第7話 ただ一人に許されたい
ミール・ヴェールと言うコルニクスに、ロシュラニオン・キアローナを起こすつもりはなかった。更々なかった。
彼はガラに恩はあるものの、レットモルの王族に愛着も恩も無かったからだ。
今までロシュラニオンを起こすように頼んだ者達に彼は頷かなかった。彼らはロシュラニオンが起きることを望むと同時に、王達への恩返しや平和を望んだからだ。
それは真に王子を思っていない。王子のことだけを思っていない。だからミールは拒絶した。大人の建前や根底にある考えが、ロシュラニオンの為だけでないことに吐き気がしたから。
だから大人のようにアスライトが願えば、ミールは首を縦になど振らなかった。
しかしアスライトはいつ見ても、何を言っても、ロシュラニオンのことしか想っていなかった。
自分が悪いと責め立てて、王子の幸せしか願っていなかった。
王がどうだ、王妃がどうだ、恩がどうだ、使命がなんだと言う感情がそこにはなかった。
だからミールは折れたのだ。純粋過ぎる少女の感情に、頷かされたのだ。
右目を押さえるアスライトを抱えてミールは飛ぶ。
彼の翼は風を掴み、音もなくロシュラニオンの部屋のテラスに着地した。
部屋にはロシュラニオンの家族と従者達、ガラが立っており、衰弱していくロシュラニオンを囲んでいる。
「ガラがいるな……まぁいいか」
ミールは呟きアスライトを下ろす。少女は微かにふらつきながらも自立し、テラスに立っていた騎士達は目を丸くした。
「副団長殿、何用か」
「急を要する、そこを退け。ロシュラニオン王子を起こしに来た」
槍を傾け進路を塞いだ騎士。ミールは肩を竦め、室内のガラ達も副団長と小さな踊り子に気が付いた。
王はニアに窓を開けさせる。騎士は槍を引き、ミールは澱みない歩みで室内へ進んだ。
アスライトは体の各所から冷や汗を流しながら副団長に続く。
「ミール、アス……ッ、お前まさか!!」
一瞬で事を理解したガラがミールの胸倉を掴む。コルニクスは金色の目を細めると、姿を映す瞳以外を閉じていた。
「退け、ガラ。既に誓いは立てられた」
「な、にを」
「アスライトの覚悟を踏み
ガラの顔から血の気が引く。団長は青い少女を見るとすぐに支え、右目を押さえ続けるアスライトを凝視した。
団長の鼓膜の奥で、心音が徐々に大きく早くなっていく。彼の喉からは呼吸音が漏れ、こめかみには玉の汗が滲んでいた。
「ッ、あす、らいと……」
「団長、私はいくらでも怒られる。罰だって受ける。ラニが起きるなら、それでいい」
アスライトの左目は真っすぐロシュラニオンを見つめている。
ガラは首を弱く横に振り、少女を逞しい腕で抱き締めた。
ランスノーク達は困惑した顔色で団員達を見つめており、ミールは瓶から青い眼球を取り出してみせる。
「それッ」
ランスノークが身を乗り出した瞬間、王妃と王は同時に娘の目を塞ぐ。白くなった二人の顔は信じられないものを見るようで、ミールは無感動にロシュラニオンを見下ろした。
「私は導く種族、コルニクス。アスライトの覚悟を受け、ロシュラニオン・キアローナを
「こる、にくす」
王は呟きガラを見る。アスライトを抱き締めている団長は何も言わず、ニア達も深い呼吸を繰り返していた。
王と王妃はランスノークを抱き締め、新緑の瞳を持つ母は唇を震わせる。
「コルニクスと言う種族でしたら存じております。しかし、それは、その、手にあるものはッ」
「これは代償だ。導く為には光がいる。道を照らす為の明かりがいる。世界を映す眼球は、導かれる者の先を照らすものなり」
ミールは王妃に答え、ロシュラニオンの上でアスライトの眼球を握り潰す。
赤い血が滴り落ちる光景に王妃は目を瞑り、王はその頭を娘の頭と共に抱き竦めた。
血液はロシュラニオンに当たる前に輝く粒となり、少年の額に染み込んでいく。
