、先に倒れた方が負けると言うだけのこと。
だから彼は花を育てていたかった。自分の手で育てて、それを渡した相手が笑ってくれる綺麗な花。貰った相手も見た相手も、育てた自分も笑顔にしてくれる花が好きだった。
しかし彼はその思いを忘れた。考えを忘れた。だから剣を取って花壇を捨てた。周りの優しさに答えたくて、ロシュラニオンになりたくて。
その姿を見つめた者がいる。少年は剣が嫌いだったと知っていて、花が好きだったと覚えている者がいる。
例え本人が忘れてしまっても。その感情をもう思い出せなくても。花を育てるのをやめても。剣を持つようになっても。ロシュラニオンが幼い自分を知らなくても。
少年を覚えている少女がいる。少年と明日を語り、未来を笑った踊り子がいる。
彼に恋をしていた少女は知っている。
優しい王子を。穏やかな毎日を。
あの頃が戻ってこないことも知っている。自分と夢を語ってくれた少年が、もういないとも知っている。
無くしたものは戻らない。奪われたものは取り返せない。取り返したとしても意味は無い。
それを知っているから、彼女は目覚めさせた少年の幸せを望むのだ。
どうか幸せで、どうか笑っていて。どうか、どうか、どうか、と。
「クラウン、お前はアイツを殺せるか」
「殺せるよ」
リオリスの糸を
クラウンはリオリスとの距離を詰めようと足を踏み出す。しかしその進行はロシュラニオンの剣に遮られた。
「ちょっと。二対一でもリオに考える時間をあげるのは分が悪い」
「俺が殺る。お前は援護しろ」
「はぁ?」
クラウンから低い声が零れていく。不満を隠せない道化は隣を見上げ、前だけ見据える王子に意見した。頬を怪我してしまった大事な人に。
「ふざけんなよロシュラニオン様。あいつは私が殺す」
「命令だ、クラウン」
「こんな時に命令だなんて狡いよ? ロシュ」
ロシュラニオンに答えたのは唇を噛み締めたクラウンではない。黄金の瞳を輝かせるリオリスであり、彼は勢いよく指を振っていた。鋭く、王子を捕まえる為の糸が飛ばされる。
クラウンはロシュラニオンと同じ方向に躱し、王子の言葉に頷いてはいなかった。
「お前はどんな覚悟でリオリスを殺すんだ。王子として? 総騎士団長として? そんな肩書きに私の覚悟は譲れない」
「俺はロシュラニオンとしてリオリスを殺す」
「記憶を奪った相手としてか」
「お前を泣かせる原因を作った相手だからだ」
ロシュラニオンの答えにクラウンの言葉が止まる。道化師は迫った糸を見つめ、自分を抱えた者にも気づいていた。
「俺自身も、殺したい奴の中に含んでいるがな」
クラウンを抱え、糸を躱したロシュラニオン。肩に担がれた道化はすぐさま地面に降り立ち、剣を構え続ける王子を見ていた。
「ロシュラニオン」
「安心しろ。自分を殺したいほど嫌いだが、それではお前の幸せが叶わないからな」
ロシュラニオンの剣先は揺るがない。リオリスに向ける赤い眼光は凍てつく怒りを宿したままだ。
目元を染めた緑の団員は、満面の笑みで王子の感情を見つめていた。
「嬉しいなロシュ。君がそこまでクラウンのことを好きになってくれて」
「あぁ、だからこの記憶はやれない。何があっても」
「だからこそ頂戴よ。何が何でも」
リオリスは地面を蹴ってロシュラニオンに向かう。王子は道化に目配せし、赤い視線は飛び降りてきた廊下に振られた。