ミールの手についた眼球の残骸も光となって全て王子に吸い込まれた時、ロシュラニオンの体の上に青い炎が灯った。
「さぁ、夢から現へ歩きなさい」
ミールの掌がロシュラニオンの額に乗せられる。
青い炎は温かく部屋を包み、王子の指先が痙攣した。
それを確認した王は妻子から腕を離し、従者達も目を見開いている。
ガラはアスライトを支え、青い少女は服の裾を握り締めた。
「――ラニ」
弱く小さな声に答えるように、ロシュラニオンの指先が再び動く。
アスライトの左目からは涙が零れ、ミールの金色の瞳が光を零していた。
「君が目覚めるのを待つ者がいる。君の笑顔を望む者がいる。そちらに籠り続けてはいけないよ。こちらに歩いておいで」
穏やかなミールの声はロシュラニオンの体に染み込んで、少年は呻き声を上げる。それにランスノークや王妃達は立ち上がり、アスライトは祈るように両手を固く握り合わせた。
「ロシュラニオン・キアローナ。君が歩くべきは、こちらの道だ」
ミールの瞳が強く見開かれ、青い灯が弾け消える。
その場にいた全員が目を閉じて顔を背けたが、アスライトだけはロシュラニオンを見つめていた。
ミールは手を引いてフードを被る。そのまま彼は踊り子の横に戻り、王達はベッドを取り囲んだ。
「ロシュ!」
「ロシュラニオンッ!」
「ロシュラニオン様!」
誰もが王子を呼んでいる。
そうすればロシュラニオンの睫毛が揺れ、小さな呻き声が漏れていた。
少年の眉間に皺が寄り、胸が深い呼吸によって上下する。
アスライトは泣きながら息を詰め、ガラは少女の手を握り締めた。
ロシュラニオンの瞼が――ゆっくりと上がっていく。
虚ろな赤い双眼は自分を取り囲む者達を映し、動き、天井で止まった。
「あぁ、ロシュ、ロシュラニオンッ!!」
王妃がロシュラニオンを抱き締めて泣いている。王は口を結んで何度も頷き、王女は母と共に弟を抱き締めた。
「ロシュだ、ロシュが、ロシュが起きた!! ロシュ!」
ランスノークの歓喜の声を皮切りに、部屋の中に安堵が広がった。手を握り合って笑ったメイドや執事達は、城中に明るい知らせを伝えに走る。
王は息子の頭を慈しむ為に撫で、ロシュラニオンは天井を見つめていた。
ゆっくりと起き上がらされた少年を見て、アスライトは左目を固く閉じて泣いている。
「らに……おきたぁ……」
「アス、アスが導いてくれたんだよね?」
ベッドから飛び降りたランスノークがアスライトを抱き締める。青い少女は泣きながら王女に縋り、王女は涙を浮かべた顔で笑っていた。
「ありがとう、ありがとう、アス」
ランスノークはアスライトの顔を撫で、異変に気付く。踊り子は右の瞼を閉じ続けており、聡い王女は唇を結んだのだ。
「残酷な感謝だな」
ミールは踵を返し、ランスノークは緊張した顔を上げる。ガラは震える唇を噛み締め、アスライトは笑っていた。
「良かった。ラニが起きて。ほんとに、良かった」
アスライトはランスノークに抱き着き、王女は強く踊り子を抱き締め返す。
二人の少女は目を固く閉じて泣き、ミールはテラスの窓を開けた。
「――誰?」
不意に。
部屋の中に落とされた沈黙。
歓喜の波を乱した小石。
投げ落としたのは――ロシュラニオン。
温かかった空気は一気に凍り付き、王妃の頬を冷や汗が流れる。
両親に抱き締められていたロシュラニオンは小刻みに震え、酷く不安気な瞳で大人を見上げていた。
「ろ、しゅらにおん? なにを……」
震えた手でロシュラニオンの頬に触れた母。少年は目を見開いて体を揺らし、その態度に王妃も震えた。
ロシュラニオンの視界が滲み、呼吸が荒くなっていく。少年はベッドの上をゆっくりと後退し、首を横に振っていた。
「だれ? ここ、どこ」
「ロシュ……?」
ランスノークがアスライトから離れてベッドに駆ける。ミールは目を見開いて振り返り、三つの瞳で王子を見つめた。
ロシュラニオンは顔を青くして布団を引く。ガラは立ち上がり、アスライトはふらつきながらも足を踏み出した。
「ら、ラニ」
「呼ぶなアスライト!」
コルニクスは青い少女の前に立ち、部屋にいる者の視線は団員達に向かった。
ロシュラニオンの赤い瞳がアスライトの青い左目を見る。
「ぁ……」
アスライトは思っていた。ロシュラニオンはきっと混乱しているだけなのだと。
アスライトは願っていた。いつものように目を合わせれば彼は笑ってくれると。
(友達にはもう、なれないけど、戻れないけど、団員と観客ではいられるから。ラニが笑ってくれるように、私、練習、頑張るから。また、笑って欲しいから――)
そう、アスライトはこれから先を見ていたのに。
今を理解したロシュラニオンに、笑顔は浮かばなかった。
顔を歪めて頭を抱えた少年の両目からは、大粒の涙が零れたのだから。
「……ぃたい」
「ら、に?」
「いたい、」
ロシュラニオンが荒々しく髪を掻き毟り始める。涙を止めどなく溢れさせる双眼は見開かれ、呼吸は激しく浅く変化した。
「痛い、痛い、痛い痛い痛い、痛いッ!!」
「ロシュ!」
「ロシュラニオン!」
「ラニ!!」
「呼ぶなッ!!」
部屋に響くロシュラニオンの怒鳴り声。今まで彼が怒鳴るところも、ましてや大きな声を上げるところを見たことが無かった全員は息を詰め、泣きながら倒れた王子を見つめるしか出来なかったのだ。
アスライトの足が震えながら後退する。
ミールは少女を抱き上げると、上着に彼女を隠して翼を広げた。
「コルニクスの者、嘘偽りなく答えよ」
テラスの方を向いたミールの首に騎士達の槍が向けられる。
アスライトは目を固く閉じ、ミールは少女の髪を穏やかに撫でていた。
王はベッドの脇から離れ、低く威厳ある声で聞いている。
「ロシュラニオンに何をした」
「私は、少年を呼び戻しただけだ」
「ならば今のロシュラニオンの容態をどう見る」
ミールは銀に戻った瞳で軽く振り返る。
彼は気絶したロシュラニオンを視界に映した後、感情を読み取らせない声を吐いた。
「それは私が干渉するところに無い。導いた王子は既に中身が白紙であった」
「白紙だと」
「あぁ、白紙だ」
ミールは自分に向いた槍を一瞥し、王に視線を投げる。王の顔色は悪く、その感情をコルニクスは読んでいた。
「導いた者に感謝も出来ぬ愚者達が、今後どのように白紙に色を付けていくか。見ものだな」
王と王妃は気づいたように青い髪の少女を見る。ミールの腕の中で震えるアスライトは、必死に涙を堪えようと努力していた。
「アスライト……」
「この場にこの子は置けない」
ミールは王の呼び声を遮りテラスに出る。彼に向いていた槍はたじろぐように下ろされ、王がそれを咎めることは無かった。
コルニクスは空へと舞い上がる。
アスライトはその腕の中で、右肩を抱き締めていた。
「……副団長、また、また、私のせい? 私の誓いが、なにか、」
「あれは導き以前の問題だ」
アスライトは息を詰め、ミールを食い入るように見つめている。
「あの子には何も残っていなかった」
青い少女の喉が鳴った。彼女は渇いていく口内で唾を飲み込んだが、それでも渇きが癒えることなどない。
ミールはサーカス団のテントを見つめ、静かに事実だけを口にした。
「嫌な
「のろ、ぃ?」
「微かにな」
アスライトの左の瞳に感情が燃える。
少女は肩で息をし、震えるほど握り締めた掌からは血が流れていた。
「それ、どんな呪い……?」
ミールの銀の瞳が細められる、彼はアスライトを抱き直し、暴れ出しそうな少女に教えていた。
「――記憶を奪う、呪いだったよ」
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