クラウンは王子の意図を汲む。固く奥歯を噛み締めて、王子に向かうリオリスをクラブで牽制しながら。
後ろに距離を取ったリオリスは、クラウンが壁を勢いよく蹴って廊下に戻ろうとする様を見た。
読めない行動を止めようと糸を投げた団員は、殺気を感じて道化を捕まえられなかった。
リオリスとの距離を一息で詰め、素早く斬りつけるロシュラニオン。
ロシュラニオンに向かって糸を吐いたリオリスは、それでも逃げると言う選択肢を浮かべてはいなかった。
彼は兄の為なら何でも出来る。
自分の心臓に苦しめられる兄に、サーカス団を愛している兄に、どうか笑っていて欲しいから。
その為ならば、王子の恋の記憶を奪ってみせる。兄に治ってもらう為ならば、今度は無理矢理にでも食べてもらう所存だ。
ロシュラニオンはリオリスの腕を
両手の五指を交差させ、糸を叩き落とすリオリス。ロシュラニオンは即座に横に躱そうと足を動かすが、その動きは遅かった。いや、遅くさせられたのだ。
地面に撒かれている白い糸。それを見たロシュラニオンは奥歯を噛み、リオリスは笑っていた。
「君の記憶を頂戴、ロシュ」
リオリスは願っている。兄の明日を、レキナリスの幸せを。
「生憎だが」
ロシュラニオンは腰を落とし、迫る糸の網に触れる時間を遅くする。ぎりぎりまで、ぎりぎりまで。ただ道化を信じる行為として。
赤い瞳は廊下から飛び出した付き人を見る。廊下に放置していた短剣を持った、奇抜な道化を。
「俺はもう――何も無くせないんだ」
リオリスの左掌を貫いた短剣がある。
鋭く血飛沫が舞い、ロシュラニオンは自分の言葉を信じた道化を見つめていた。
虚を突かれたリオリス。クラウンが
ロシュラニオンは触れた糸が柔く、軽く、剣で切れるほど脆くなっていると諭る。自分に纏わりついた糸の残骸を取り払う王子は、風船をクッションにした道化師に視線は向けなかった。
地面に
「あぁ、駄目だ。駄目だ、駄目だリオ。これじゃ足りない。お前の腕を折って足をもいで、体を串刺しにして、私はお前を殺したい。ラニを殺したお前を、あの子を怖がらせたお前を、あの子を守れなかった私と同じように殺したいのにッ」
リオリスの後方に立つクラウン。道化師はホルスターから出したクラブを振り、剣として抜いていく。ロシュラニオンは眉を
歪に脱力したクラウンもまた、ロシュラニオンを見つめている。
「なぁ、王子様……私がリオを殺したら、君は――幸せになれないの?」
クラウンは憤怒を抑え込もうと呼吸する。その声は今にも感情を爆発させそうで。
それでも、それでも、どう頑張っても――彼女の一番は彼だから。
王子の幸せだから。
ロシュラニオンはゆっくり歩き出していた。
「なれない」
その答えが、クラウンに剣を振らせない。今すぐ首を刎ねたい相手が目の前にいるのに、殺したい相手がいるのに、恨みを募らせてきた相手がいるのに。
「クラウン――家族を殺す覚悟なんて、しなくていい」
ロシュラニオンは俯くリオリスの首に剣を向ける。パラメルの少年は血が流れる腕を動かさず、溢れ続ける血液が月光に照らされていた。
クラウンは剣を体の横で握り直す。心臓は破裂しそうなほど激しく脈打ち、肩は小刻みに震えていた。
(殺したい、殺したい、ラニを殺したコイツを。ラニ、ラニ、優しいあの子を、怖がりなあの子を殺した――リオをッ)
――アス!
――クラウン
それでも、思い出してしまうから。
アスライトと笑っていた少年を。
クラウンと共に歩んできた家族を。
緑の少年を見下ろして、道化師は叫び出したくなる。
八年抱えた憤怒を。
八年以上共にいた、家族に向けてしまいたいのに。
「りお……」
リオリスは顔を上げない。
クラウンはそれが答えだと知っている。目の前で起こっていることこそ真実だと理解している。
ロシュラニオンは犯人の首筋に剣を当て、持ち手を握り直していた。
「――俺だって、簡単に殺されるような考えでここにいない」
不意に、肌を震わせる低い声が零れる。悔しさと怒りを滲ませた声は、今までクラウンもロシュラニオンも聞いたことが無いものだ。
顔を上げたリオリスの瞳が、燃えている。黄金が歪んでいる。
ロシュラニオンは赤い双眼を細め、パラメルの口の端から零れていた糸に気づくのだ。
細く細く、視認すら難しいほど細い糸。
月光に照らされたそれを見て、ロシュラニオンは剣を素早く引いている。
リオリスの首に巻かれた糸。何も見つけないまま剣を振り抜いても、刎ねることなど出来なかっただろう。
クラウンはそれに気づき、自分ならば背中から狙えると言う状況と、それは駄目だと言う叫びに挟まれた。
その一瞬の迷いでいい。
ロシュラニオンは首ではなく、リオリスの左胸を見る。
クラウンは呼吸を止め、剣は振り抜かないと決める。
片膝を立てたリオリスは大きく口を開けていた。
「レキ兄の為なら、俺は、何だって出来るよッ!!」
左手の短剣の持ち手を噛み締めたリオリス。少年は勢いよく左腕を振り、顔を反対側に動かすことで短剣を引き抜いた。
血液が溢れて芝を汚し、刃は赤黒く汚れている。鋭利な穴が開いた掌は痛みに
リオリスは右手の短剣の持ち手も噛み締め、自分に向かって跳んだ道化師を振り返った。
その勢いで右の短剣も抜け落ちる。リオリスの指から溢れた糸は両掌の止血に動き、白い糸は赤く染まった。
短剣を口から離し、落ちるそれを握り締めた少年。
クラウンは剣を突き出し、勢いよく短剣で薙ぎ払ったリオリスを見ていた。
掌を貫通した傷も止血して、短剣を握り締め、まして振り抜くなど――
「出来ない訳、ねぇよな!」
「当たり前だッ」
地を踏みしめてリオリスは立ち上がる。
「兄さんが元気になるなら、兄さんが明日を生きてくれるなら、兄さんが、ッ幸せになってくれるなら!!」
リオリスの黄金の瞳は、自分に剣を叩きつけようとする王子を見る。研がれた剣を二本の短剣で受け止めたリオリスは、両掌から滲み続ける血液にすら顔を歪めなかった。
「俺は君の記憶を貰う。思い出を貰う。恋した気持ちを貰うッ!!」
「それでは、クラウンが幸せになれない」
リオリスと鍔迫り合いをするロシュラニオン。赤い双眼に隙は無く、リオリスの両腕が微かに震えた。
ロシュラニオンはそれでも力を緩めない。自分の覚悟を貫き続ける意思を持つ。
「俺が傷つくこと、俺が幸せにならないこと。それはクラウンが幸せになれない結果になる。だから何もやれない」
「クラウンが俺を殺すのを許さないくせに」
「アイツにこれ以上背負わせてどうする」
クラウンの両手が震える。お互いの刃を弾き合った王子と団員は、勢いよく距離を取り合った。
「クラウン」
ロシュラニオンはリオリスを見つめている。それでも、声はクラウンに向かっていた。
「もう、背負わなくていい」
クラウンが息を呑む。
「お前はもう、十分背負っている」
震えた道化の剣に迷いが無いと言えば、それは嘘だ。
「だから、これは俺に背負わせろ」
王子は知らない。青い左目が滲んでいると。二本の剣を握る手から、今にも力が抜けそうになっていると。
リオリスは両手を脱力させ、王子の隙を探している。道化師が迷う今が好機だと信じて。
ロシュラニオンは剣を構え、友だと思っていた相手を見つめていた。
「――もう一回、死んでよ、ロシュラニオン」
パラメルの少年は、苦く言葉を吐き出した。
足を踏み出し、全ては兄の為にと揺るがぬ覚悟を持って。
「レキ兄の、為にッ!」
「――リオリスッ!!」
そうやって走り出そうとした少年を、止める声がある。
反射的に三人が顔を向けた先には、予想していなかった者がいるから。
左胸を押さえ、必死に呼吸している青年――レキナリス。
彼の肩を支え、口から仮面を外す王女――ランスノーク。
月光は、彼らを冷たく照らしている。
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